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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:美の乞食に問う:醜さとは何か?)

美の乞食に問う:醜さとは何か?

このQ&Aのポイント
  • 美術品から、美とは何かを明らかにしたようという野心的なスレッドは、既に多く立っています。
  • しかし中でも、とある美に見開かれていない方の、名だたる美術品に関する罵詈雑言ばかりが並ぶスレッドを見て、私は考えました。
  • この人は、美について問いながら、何が美しいのかを論じていない。美については実例を上げることが一切できない。しかも自ら、美術品をほとんど観たこともなければ、美術館に行く気もないと公言している奇妙な方だ。では一体なぜ、美を知りたいなどというのだろう。

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  • MOG56222
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回答No.1

>(1)もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。 肉体単体を美しいとは思えない私としては、誇らしげなギリシャ彫刻などは駄目ですね。 (2)醜さとは何かを定義する。 見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異さでしょうか。 (3)その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。 売り出しの女優さんが持つエキゾチックさが醜さの極地で、見慣れたり内面を理解したりするにしたがって美を感じていきます。 その後、冷静になって、あるがままに観れたとき、何とも言えない侘びさびを感じてしまいます。 結局、美は愛着であり煩悩であるのでしょうが、美に醜さを観、醜に美を観るというプロセスは煩悩を越える真美であると思うのです。

noname#145704
質問者

お礼

ありがとうございます。そして徹底した態度を示した見事な回答です。 >見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異さ。 これが醜さの定義ですか! 美の定義かと一瞬思いましたよ。そしてこの最たるものが、ギリシア彫刻であると仰る。 確かにそうかもしれません。つまり評論家らは、ギリシア彫刻を美と思うわけでしょうが、「見慣れていない、洗脳されていない、必要としない状態が生み出す奇異」な美がある、と言うかもしれない。そのまま裏を返して、人が美と思うものを醜さと呼び換える。驚きました。この回答だけで、スレッドを作った意味があったというものです。 そして美の序列をつけるにあたっては、一人の女優を例に出す。同じ女優でも、初期の慣れない時が醜い、とは。実によいですね。 私が御回答から引き出した定義とは、 ――初々しさ、未成熟は醜さである。

noname#145704
質問者

補足

さて、そろそろ締めることにいたしました。約五十もの投稿、どうもありがとうございます。BAをNo1と選んだのは、おどろおどろしい質問に対して、最初に回答してくださったからであり、また、私の考えた遊戯の仕掛けを、よく理解してくださっていたと考えるからです。 一般的には、未熟や初々しさを、特に異性に対しては媚態と考える方が多いのではないかと思います。いわゆる、萌え、あるいは海外で浸透しつつある、Kawaiiという概念です。その一方、それが醜いのだとおっしゃる。まさに独自の視点がよく出ていると思いました。結局、このスレッドの課題になっていたのは、主観的な問題であって、社会的な通念としての「醜さ」とは違うのです。 なぜこのような問いのたて方をしたのか。他の投稿者からもちらほらと意見が出ていましたが、所詮、美や醜は定義できないものです。他人が美だというものが、自分にとっては醜さとなりうる。このスレッドでは、そういう愚痴をこぼし合って、和気あいあいと議論をしたいと思ったのでした。ここで私が拾い上げた醜さの定義を拾っておきます。 ――無自覚なまま、他人にオナニーを見せつけること。 ――イドラに踊らされること。 ――諍い。 ――周囲を殺して、自分が目立とうとすること。 ――他を見下すための自己顕示。 ――実存は本質に先立つ、と開き直ること。 ――作品に注ぐ愛情の欠如。 ――ナルシシズムに耽溺すること。 ――他人を不毛さに巻きこむこと。 ――飢えた虚栄心。 ――初々しさ、未成熟。 醜さとして提示しているが、もし美学に関心がある方なら、一瞬で、どれもが、とある芸術家の美意識に結び付くものだと見抜かれるでしょう。オナニーでさえも、ジュネであったら、的確な意見となるでしょう。イドラに踊らせることも、バロック期の芸術家ならば、望むところ、と言えないでしょうか。私としてはこれまで建てた問いの中でも、なかなか豊かな収穫があったと思います。 さて、美の乞食が乞食ではなくなるとはどういうことか。この身近にある醜いものに愛情を注いでみる、というのが一つの答えです。無論、私はそれを声高に主張するお節介な趣味はありません。しかし、一つの可能性として、もし醜さの中に美を見いだせるようであれたら、世界が変わって見えるだろうな、ということくらいは、言えそうなものではありませんか? 私の趣旨は非常に、単純なので、もう看破していらした方もいるかもしれませんが、こうやって敢えて定式めいたものを出すことで、心の中にある感覚を言語化し、自分からつき放してみるための契機となれば、と思ったのです(aliénationといいますか)。しかしその中でも個人的に、諍いに美があるとは、ちょっと考えたくありませんね(笑。やはりダメなものはダメか)。 最後に、このタイミングで締めることにした理由について触れておきます。その理由はいくつかありますが、議論が十分になされたということに加え、一つには、美の乞食が自分だと名乗り出たNo10の方が、未だに自分だと考えているらしいと判明し、思いこみの強さを気の毒に思い、また質問そのものが楽しいものではなくなってしまったからです。上述の醜さは、一つくらいは誰にでも身に覚えがあることだが、全部自分のことだとお考えになってしまった。そういう醜さの権化みたいな人がいるものでしょうか。いや、いないでしょう。要するに、彼が美学を何にも勉強していないから、全部、自分のことに思えるだけなのです。これはこれで哀れだと思うべきでしょうか。 しかし、私は彼に対して、まったく関係ない、と伝えたはずでした。それで、本当に自分のことだと考えているのかどうか、私は疑問に思っています。というのも、彼はこの手口で、複数回、関係ないことを関係あると言って、私を追いかけてきているからです。口実を作り、是が非でも私と議論したいのかな?と私には見えています。普通なら、「関係ない、あっそ」で終わりだし、勘違いした投稿を消してしまえばいいのだが、どうしても「関係ある、日本のためだ、議論しろ」とおっしゃる。勝手な理屈をこねた、ネットストーカーの類と私には見えています。私のアカウントは、これで様々なカテで交流ができていたため、まことに残念ですが、ストーカー対策として、私はアカウントを消してしまうことにしました。 ――というわけで、リトルキスちゃん、雨合羽さん、マシュマロさん、木造の親方、では、さようなら。良いお年を、ジョワイユーズ・フェット! (※パリだと、年末年始の挨拶が、ジョワイユー・ノエルではなく、ジョワイユーズ・フェットJoyeuses fêtes「よいお祭りの日々を!」というようです。クリスマスがキリスト教だから、多国籍に配慮して、わざと「お祭り(複数形)」というんだろうな、と感心していました)。

その他の回答 (46)

noname#202494
noname#202494
回答No.18

No.4です。お礼をありがとうございました。 誤解されるかな、という危惧があったのですが、やはり誤解されました。私の日本語が拙いせいでしょう。作文の練習のための投稿ですのでご容赦ください。 私は、カラヴァジォという人は、精神的な病に罹っていたと思うのです。 ただの耽溺主義者とは規模が違います。何をどう投げてもブーメランのように自分のところに戻ってしまう。それを私は醜さの定義としたのです。内にこもって、自らを慕い、聖書の物語のヒーローに自分を投影するのです。 自分至上主義、(隣人)愛の徹底的な否定、神を恐れぬ傲岸不遜。 もう少し上手に表現できると良いのですが、更なる説明はキリスト教の教義の説明になり、望まれていないところでそれをするのは、気が引けますので、これでご勘弁願います。 そういえば、”人間失格”を書いたころの太宰治が少しだけ似ているかもしれませんが、彼は弾むように明朗な”走れメロス”も書いています。人間、自分だけを見ていると、生きてゆけない、という手本だと思います。

noname#145704
質問者

お礼

いえいえ、私の書き方が悪かったのかもしれません。 >ただの耽溺主義者とは規模が違います。 >自分至上主義、(隣人)愛の徹底的な否定、神を恐れぬ傲岸不遜。 ここで「耽溺」という語を選んだのは、そもそも私なのですが、決して軽視するつもりではなかったのです。いろいろ芸術家の名前を軽く並べたのがよくなかったのかもしれません。村上隆などは、軽薄でしたね。私としては話を広げたいという希望を持っていたのです。しかし、いろいろ並べたおかげで、Ciapolpoさんのおっしゃる地点が明確になったという怪我の功名がありますが。 もっとも弁解すると、私の考えるに、カラヴァッジョ的な話は、実は、そう特殊ではないのです。ロマン主義の芸術家に多いのですが、聖書の物語に自分をなぞらえ、聖人の位置に自分が収まってしまっている者らが多くいるのです。というのも、民主主義の中で教会の権力が剥奪されるさなか、司祭たちにとって代わり、民衆を導こうという欲求がロマン主義にありましたから。カラヴァッジョの場合は、少々、時期的にみると早いので、かなり異端だとは言えますが、芸術家が聖人とみなされるというロジックはかなり古くからあったのです。 これが現代的なテーマか否か、と言われると、どうでしょうね。ジャン・ジュネがいます。彼は、二十世紀初頭で小説家ですが、何を書いても、自伝的になってしまいます。そして、自らを聖人になぞらえます。サルトルが『聖ジュネ』という著作をあらわしたそのタイトルだけでも、窺い知ることはできるでしょう。もちろん私はかなりジュネを読んだのですが、 >自分至上主義、(隣人)愛の徹底的な否定、神を恐れぬ傲岸不遜。 はどれも当てはまります。しかしカラヴァッジョが私には、思い切りの良い生き方であると感じられるのに対し、ジュネの場合、盗み・売春をする自己正当化を聖書の理屈によって行うわけで、さらに強烈なナルシシズムを放っています。これは、言葉は悪いですが、オナニスム的などと評されます。 もっとも、私は残念ながら、あまり、ジュネの作品を愛好できませんでした。彼の身勝手さを愛することができない限り、感動はできないでしょう。私はそのすべを見出すことができず、「怖い作家だなぁ」という思いを捨てきれませんでした。彼は愛の作家だと自分では思っているらしいが、私にはそう受け取れませんでした。愛という言葉をめぐって、私が想定することと、彼が想定することが、かけ離れているからです。もちろん文献などを読んで溝を埋めようとしたわけですが、根本的な感受性の問題で、溝は空いたままでした。カラヴァッジョも、彼なりに愛は描いているのでしょう。しかし、Ciapolpoさんは、到底その理屈に承服できない、というところなのかな、と想像したのです。私はカラヴァッジョは、まだ受け入れられます。というのも、あの粗暴さに、開き直りと潔さを感じ、そういう人もいますか、という距離を置けるのです。それに絵画ですから、そうそう長く観ないでもよいのですし。ジュネは嘔吐するかもしれません。もし、恐ろしげなものにご関心?があったら、『花のノートルダム』や『泥棒日記』などをお手にとってみてください。この「醜さ」の系統の極致を振り切っていると思います。 太宰治は……うーん。あれも強烈ですが、自らを聖人だとは考えないタイプだと私には思えます。人間失格でも、俺がいるから悪いんだ、俺がいるから、と言って、主人公は失踪するのです(「俺」がいなくなったせいで周囲がもっと不幸になるという発想はない)。聖人はこういう潔さは持っていません。私は天上に消え去るが、森羅万象に溶け込んで世界を見守っている、とか何とか。連綿と理屈をこねて、我はともにあると主張するのです。死にゆく人が発する言葉ならわかりますが、そうではなく、日常的な離別の一つについてなのですから、少々あきれます。私は聖人それ自体には敬意をもっていますが、聖人に自らをなぞらえる言動は、何につけても、醜いなと感じてしまうのでした。 もちろん、Ciapolpoさんがお手すきなら、詳しくお話しを聞かせてください。様々な感受性をめぐって、私の勉強になりますから。繊細な配慮ができるかわかりませんが、もちろん、ご意見は尊重したいと考えています。しかし、あくまでこのスレッドは楽しみのためです。過剰なご負担になるなら、捨て置いてください。

noname#144822
noname#144822
回答No.17

拙文にいつも丁寧なお礼をくださり感謝しております。 ダンディについては、なぜかココ・シャネルが真っ先に浮かんだのですよ。 付き合っていた当時の男性達の美意識に直接感化されたのは言わずもがな、時代背景として幸運にも機能美が高く評価されたものの、特質すべきは現代に通ずるやはり彼女の好んで用いた黒い色調ではないでしょうか。 それは彼女の修道院育ちによって少なからず培われた潔い美意識であり、裏返せばそれは、自身の生い立ちの《分を弁え続ける》覚悟とも捉えることができます。 >日本の美術品にも、これくらいの配慮が欲しいな、とは思います。 はい、日本の古典作品というのは、恐らく作品の存在の存続などさほど念頭に置かれていなかったのではないでしょうか。 むしろ儚くうつろいそして滅ぶことを自明としていたと思われます。 絵巻物以上に屏風絵など幾多が消失したことでしょう。 それでなくとも、そもそもの保管や一般展示が容易ではないのですよね。 そういった鷹揚である意味無頓着な日本古来の観点は、何だか、先の日本の作品における非対称の美意識にも通じているように感じられます。 それは西洋に見出せる対称を忠実に描いた作品の陰画として描かれていった非対称性とは異なるものだったと察せられます。 京都の繁華街のど真ん中に小さな美術館があるのですが、その最上階の一部が吹き抜けで空が一部垣間見える和の空間となっています。 雨上がりの際に床の間や畳の上に観る作品はなかなかのものです。 仰っていらしたように、月明かりの下で鑑賞できたら言うことないでしょうね、きっと。 あるいは、バーゼルのベイラー財団のモネの作品から目をうつせば蓮池が望めます。 静謐で贅沢な空間を演出可能としているのは、やはり作品に対する愛情が不可欠なのかもしれませんね。 日本の場合、ことに自国の古典作品に対する国を挙げての自助努力がいまだに求められてしかるべきかと思えて仕方がありません。 ところで「装飾芸術」という言葉にデゼッサントの「さかしま」を想起したのですが、このタイトルはなかなかのものだとは思いませんか。

noname#145704
質問者

お礼

>ダンディについては、なぜかココ・シャネルが真っ先に浮かんだのですよ。 早々に質問を締めましたが、これは私の早計だったようです。というのも、シャネルの名前を想起しただけで、視点が広がったのですから。恥ずかしながら、私はボードレールの「女はダンディとは程遠い〈生き物〉である」という台詞が念頭にあって視野狭窄に陥り、ついぞ、思い到りませんでした。確かに、不利を認識している者であればある程、ダンディという戦略に打って出ますね。 ・貴族に比べてお金の無いブルジョワ、 ・差別されている女性、 ・学歴の無い建築家(若き安藤忠雄)、 など。ここに私は、現代的な不遇にある人間らを加えてみたいとは思ったのです。というのも、そうすることによって、敗けを覚悟した人間に、美が某かの生活の張りを心に与えられますから。もちろん、偉そうに議論を仕切る立場に身を置いている他ならぬ私自身、やはり上にあるものを感じ、そことのやりとりで何かの処世術の必要を感じているのですけれど。粋はよろしいが、これは上の者が下に接する時の処世術と思えます。もしマシュマロさんが、この者のダンディに心を斬られた、とお感じの出来事があったら、一つ披露してくださいませんか。 >むしろ儚くうつろいそして滅ぶことを自明としていたと思われます。 これもこれで、芸術家にしてみれば、潔さであり、ダンディズムなのかもしれません。「芸術には寿命があって、あたしの作品はもうダメだな」とおっしゃる方の方が、「私の傑作は何千年も生き残る」と豪語する方よりは、私は魅力的だなと思います。が、後の世代にしてみたら、惜しいことに違いありません。 >そういった鷹揚である意味無頓着な日本古来の観点は、何だか、先の日本の作品における非対称の美意識にも通じているように感じられます。 本当に、私もそう思いますよ。さすがに庭師のご経験を踏まえた質問と言うだけあって、よい質問だと私は感服したものでした。やはり経験が裏打ちしている問いは、重みがあってよいなと思います。 >静謐で贅沢な空間を演出可能としているのは、やはり作品に対する愛情が不可欠なのかもしれませんね。 これはお金が無尽蔵にかかりますものね。しかし、案外、フランスでも、自国以外の文化はあまり盛大に保存しません。ギュメ美術館などありますが、ちょっとがっかりするくらいの大きさでしたもの。日本も予算の配分を、日本美術にもっと回すべきだ、と私は思います(もちろん西洋美術も好きですが)。 >ところで「装飾芸術」という言葉にデゼッサントの「さかしま」を想起したのですが、このタイトルはなかなかのものだとは思いませんか。 そうですね。時代の潮流を見据えて、逆流させたという意味で、reboursとみなせるのですから。しかし象徴主義を、「ヘーゲル的な象徴段階への意識的な退行」などと言おうものなら、第一人者に大目玉を食らうのが、現状ではあります。私は非常によく似ていると思うんですがねぇ。もちろん、symboleという語に与えた定義は、時代や人で様々あって、ナイーヴに重ね合わせたら、文献学的に間違いが生じてしまうのでしょうけれど。

回答No.15

 ★(趣旨説明欄) (1) もっとも醜いと考える美術品や事物の具体例を挙げる。  ☆ もし趣旨説明に挙げられているような人すなわち  ★(同上) そして私はついに、それらしい結論を見出したのです。――知ったかぶりをしたいということだ。他人に「美」を我こそは知っていると吹聴したいのだ。  ☆ と規定されるような人にとっては 《美と醜》の定義や区別はあるはずがありません。  見るもの・聞くものすべてが ――たしかに知覚としては――見にくかったり美しかったりで過ぎ去るのであり それらのモノコトに意義を見い出したり思いを寄せたりすることはなく ただただ世間のクウキに応じて勝ち馬に乗る これだけをもっぱら思っていることでしょう。  ★(同上) (2) 醜さとは何かを定義する。  ☆ もしそれでも むしろそのようなシッチャカメッチャカの美学についても 定義の問題を真剣に考えるとするならば 案外ふつうにまともな答えも見つかるかも分かりません。  こうです。      見にくさは――けっきょく うつくしさと同じように―― 人に   よってその事例も定義もちがう。    しかも同じひとりの人にとっても 年代によってあるいはその   ときの内面的な状態や外側の情況などなどによって 感覚的な受   け取り方がちがって来るという定義になる。    しかもしかも 同一人が同じひとつの作品に向き合うというと   きにも ときと場合によって 美醜の判定が転覆することさえあ   るがごとく 定義も実感もちがうものである。  言いかえると さきほどのシッチャカメッチャカ氏は このような必ずしもその内容が定まるものではない定義や実態を逆手に取って いいように《臨機応変に》ふるまっている。こういうことではないか。  ★(同上) (3) その定義を応用し、さらに具体例を挙げ、醜さの序列をつける。  ☆ 以上の答えによるならば この問いは 無用になります。何でもありの序列となることでしょう。    *  ★(同上)( a ) 私は思わずつぶやきました。おお、何というスノッブなバカ者か。  ★(同上)( b ) ~~~~~  ただし、多くの人の場合どうするか。・・・ヘーゲルでもスタンダールでも、世阿弥でも利休でも、誰か文人の提案した言葉をあれこれ吟味するものです。・・・  しかし、私の出会った方は、そうした知恵もお持ちではないらしい。  ~~~~~~~~~~~  ☆ この( a )と( b )とは 矛盾しています。《スノッブ》なら 《知恵をお持ちでない》とは思われないからです。知恵を持たないなら スノッブとは言わない。    *   ★★(No.10お礼欄)( c ) ・・・というのも、これはあなた(=No.10の回答者)のことではなく、他の投稿者とのやりとりで生まれた言葉だからです。あなたには何の関係もないことです。  ◆(回答No.13)( d ) はからずもひとつの同心円の事象として、わたしも皆さんもその事象に巻き込まれているのを認めなければならないでしょう。  ★★(同上お礼欄)( e ) ~~~~~   > [ファンタスマゴリーの抽出]の仕種が、いかに現実の様相と乖離しているかに気付く手立てがない、というところが、ネットにおける仮想人類との結婚の罠ではないでしょうか(※抜粋のために統辞を少し変えました)。  ネットの場合、結局、独り相撲をとっているということにもなりますからね。  ~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ ( c )と( e )とは質問者の発言であり おおむね同じ内容を示しています。つまりは 質問が取り上げる事例は No.10の回答者のことではないという旨です。  ただし ( d )は どうでしょう? ひとつの解釈が( c )や( e )のようになるのは自由でしょうが それだけで済ませるか? 検討の余地はありましょう。《ファンタスマゴリ》の演出者は誰か? という問いです。    *  ★(趣旨説明欄) ~~~~  私は、こういう人は美に見開かれていないのだし、小さな美を与えてくれた世界に対する忘恩という時点でミューズが見捨てるのも仕方ないとみなして、放っておくのがよいと思ったのです。  が、逆転の発想があることに気付きました。  ~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《逆の発想》に水を差すような回答になってしまいましたが 以上が妥当な考え方になろうかと思います。

noname#145704
質問者

お礼

美の乞食云々が、まぁ言ってみれば、あなたも含むのだから、話をしろということですか。特にあなたを攻撃しているのじゃないが、あなたがそのone of themとして関心をもつ権利は有している、と。

noname#144833
noname#144833
回答No.14

仁科ですおやすみなさい 1)醜いものは自分。心。それを映す鏡や他者や下手な文。 2)他者に醜さを感じる理由は投影。自己に醜さを感じるのも投影。同族嫌悪。醜悪は無自覚な偽の善良さ。不調和さ。下手さ。無反省さ。低劣な心の維持と表現と影響。 3)その例は病んだ人。気が触れている福島県知事。復興したがる原発ムラ。似た者同士否むばか。ばかな自分。自分は完全には正しくないという自覚のなさ、自覚なき偽善、反省も本音交換もない環境、テレビ局と視聴者、感情と理性が未分化な大人、自分や自分たちはきっと普通に善良なはずという前提で平気に無責任に暮らす人々、大人で善良気取りなのは醜いしずるい、と、自らもよい子病の大人である私が思い、自分を善良だと見なしたい、すなわち醜さとは一一同族嫌悪。すなわち一一反面教師。すなわち一一鏡。現状や可能性としての自己の醜悪を映す鏡。ネット依存者とか未婚の男性とかばかとか 醜さに序列をつけるなら、しょせん同族嫌悪にすぎない、ということへの自覚がないことが最も醜く、しょせん仲間だなんて思うのも暗いですが、無知や醜さや冴えなさや下手さの自覚が本人から醜さを取り除く契機になりえ、同じ穴のむじな同士で偉さ正しさ比べあい嫌いあい敵対すれば調和は乱れ気分悪く離間の企ても忍びこみやすく、心を修め自覚の深化に従えば悪感情は減り寛容にもなりえ、譲れないところでは反面教師にもしあい、自己嫌悪にも陥りつつ、同族への敵意が減れば平和だし、減らないなら自他の醜悪さに怯え引きこもれば平和でつまらない美としての調和に近づき、醜かったり醜くなりえたりする自覚に基づいて自己を改めれば、より醜さを免れうるはずで、多少は美に足をつっこみ醜悪への契機を忘れなければ、自己調律が暮らしのなかで示され、うまくゆけばコピーされ派生していくかも精神性における美化、なんか胡散臭く 自分だけ美しいとか自分がいちばん醜いとか思う場合、対象愛がなく、自分だけ美しくて他はより醜いとするのはナルシシズムで、人への愛が少ない父親環境で育ったのか気質か、対象愛もなく自己愛すらもないとなんにも愛せないので朽ちます。 私はかろうじて自己愛だけはようやくある二次ナルシシズム段階で足踏みしてるらしく、対象愛が内発しないので自己にまつわることにのみ頭や心や言葉や性器が内発し、それらで自分をつっついて感じて悦に浸ったり悲しんでみたりしてばかりいますが ちゃんと心や社交力が発達し、十分な自己愛とともに対象愛をも獲得した人が、もし他人のナルシシズムを醜いと感じるとしたら、その理由は、自らも退行して二次だか一次だかのナルシシズムに陥る可能性があるからだと思います。気をつけないと、または気をつけても、自分もついついやがてそうなるという危惧、例えば他人への愛を失いけちになるかも、自意識過剰になるかも、調和しない物を拵えるかも、ふさわしくない方法を採用してしまうかも、低機能に陥るかも、ネットで不毛な幻を追いかけつづけることになるかも、など、そうなるような自分かも知れないという自戒に根ざした嫌悪感。緊張感。かったるさ。自分への警鐘。それが一一醜さ。 醜いものの例示 いつまでも未婚の男性(可能性としての自分)。 ポエムラインのない言葉。ポエムラインとは詩人でもある吉本隆明のいう自己表出。自己の琴線の根っこから湧く本音の通り道。ポエムライン外から出される言葉は白々しく醜く、テレビなどでほぼ全ての人が他人の書いた原稿どおりに発語している、その言葉は私のようにすかすかで、無責任で醜い。しかも無責任であることを自覚していなかったりする。人としての仕事を曲がりなりにもか純粋に善良にしおおせていると思っている。 現福島県知事。SPEEDI予測を隠し、民を囲い込み放射線被曝の検体にしつづけている、彼にはリコールより精神鑑定が必要に思う。無自覚そうだし。キチガイという点で投影・嫌悪・憎悪の対象。 雑談)とりあえず、ひかりのくに……っていうブログがありまして、熟女が好きな私は、熟女から三回くらい言及され、単純な幸せを感じながら、Webの向こうに高機能な美熟女を勝手に思い描いては醜い心をあたためてこれから眠るのですが、サイコロさんも言及されてました。ちっともあたたかくない言及のされかたでした。人の素敵さをなるべく信じたいあほな私にはよく分かりませんが、わりとせまいようなネットの一端が少しわかると思います。あとあんまり関係ないみたいですが、おじさんは単著ばかりでなく立派なしがらみ多いちゃんとした作家さんらしいです意外です。

noname#145704
質問者

お礼

仁科さん、こんにちは。お仕事、どうですか。おや、雨合羽さんの投稿を読んでお礼をかきこんだ後ですが、何だか似ていますね。結局、自己の幻影にどう向き合うか、が問題なのですから。 原発問題が、ただでさえ追い詰まっていた仁科さんに、さらに拍車をかけた、という近況報告があるように思えました。囲い込んで実験サンプルとは。福島県知事はなんて悪い奴なんだろう、と私が言っても、あまり面白くありますまい。原発の現場の方の視点の持ち方について、私はどうコメントしたら配慮があるのか、あまり考えがありません。 しかし、おそらく、仁科さんはステップアップすれば、「ダンディ」になれることでしょう。常に自分を監視し、正常なナルシシズムを破壊するくらいに自己を嫌悪するということなのですから。よくいえば、自分を客観的に捉えられる。だが、悪く言えば、自分のことを他人事のように見てしまう。自分を人形のように巧みに操ってみたら、面白いでしょうに。 >とりあえず、ひかりのくに……っていうブログがありまして、 ははは。ノーコメント。他人が私について作り上げた幻影に興味はありませんから。何かやっていれば、他人があれこれ言うのは当然のことです。私のこうした態度もある意味、KYなのかな。さて、ここでいう醜さとは、 ――無自覚なまま、他人にオナニーを見せつけること。

  • amaguappa
  • ベストアンサー率36% (140/385)
回答No.13

[題目の実証的で現実的な部分に急いで入りたい]であろうサイコロさんに、具体例を申し上げようと思いますが、はからずもひとつの同心円の事象として、わたしも皆さんもその事象に巻き込まれているのを認めなければならないでしょう。 かつてモデルニテにふさわしい早技は、素描、版画、印刷であることをボードレールの慧眼は指摘しましたが、さらにそこに写真が加わったのは間もない頃で、さらに100年のちには先の3点が零れ落ちてインターネットが加わることになりました。 わたしたちはインターネット時代のコンスタン・ギースを見据えながら、現代の現代性の美を求めることもできるのですが、しかし150年前のギースの目の前に広がったのは夥しい人間の生の営みの姿でした。したがって、空間と時間の具体的な側面に還元された人間の美について発見することは、批評家にとっても芸術家にとっても挿絵画家にとっても愉快であったでしょう。しかし今日のギースの目の前に広がるのは、空間と時間のあやに彷徨い込んだ人間の脳髄の他律的営みです。わたしが挙げる醜さの例とはこれです。 そこに[湯浴みする]人間についてはすでに語られていました。 いわく彼は[永遠に恢復期の人]であり、ボードレールはさらに幼児になぞらえます。[霊感は充血と何らかの関係がある]とは鋭い指摘です。パソコンの見過ぎと仮想的対象への対峙の習慣は、脳神経に奇妙な磨きと負担をかけ続けるでしょう。ついでに言えば、ダンディズムの対極へ向かっているとの教えもあります。[飽くことを知らぬ情熱、見ることと感じることの情熱に支配されているギ氏は、ダンディズムからかけ離れること激しいものがある]。このボードレールのいうダンディとは[飽いて無感覚になった男、あるいは身分制特有の打算と方針からその振りをしている男]ですが、まさに金持ち喧嘩せず、そのことなかれ的日和見でさえない冷やかな無関心の装いによって、いまインターネットの社交界の礼儀作法となっているものにほかなりません。しかしギースは脳神経に磨きがかかっていますからそのようには振る舞わない。[彼は滑稽におちいらずに誠実であるという、かほどに困難な術を体得している]とポードレールは褒め上げます。 [彼の情熱と彼の職務、それは群衆と(潜在的なネット住人である人類の仮想と)結婚することだ]。群衆は実体でした。新聞や出版物の読者は、国境を超えていましたが、まだ経済と地域社会と地域的慣習によって人間のくびきに繋がれていました。潜在的なネット住人の人類とは仮想です。これは奇妙な罠のようです。[世界を見ながら、世界の中心にいながら、世界に対して身を隠したままでいる]とギースを評した批評家は150年前に言いました。そしてその精神について、[飽くことなく非我を求める自我であって、この自我は、各瞬間ごとに、非我を、いつも不安定でうつろい易い生そのものより一段と生気ある影像イマージュにして、再現し、表現する]と読み解きました。 「群衆(ネット)のさなかにいて退屈するような人間は、馬鹿だ!馬鹿だ!私はそんな人間を軽蔑する!」 [まるで影像が自分から逃げて行くのを怖れているかのように、大急ぎで、いきおい激しく、活発に動き、一人でいながら喧嘩腰で、われとわが身を小突きまわしている]すなわちその仕種は[ファンタスマゴリーの抽出]の仕種なのですが、それがいかに現実の様相と乖離しているかに気付く手立てがない、というところが、ネットにおける仮想人類との結婚の罠ではないでしょうか。 ボードレールは役目を見抜きます。古典的審美眼にとらわれた常識人たちの軽蔑を被ることにはなっても、[誰か世界人が特に果たすべきものであった一つの機能を、進んで果たしたのだ」と。いまやこの湯浴みする機能は、才能や運や僥倖がなくとも容易に手に入るものになりました。醜さの序列については、ファンタスマゴリーの激しさと精神の迷妄の深さに現れ、ひとえに鑑賞眼によって決められてゆくでしょう。

noname#145704
質問者

お礼

雨合羽さん、どうもありがとうございます。見事なご投稿ですね。でも、かなり前提が多いお話の仕方になりそうです。他の閲覧者の方には、許してもらう他ないかな、と思っていますが。 >しかし今日のギースの目の前に広がるのは、空間と時間のあやに彷徨い込んだ人間の脳髄の他律的営みです。わたしが挙げる醜さの例とはこれです。 脳髄の他律的営み、ですか。ここがちょっとよくわかりません。ヴァーチャルな世界が脳裏に広がる。それが他律的である。うーん。「記憶の芸術」の項目になりますが、ギースの場合は、記憶してきた情報に責めさいなまれながら、それを自らの意思で制御しようと格闘するのでしたね。ギースのようになれなかった、「現代生活の画家」こそ醜い、ということでよろしいでしょうか? 結局、ギースは何をしたのか。あるいは、ギースは何をしたとボードレールは信じていたのか。これは現代を描きながら、そこに古典古代の美を見出したことにあると思います。ボードレールは常にレアリスム支持ではなく、描く対象を理想化するという古典主義の意義を認めていました。現代という古典と無縁な世界を描きながら、情報を自律的に操作し、古典風の美を自在に引き出したところに、ギースの功績があると言っていると思えます。 さて、現代の群衆がネットにいるというのは、その通りだと思います。匿名であり、いつ会うのかもわからない。どこかでちらほら、政治的な声も上がる。「危険な階級」という話しも出る。ネットに犯罪の予告が出たりする世の中です。ネットにこそ群衆がいます。おそらく、OKWaveは、それでも上品なところなのでしょう。ネットにおけるギースとなると、雨合羽さんもまた、そうですね。また私から見れば、猪突先生などは「現代生活の画家」だなと思います。何にでも楽しみを見出してらっしゃったから。リトルキスさんも、そうだな、と思います。私は案外、文句ばかり言っていますし、投稿する箇所をかなり選んでいます。たぶん、遊歩の才能はありません。しかし、単なる比喩として以上に、さらに「現代生活の画家」で示されたテーゼと言うべきものと、ネットのフラヌールが重なり合うのか。焦点は次でしょうか。 > [ファンタスマゴリーの抽出]の仕種が、いかに現実の様相と乖離しているかに気付く手立てがない、というところが、ネットにおける仮想人類との結婚の罠ではないでしょうか(※抜粋のために統辞を少し変えました)。 ネットの場合、結局、独り相撲をとっているということにもなりますからね。自分の心の暗闇に浮かびあがった相手の虚像が現実かどうか、わからない。その妄想を制御できてこそ、古典的にも、面会して話す人間関係と同じ快楽を引き出せるということでしょうね。すると、ここでいう醜さとは、 ――イドラに踊らされること。

回答No.12

こんばんは、iacta-alea-est2さん。 醜さとは、――面(つら)である。 【QNo.3903311もし記憶を参照しなかったら】No.27 http://okwave.jp/qa/q3903311.html カフェ それは… 悪魔のように黒く 地獄のように熱く 天使のように清く 愛のように甘い 汝の名は コーヒー シャルル・モーリス・ド・タレーラン=ペリゴール 「にらめっこしましょ わらうとまけよ あっぷっぷ」 あ、あ   し  ー

noname#145704
質問者

お礼

こんにちは。ここにもありがとう。 ・記憶 ・コーヒー ・睨めっこ 最後の二つは、なんとなくわかった。でも三つだと高度すぎる(笑)。リトルキスさんは、コレスポンダンスの詩人の末裔だと認めますよ。つまり様々な要素を並べ、融合反応を起こすのでしょう。 タレーランの言葉、もちろん知っていたけれど、天使のように清く、愛のように甘いって、どうやって彼は飲んだのだろう、と思ってみたりします。きっと、砂糖をかなり入れたんだな。だってフランスのコーヒーって、普通に注文したら、すべてエスプレッソだもの。日本でいうフツーのコーヒーが飲みたければ、カフェ・アロンジェって言わないとならないの。

回答No.11

こんばんは、iacta-alea-est2さん。 美の巨人の対極が美の乞食だとした場合… 醜さとは何か? セブンの映画をひとつ思い浮かべて… キリスト教の「七つの大罪」をモチーフ そのなかにあるひとつの罪Gluttony グラトニー 大食 痩せ細ったであろう美の乞食から美の巨人をみれば罪ある者と 目に映ることだろう。「醜い」と。 しかしながら、それはいわば美の乞食自身がもっとも忌み嫌う 「七つの大罪」のうちのひとつの罪Envy エンヴィー 嫉妬 を、美の乞食自身もまた罪を犯していることとなる。 互いに反発しあいながらも惹かれ合う共通項に美を見出すことはできないだろうか? 美とは何か?

noname#145704
質問者

お礼

リトルキスさん、こんばんは。たとえばボードレールの散文詩に「貧しき者らの視線」というものがあります。ここで貧者が、豪華なカフェにいるカップルを眺めている。女は貧者が醜いと思う。すると男は女の冷たさを醜いと思う。醜さは一度始まると連鎖するものです。醜さとは、 ――諍いである。

回答No.10

 質問の趣旨においてとうてい認めることのできない事柄が書いてあり 回答する筋ではないにもかかわらず ほかの回答者とのやり取りが積み重ねられ すでに或る種のデ・ファクト・スタンダードを成すとすれば そこにおける火の粉を振り払わずばならなくなる。  ★ ――周囲を殺して、自分が目立とうとすること。  ☆ 殺されるべき中身しかない者から見れば 殺している相手は それは目立とうとしてやっているのだと見えましょう。  ★ ――他を見下すための自己顕示。  ☆ 同じことでしょうが 見下ろされた者でも自己顕示しているわけです。  ということは 《殺された中身 あるいは 見下ろされた中身》 これらを問わずしていったい何を言おうとするのか?  ★ ――実存は本質に先立つ、と開き直ること。  ☆ これは 長い議論が要ることと それ自体は 中立の内容でしかないだろうこととで 保留してよい。  ★ ――作品に注ぐ愛情の欠如。  ☆ こんなことは ほぼ人の動機を根掘り葉掘りして詮索することにひとしい。無駄であり それは対話には無理。  ★ ――ナルシシズムに耽溺すること。  ☆ これも そう規定したところでやっと議論が始まるというたぐいの議論。自分がもっともかわいいというのでない人間は わが子に対する母親くらいを除いて いなかろう。  ★ ――他人を不毛さに巻きこむこと。  ☆ 巻き込まれるほうが わるい。  ★ ――飢えた虚栄心。  ☆ ?  ★ ――初々しさ、未成熟は醜さである。  ☆ ?

noname#145704
質問者

お礼

>そこにおける火の粉を振り払わずばならなくなる。 お気の毒に。身に覚えがありましたか。それは誰しも、一つくらい身に覚えがあることでしょう。私もありますよ。しかし、 >これは特定の何者かを攻撃したわけではありません。 と質問文でしておいたのですが。 実際、あなたの名前は出ていないし、関係のないことを書いてると思います。最後の二つに「?」ってありますが、あなたと関係ない事柄だから、「何の関係あるのか意味不明」ということで、「?」なのでしょう。最初から関係ないから、そりゃそうですよ。 私の方に、醜さの定義としたものについて、あなたと特に話す気はありません。というのも、これはあなたのことではなく、他の投稿者とのやりとりで生まれた言葉だからです。あなたには何の関係もないことです。

回答No.9

#7&#8です。 賽は投げられちゃった二世さん、有難うございます。 恥ずかしいことに、アッシは、この年になるまで、ダンディー=粋人、かと誤解しておりました。 今後の人生において、私をダンディー呼ばわりする奴が出現したら、ハッキリと抗議しようと思います。 どうも、ありがとうございました。 P.S.賽は投げられちゃった二世さんの原質問を読んでおりますと、日本語の文字や語彙を使いながら、なにか西欧の文章を読んでいるよな錯覚を覚えます。これは確信犯ですか?

noname#145704
質問者

お礼

ありがとうございます。今回の日本語は、確信犯です。おどろおどろしい感覚を演出できるかな、と思いまして、わざと、です。散文詩など、こういうものが多いですね。私は最近、ユーモアに惹かれています。同じ内容をいうのでも、少しおふざけをすると、人生楽しくなるな、と。本当はもっとコンパクトに問いは書けたと思いますよ。しかし、それをしませんでした。 九鬼周造の著作をチラッと読み返しましたが、やはり粋は、日本独特の美意識だそうですよ。西欧を見て回って、粋があまり理解されないことを認識したんでしょうね。何しろ西欧は階級闘争の国ですからねぇ。生存をかけて、やれることは、何でもやって当然くらいなのでしょう。仮にそれが美についてであっても。私は嘘はついていませんが、しかし普通に日本語で「ダンディ」という時は、「渋くてカッコいい」くらいの意味でしょうから、どうぞファンの方々を放っておいて差し上げて下さい。蘊蓄を語ると、時に、粋ではなくなるってこともあるでしょう。 日本にも生存闘争的な「ダンディ」を目指さんとする方は、増えていますね。ちょっと面白いなと思ったので、ダンディについて、他の質問を増やしてみたところでした。

回答No.8

#7です。 「醜さとは、機能に裏打ちされない造形のうち、他との相違を際立たせたもの。」 省略されている部分をかっこで補足しますと、、、 醜さとは、(一般に)機能に裏打ちされていない(無駄な)造形(すべて)であるが、(なかんずく)他(の同種の物)との相違を際立たせたもの。 まさに安藤さんの初期の駄作が好例ですね。 >これは金満家の自己顕示ではありません。 はい、これは安藤さんの自己顕示です。 長屋建てというのは隣家と壁を共有することで建設コストと建築用地を節約する建築方法です。住吉の長屋は隣家と壁を共有するという長屋の根本機能を否定してなおかつ長屋と自称するなど醜悪にして奇抜な建築家の自己顕示です。 外壁面に窓を付けないことはアフリカやモンゴルの住宅で当たりまえのことですから、これは構いませんが、材質として断熱性が低いコンクリートを使うことや、雨の多い気候風土なのに傾斜のある屋根を付けないなど近隣の住宅との相違を際立たせることが醜さの第二点です。結果として町並みを一層醜いものにしている点でもこの作品の醜さは本物ですね。 その醜さが故に、「住吉の長屋」のような住宅が日本の狭小住宅のスタンダードになれませんでしたね。 若き安藤さんは、美を捨てる代わりに売名を選び、愚かなる日本建築学会が安藤さんの作戦に引っかかったということです。 金持ちが美に貢献する方法もありますよ。 それは、私財を投じて伝統建築を今に再現することです。 日本の金持ちなら日本建築、ドイツの金持ちならドイツ建築でよろしい。 日本の伝統建築では現代生活に不便な面がありますが、カネがあれば、日常生活の利便性を一部に完備しながら全体として伝統建築の様式を後世に伝えることができますね。大きな無駄遣いをしないと「使えない部屋」「使わない部屋」に何千万円もかけて伝統建築を今によみがえらすことはできません。金満家ならではの社会貢献であり、美学でありえますよね。 最後に。 ダンディってのは、ある意味自分の個性を潰しても、伝統的に生き残ってきたものに価値を見出す美学じゃああんめいか?  自己顕示のためのダンディもあるかもしれねぇが、それは上等なダンディじゃあねえ気がするぜい。

noname#145704
質問者

お礼

ありがとうございます。そうですね、あれは安藤さんの自己顕示でしょう。私は彼が「住吉の長屋」という棺桶を建てた時、どういう境遇にあったか、詳しく知りません。想像するに、もし普通の建築物を建てていたら、彼は高卒の建築士として、等閑視されていたのだろうな、と思います。しかし、棺桶が受賞したことで、見事にのし上がって行ってしまった。生存競争で勝つための自己顕示、といってよいのかどうか。安藤的な理屈によれば、これに違いないだろうとは思うのですけれど。 もっとも、この自己顕示、実に非情なものです。親方は壁面に壁が無くてもよいとおっしゃるが、私はやはり、恐ろしいな、と思ったものです。万が一にも私が建築士だったら、そこに住む施主のことを考えて、どうしても窓をとりつけずにはいられない。街の雰囲気を取り込むことなど無く、中庭に、ただ空気穴が開いているだけ。雲の流れなど見えるでしょうが、天空の様相は、自然と関係こそあれど、街と関係ないのです。 実際、安藤氏は「昔を閉じ込めた」などと言っていますが、閉じ込めるという行為は、外部をシャットアウトして成立するのであって、棺桶を作ったといことと同義です。棺桶が比喩として粗暴なら、金庫でもいいですが、ともかく中に入っているものは、人間ではありません。収納するモノです。 これをどう評するか。私はダンディといいました。それは、 ・予算の無い中で目立つ、 ・自ら絢爛さや機能性を削り落とす、 ということに当てはまるからです。ダンディは最初何をやったのか。たとえば、お金をかけずに目立つ黒服です。貴族らが絢爛豪華な衣服を着てきた時に、自分から真っ黒な格好をしてしまった。不吉な喪服を自ら着たのです。職人や文化が作り上げてきた文様には頓着しなかったし、それを殺してしまった。着てきた当人が不吉なのは自己責任としても、周囲も不吉な気分になったことでしょう。「ダンディ」という点だと、おそらく、安藤氏の棺桶は、ダンディなのだろうとは思います。わびさび的にも、綺麗に咲いた庭の花を一輪を残して摘み取ったのと同じ冷徹な発想を感じます。 しかし、また別の美学があります。親方の言うのは「粋」ということでしょう。自らが少々損をしても、他を生かすということはありません。ここでいう「他」とは、隣の家、街並み、文化などです。ダンディと粋の違いは、両方とも目立つには違いないが、前者が周囲を無視することによって目立ち、後者が周囲を引き立てることによって目立つという差異があると私は考えています。 さて、考えてみたら、お金を張り込む時、機能面に投資していることは稀です。 ・ブランド に投資していることが大半です。しかし他に、 ・文化保存 に投資している側面があります。 しかし家だと言わなくても、こういうことは身近なことからできるものだと感じます。ブランド品を買う金があったら、(割高感はあるとしても)職人の作ったものを買えばいいのですから。身近なところでいえば、私は、食事で、味噌、醤油、昆布などにお金を張り込むことにしています。外食はやめて自炊にする代わりに、材料費にお金をかけるという方針です。肉とか魚は、普通のものです。人に御馳走すると、分からない人には全くわからないようで途方にくれますが。 さて、ここまでをまとめると、醜さとは、 ――周囲を殺して、自分が目立とうとすること。

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