- ベストアンサー
武将や王侯貴族の島流しについて:宇喜多秀家ほか
YUZURUの回答
宇喜多家は、ご想像通り、別格扱いでした。暮らしぶりは非常に厳しく前田家等からの差し入れで何とか暮らしていました、島を治めていた代官は、秀家の人柄に深く感銘を受け尊敬していたようです、息子さんだか当人だか忘れましたが、その代官の娘さんと結婚され、島の中でも特別な家として扱われながら、明治に入りその罪は許され、東京に移り住んだたと記憶しています。
関連するQ&A
- 宇喜多秀家が重用された理由
宇喜多秀家は何故重用されたのでしょう? 確かに父 直家は権謀術数に長けた稀代の謀略家でしたが 秀家は正直ぱっとしません… 幼くして父と死別 その後家臣団の多数が離反して家中はガタガタでしたが そこを付け込まれる事無く むしろ信長なんかは同盟を継続してるし 秀吉時代には秀吉の養子となり 養女まで妻に娶り、朝鮮出兵では大将にもなっています さらには五大老にも選任 家康時代には関ヶ原にも参戦 最前線で奮戦しましたが総崩れ 戦後島津を頼って助命され島流し(西軍武将が多数斬られた中 彼は流罪で済みました) 宇喜多秀家は 戦が上手いわけでもなく 今で言うお坊ちゃまな感じで 領地だって備前岡山54万石 彼が信長~家康の時代において重要視された理由は何なのでしょうか?
- ベストアンサー
- 歴史
- 散り時を誤った人物
「 散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ 」 これは御存じ世に高名な細川ガラシャが、関ヶ原前夜に非業の死を遂げた際残したとされる辞世の句でありまして、潔さを愛する我が民族的特徴を捉えた名句であろうかと・・。 まあ個人的には石に噛り付き・多少の生き恥を晒してでも、生き延びたいとは思う一方で、長い歴史上に於いては或いは稀な例外も存在するのかも知れない。 例えば備前宰相・宇喜多秀家、思うに彼の生涯などはその典型でしょうか。 豊臣秀吉の猶子にして彼の養女(前田利家の娘)豪姫を妻に娶り、秀吉の愛情を独占し続けたのみならず、若くして中納言そして五大老の一角にまで上り詰めた絢爛たる来歴とその前半生は、世にも幸せな公達との印象。 ところが20代後半に於いて迎えた関ヶ原の敗戦でその運命は一変、その命こそ許されましたが八丈島に配流となり、世間からその存在を忘れられつつ苫を編む事で生計を立てて、80余歳の長寿を全うしたと言います。 無論個々の価値観の相違、そして何より当の本人委ねられるべき事柄であるとは考えますが、その辺りの庶民であればともかく、50年の長きに渡るその後半生を得られた事が、宇喜多秀家という元公達にとって果たして幸せであったのかどうか・・。 そこで貴方が考える 「 散り時を誤った人物 」 「 死に場所を間違えた人物 」 がおりましたら、御教示ください。
- ベストアンサー
- アンケート
- 宇喜多直家公のことをもっと知りたい
今まで読んだ歴史小説や歴史関係の本などですばらしい人物だと思いましたが、 宇喜多直家公のことを書いている本が少ないので困っています。 もっともっと宇喜多直家公のことを知りたいので何か書籍を紹介してください。
- ベストアンサー
- 書籍・文庫
お礼
皆さん、ご回答どうもありがとうございました