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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:D.ヒュームとカントの美学論について)

D.ヒュームとカントの美学論について

ghostbusterの回答

回答No.4

申し訳ないです。気になってはいたのだけれど、どうにも忙しくて、まとまった時間を取ることができませんでした。最後まで行けるかどうかわかんないんですけど、ともかく、どんどん行きましょう。 ヒュームの考え方の根本にあるのが〈わたしたちが直接手に入れることができるのは、わたしたち自身の経験だけである〉という考え方です。あたりまえのことのようにも思えるのですが、ことは見かけほど簡単ではありません。これはのちのカントにも通じていく非常に大切な考え方なんです。 ヒュームから半世紀ばかりさかのぼってみましょう。 ジョン・ロックはある物体の色や音、においや味といった性質は、その物体を知覚する主体なくしては成立できない、と考えます。こうした人間による経験と無関係に成立し得ない性質を「第二性質」と呼びます。そうして、主体に知覚されるか否かにかかわらず、物体そのものに備わっている性質(固体か液体か、とか、時間や空間の中での動きや、体積や重量や成分構成など)の「第一性質」と区別しました。 けれども、ロックに50年ほど遅れて登場するバークリは、この「第一性質」(大きさや位置や形状)というのも、直接与えられているのではなく、わたしたちの判断の結果作りだされているものであり、その判断が素早いから、「直接見ている」というふうに思えるだけではないか、として、第一性質、第二性質という区別そのものを否定し、〈存在とは知覚されるということである〉という有名なテーゼを引き出します。 そうしてヒュームです。こうしたイギリス経験論の流れにあるヒュームにとって、「美」が〈対象そのもの〉が持つ性質ではないことはいうまでもありません。当然〈美〉という「何ものか」がどこかにある、と考えていたはずがない。 >ヒュームは「美そのもの」についてはどう考えていたのでしょうか? 「美そのもの」というのは、「真の美」ということもできるかと思いますが前回引用した『道徳、政治、文学に関するエッセイ』のI.XXIII.8の続きにはこのような文章があります。 To seek the real beauty, or real deformity, is as fruitless an enquiry, as to pretend to ascertain the real sweet or real bitter. According to the disposition of the organs, the same object may be both sweet and bitter; and the proverb has justly determined it to be fruitless to dispute concerning tastes. 「真の美、あるいは醜を追求することは、真の甘さや真の苦さを確かめられると主張するのと同様、無益な試みである。器官の傾向に従えば、同一の対象は甘くも苦くもある。そうしてことわざが正確に規定しているように、味覚に関する議論は無益なのである」 これが質問者さんの問いに対する答えとなるでしょう。 > 彼の議論は人がどうして美を感じるかについてだけであって、事物が美そのもの(もしくは人に美の印象を与える力)を有しているか否かについては触れていないように思われます。 17を見てください。 Though it be certain, that beauty and deformity, more than sweet and bitter, are not qualities in objects, but belong entirely to the sentiment, internal or external; it must be allowed, that there are certain qualities in objects, which are fitted by nature to produce those particular feelings. 「美や醜は…まったく感情に属している」けれども「対象の中に、そのような特別な感情を生み出すのに適したある種の性質を認めなくてはならない」と言っています。 つまり、美という感情を喚起するある種の性質は、わずかではあるけれども〈もの〉の側に備わっている、というのです。つまり、主観ばかりではなく、美しいと評価されるものには一定の要素がある、と。そうして、ある種の人はその要素を知覚できる。まるで料理を口に含んだとたん、使われている素材や調味料をすべてわかってしまうような海原雄山(ってわかるかなあ)のように。 Where the organs are so fine, as to allow nothing to escape them; and at the same time so exact as to perceive every ingredient in the composition: This we call delicacy of taste, whether we employ these terms in the literal or metaphorical sense. 「どんなものも見逃さないほど繊細で、同時に構造の中のあらゆる要素を知覚できるほど精密である場合、わたしたちはそれを繊細な味覚と呼ぶ。これは文字通りの味覚であるときもあれば、比喩的な意味でのこともあるが。」 海原雄山のように delicacy of taste のもちぬしが「これは!」と感じたものは、より感覚の鈍い副部長にも「うまい!」と感じさせる。つまり、それを知覚するわたしたちに「美しい」と思わせるものには、主観的ではなく、客観的な特徴もある、と考えたのです。だから > 「人が勝手に事物に美を感じているだけで、美そのものは存在しない。美とは思いこみの産物である」 ということではない。 さて、ここでもう一度 > 彼の議論は人がどうして美を感じるかについてだけ という問いに戻ります。 ヒューム自身はそのことに答えていません。「どうして美の感情を喚起させるものを見ても、それを感じない人がいるのか」ということは15節にはこう書かれています。 One obvious cause, why many feel not the proper sentiment of beauty, is the want of that delicacy of imagination, which is requisite to convey a sensibility of those finer emotions. This delicacy every one pretends to: Every one talks of it; and would reduce every kind of taste or sentiment to its standard. このように、その原因を「想像力の繊細さ」に求めているのだけれど、逆に言うとその delicacy of imagination のどういう働きが、〈美〉の感情を起こさせるのか、についてはふれていないのです。 どうしてか。ヒュームはその主著“A Treatise of Human Nature”の中で、こんなことを言っています。 http://www.wutsamada.com/alma/modern/humepid.htm "Pain and pleasure, grief and joy, passions and sensations succeed each other, and never all exist at the same time. It cannot therefore be from any of these impressions, or from any other, that the idea of self is derived; and consequently there is no such idea." これはどういうことかというと、わたしたちに知ることができるのは、苦痛であるとか喜びであるとかといった経験の内容だけであって、経験の〈形式〉(つまり経験をもつ〈自我〉)は存在しない、と言っているわけです。つまり、ヒュームにとって「美しい」という感動の〈内容〉をわたしたちは知ることができるけれど、それを起こさせる〈self〉という〈形式〉については考えることができない、と。 〈内容〉と〈形式〉、これはカントに通じていく重要な点です。 もう一度、素朴な疑問から。 わたしたちはある音楽を聴いて、これはいいなあ、と思ったら「Arcade Fireっていいよね」と人に言ったりします。どうしてそんなことをするのか。 それは、大きく言ってしまえば、人間はすべて「私」という仕組みを持っていることを知っているからです。誰もが「私」である。だからこそ人に向かって話ができるのであり、何かを書いたり、歌を歌ったり、音楽を聴いたりすることもできるのです。「私」の向こうにも「私」がいることをわたしたちは知っている。それは個々に違う「私」の〈内容〉を知っているのではなく、「私」という〈形式〉が同じであることを知っているからです。 (つぎにつづく)

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     1. 真善美のみなもとは 同じひとつであるという仮説を述べます。これについて問いますので 自由なご批判をお寄せください。  2. ふるくは哲学の相場としてそのように決まっていました。あらためてこの説をどのように考えてみちびいたかを述べます。  3. まづすべては ひとが《生きる》ということに始まると言ってよいと思われます。  4. そこから 相対的な主観真実とそれを超える普遍真理の問題が生まれ 主観真実には――ほかの人の主観真実とのカカハリにおいて―― 問題がないかあるかという問題が生じます。いわゆる善および負の善(つまり悪)という問題がからまって来る。  5. 真理は 善悪の彼岸に置かれているはずです。あらゆる人の主観真実をすでに超えているはずです。ゆえに真理は 至高の善であるとも言われます。  6. では 美はそれらとどういう関係にあるか? どこに位置しているのか?  7. 善と悪という相対的な価値をあつかう主観真実をたずさえて生きるとき――神ならぬ人間はそのようにしか生きることがかなわないと思われるとき―― 広く善悪観をめぐる主観真実としての何をとうとび 複数の《何》のあいだでいづれの真実に重きを置くか?・・・ここが 美学の生じるところだと考えられます。  8. やむを得ず人びとの集まり(つまり家族という集まりから出発して)や組織ないし社会にとっての状態や情況に従うようなかたちにおいて いくぶん悪の要素をも採り入れるといったことが その人の美学として選択されるかも分かりません。実際問題として余儀なくされることがあるかと考えられます。  9. さて 生きることは そのこと自体に意味があるといういみで《善》だと考えます。ふつうに《よい》ことであるでしょう。よりよく生きる以前の《生きる あるいは ともに生きる》にとうとぶべき意味があり これを善と呼ぶこととします。  10. 何をしてどう生きるかというよりも 生きること自体に意義を見出すとすれば おそらく確かに その善をひとつの基準として 世の中には・またひとの思いや振る舞いには 善にかなうこととそうではないこととが見出されて来ます。  11. 掛け替えのない善と言ってよい存在そのものを抹殺することは 負の善です。善の損傷です。  12. あるいは むさぼらないことは 生きることにとってふさわしく善であり むさぼることはこの善に逆らうことであるゆえ 負の善である。負の善は 善を傷つけることであり その結果は善(生きること)の部分的な欠けだということになります。  13. 《善の損傷あるいは欠如》 これを使い勝手がよいように《悪》と名づけるわけです。  14. つまり 悪は どこかに悪なるものが存在していてそれが起こるのではなく そうではなく善(存在ないし生きること)があってそれを損傷する行為として 起きるものである。    15. さて ひとの感性には 善も悪もありません。  16. 感性は 第一次的な知覚そのものを言います。  17. われわれは記憶という倉庫の中からあれこれの知識としてのモノゴトを見つけ出して来て 為そうとする行為の選択肢を考えますが このときその選択肢の内容については むしろおのが心(つまり 精神の秩序作用としての記憶)に逆らうことを思ったりそれをおこなおうとしたりする。このときには われらが心もしくは感覚は 困ります。動揺を来たします。胸騒ぎが起き 顔が赤らみ 言葉もしどろもどろになります。  18. これは 言わば《やましさ反応》です。これによって 第一次的なかたちにおいて善かそうでなくなるところの悪かが決まると捉えます。つまり ワタシの主観真実としてです。  19. このヤマシサ反応としての感性を認識した上で言葉に表わし(概念とするなら それなりの知性とし)その知性としての主観内容が ほかの人びとにとっても同じであると認められたときには 主観が共同化したと考えられる。ワタシの主観真実に いくらかの普遍性があると認められるという意味である。  20. この限りで 人間にとっての・共通の常識としての《善もしくは悪》が いちおう 決まります。  (共同主観≒常識として成ります。絶対的にただしいとは決まりませんが)。  21. 人間の知性が経験的にして相対的であるかぎりで この善悪観も 相対的なものです。  22. しかも 基本的なかたちで一般に 《うそ・いつわりを言わない》が善であり(わが心にさからっていない であり)  《うそ・いつわりを言う》が善の損傷(つまり悪)だというふうに おおよそ人類のあいだで決まっています。  23. 話が長くなっていますが このとき《真理》は 人間の善悪観が 普遍的なものであると言いたいために 無根拠なるものを根拠として――つまり 公理としてのごとく――持ち出して来た想定としての基準です。主観真実の相対性を超えるものとして想定している。  23-1. じつは 実際に具体的には人間が人間どうしの間で当てはめて使うことの出来ない物指しである。しかも 物指しとしては 想定されている。  23-2. それでも想定しておくのは ただただ相対性なる経験世界だけだと言ってしまい見てしまうなら 世の中は 押しなべてのっぺらぼうの世界にしかならないからである。顔がのっぺらぼうだというのは 心において主観真実としての善や悪やを考える意味が無くなる。  23-3. 言いかえると 《相対性》ということは すでに《絶対》なるナゾを想定したことをみづからの概念の内に含んでいる。つまりじつは 相対的な人間の真実は 絶対なる真理をみづからの内に想定済みである。  24. そして話を端折るならば 《美を見る眼》は この真理をわざわざ人間の言葉にして表わそうとする神学にも似て・しかも言葉を通さずに・つまりは感性をつうじて あたかも真理にかかわろうとする心の(ということは身の神経細胞もがはたらいている)動きだと考えます。  25. 実際には 真理は 想定上のナゾですから 表象し得ません。それでも《生きる》ことにおいて どことなく・そこはかとなく 人はこれを問い求めているのではないであろうか。  26. ひとの世界にウソ・イツハリがあるかぎり そしてカミという言葉があるかぎり 生きることに善悪観は伴なわれざるを得ず その善悪をめぐる人間の持つ理念や規範をも超えてなおうつくしきものを見たいという美についての渇きは必然的なことだと見ます。しかも 自然なことであると。  27. けれども その美は ひとによって異なり千差万別ではないのか? 一般理論などは考えられないのではないか?  28. それは 生きた過程としてのそれぞれの人の《善の損傷の具合い》によって そのときその場で どういう美のかたち〔をとおしてナゾの美ないし真理〕を求めているか これが違って来るという事態が考えられます。  29. 審美眼は その人の生きた歴史によってあらたにいろんな風に形作られ その人の美学もその過程にそってあらたに作られていくと見ます。初めに想定されているところの真理ないしわが心にしたがう善(善悪観)から離れることもあり得ると捉えるわけです。道草を食ったり脱線したり。  30. それは 侵して来たウソ・イツハリの性質や度合いによって変わるのではないか? 早く言えば 破れかぶれの心の状態になったときには 毒を食らわば皿までという美学がつちかわれるはずです。  31. 一般的には かたちのととのったものを人はうつくしいと感じ このかたちをつうじて 心の内なる精神の秩序としての美ないし真理を見ようとしているものと思われます。  32. そして 人がどう生きたかにおいて善の損傷のあり方(つまり どれだけ・どんな内容のウソ・イツハリを言ったか)が人それぞれでしょうから それらに応じてそのときその場では どういうかたちに美を感じるか――それをつうじて善の損傷が癒やされるべきところの美を感じるか―― これが千差万別になると思われます。  33. すなわち おのれの善――生きること――の傷つき方に応じて人それぞれに 美と感じる対象が違って来る。同じ一人のひとでも 歳とともに違って来る。  34. 早い話が かたちの整わない醜いものにも 美を感じ それとして癒されるという時と場合があるかも知れません。  35. すなわち 真理と善(もしくは 善悪の彼岸としての非善・超善)については 十人十色とは言わず おおかたの共通の内容が――想定じょう――共有されます。けれども美は それこそ千差万別ではないかという問いに対して答えようとして以上のように考えたものです。  36. 人はウソをつくからには一たん真理や善から離れた過程にあって 善の損傷の具合いに応じて その傷がどう癒されるかという過程をあゆむ。われに還り わたしがわたしであると成る。そのありさまは 人それぞれである。  37. そしてその違いは 言わば巡礼の旅路というべき人生をあゆむ人間にとって そのときどきの巡礼の寺院としてのごとく 美の感覚に違いが現われるというものだ。こう考えこう捉えるなら 美学にも十人十色の差を許容しつつ しかもそれでも大きく広く 普遍性がある。  38. 真善美は 一体である。このように考えることが出来ると思いますが どうでしょう。