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戦国時代の大名とはどのような存在だったのか
- 戦国時代の大名について質問です。現代の軍隊や企業などでも、指揮官としての能力は部隊のレベルによって求められる資質が異なります。同じ指揮官でも戦術レベルの部隊を指揮するのと、戦略レベルを動かすのは異なる能力が必要とされます。戦国時代の武将でも、組頭や番頭の頃は有能で武勲を立てるものの、大名になって将たる立場になると無能になる人もいました。このような例はあったのでしょうか?
- 戦国時代の大名とは、どのような存在だったのか気になります。現代でも、一流の企業リーダーやスポーツチームの監督など、頭角を現している人々がいますが、その中には上のレベルに進むと能力が備わっていない場合もあります。戦国時代でも、大名になった途端に無能になってしまった武将はいたのでしょうか?
- 戦国時代の武将たちについてお聞きしたいです。現代の組織でも、部隊のレベルによって求められる能力が異なります。同じ指揮官であっても、部隊の戦術レベルと戦略レベルでは必要な資質が異なります。戦国時代の武将でも、大名になると無能になってしまうケースがあったのでしょうか?
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>戦国時代の武将でも組頭とか番頭の頃は有能で武勲を立てたものの、大名まで出世していわば将に将たる立場になると無能になってしまったような人はいるのでしょうか? 武将>大名だと大名の後継者か信長・秀吉・家康の家臣の中からということになります。 将たる立場になると無能なら 仙石久秀 ぐらいかな。無能忠義者の方が施政者には良いことがここに現れてる。 淡路洲本城主5万石→讃岐高松10万石→改易→信濃小諸に5万石→7000石を加増 仙石久秀 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%99%E7%9F%B3%E7%A7%80%E4%B9%85 戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。信濃小諸藩の初代藩主。出石藩仙石家初代。 豊臣秀吉の最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。戸次川の戦いで独断専行により、島津軍に大敗を喫し改易されるが、小田原の役で挽回し大名に返り咲いた数少ない武将である。 第二次十河城の戦い 淡路入りした秀久は菅達長を破り、その後小豆島を占拠し、十河存保を救援(第二次十河城の戦い)するために四国へ渡る。手始めに高松頼邑が守る喜岡城を攻めたが、落とせずに撤退。次いで讃岐引田に上陸、引田城に入城した。天正11年(1583年)4月21日、長宗我部勢の香川信景らの部隊が押し寄せるも、秀久は伏兵で迎えうち、緒戦は優勢となる。しかし数で優位な香川隊が態勢を立て直すと徐々に巻き返され、次いで駆けつけた長宗我部勢の援軍の攻撃により、引田城へ撤退。翌22日に引田城は長宗我部軍の総攻撃を受け落城し、秀久は敗走する(引田の戦い)。 『一説では、この戦いの最中に仙石軍は幟を取られるという失態を見せたといわれている。』 敗戦後は淡路島と小豆島の守りを固め、瀬戸内の制海権維持に務めた。 改易 天正14年(1586年)、秀吉の命令で九州の役が始まると、秀久は十河存保や長宗我部元親・信親父子らの軍監として九州に渡海し、島津軍と対峙する。ここで秀久は功に焦って無謀な作戦を立ててしまう。そしてこの作戦により行なわれた戸次川の戦いで島津家久率いる島津軍に豊臣軍は大敗し、長宗我部信親や十河存保といった有力武将の多くが戦死してしまう。さらに、秀久自らは諸将の軍を差し置いて小倉城に撤退。その後は讃岐へ逃げ帰るという醜態を見せた。これらの行状に激怒した秀吉は、秀久の所領を没収して、高野山へ追放した。 復帰 その後、徳川家康の斡旋により、天正18年(1590年)の小田原の役の時には陣借りという形で秀吉の軍に加わった。この時、秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着て、紺地に無の字を白く出した馬印を眞先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだといわれている。さらに、鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして合戦に参加。自ら十文字の槍を振るって力戦し、伊豆山中城攻めでは先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口(城郭や陣営などの最も要所にある出入り口)の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。箱根にある地名「仙石原」は、彼の奮闘の地であったことを記念して付けられたものである(他に源頼朝が由来説もあり)。 この功績により、秀久は信濃小諸に5万石を得て、大名として復帰した。文禄元年(1592年)、秀吉の命令で朝鮮出兵が始まると、肥前名護屋城の築城工事で功績を挙げ、それにより従五位下・越前守に叙任された。 文禄3年(1594年)には秀吉の命令で始まった伏見城築城工事においても功績を挙げたため、7000石を加増され、5万7000石の大名となった。 秀久の治世においては農民達に過酷な課役を与えた事から佐久郡では一郡逃散という失態を犯す。 秀久は秀忠の関ヶ原遅参について激怒している家康への謝罪に努めたため、秀忠が将軍就任後、特に重用されるようになる。 戸次川の戦いの時、最大の責任者でありながら真っ先に四国に逃げ帰った秀久のことを、「豊薩軍記」において、「仙石は四国を指して逃げにけり、三国一の臆病者」とまで罵られた。また、この時の仙石軍の様子をルイス・フロイスが『日本史』に書き残しているが、「豊後国に跳梁している最悪の海賊や盗賊は仙石の家来や兵士に他ならない」「恥とか慈悲と言った人間的感情を持ち合わせていない輩であり、できる限り(略奪して)盗み取ること以外目がなかった」と酷評している。 武田勝頼 武田の地域的・経済的後進性のせいで彼個人のせいにするのは酷だと思いますがあの時点の信長に対抗できる大名はいなかったわけですし。上杉、毛利、長宗我部も滅亡寸前だったわけです。 なぜ武田勝頼は歴史小説で悪く書かれるのか? http://okwave.jp/qa/q7025353.html 蒲生氏郷 武将としても大名としても大変有能でした。 松阪12万石→会津42万石→加増92万石 彼の死後、転封されましたがそれはここが伊達正宗・徳川家康を抑える重要地点(戦って勝って貰う)だったからで実際、このあと上杉景勝が120万石で入りました。 加藤清正 肥後半国25万石→肥後一国52万石 元々肥後は肥後もっこすと呼ばれ肥沃な田畑をもち自主独立の気風が強い土地を治めて、築城の名手で彼が死ぬまで徳川が手を出さなかったことを考えると無能ではないでしょう。元々、改易も新豊臣の大名を徳川が許さなかっただけです。 佐々成政 越前府中3.3万石→越中半国5万石→越中一国10万石→越中36万石→越中一国10万石→越中一郡→肥後一国52万石 前に述べてるように肥後は肥後もっこすと呼ばれ肥沃な田畑をもち自主独立の気風が強い土地です。一揆の責任を取らされて切腹させられましたが無能と言われるほどではないでしょう。勝者である秀吉や前田氏に悪評を創作され、過小評価を受けがちで実際、中世の越中は河川の氾濫による水害に悩まされていたが、成政は僅か数年間の越中統治中に堤防を築き水害を防いだため領民に慕われた。堤防は済民堤、佐々堤と名付けられ現在もその遺構が残っています。 滝川一益・川尻秀隆・森長与 旧武田領を与えられて2、3ヶ月しかたっていなため正直、何も出来なかったのが実情。 福島正則 尾張国清洲に24万石→安芸広島と備後鞆49万8,200石→減封→改易 慶長6年(1601年)3月に芸備に入封した正則は早くも領内を巡検するとともに、検地で石高の再算出を行った。家臣への知行割も事実上の給米制とし検地の結果を農民に公開した上で実収に伴った年貢を徴収して負担を少なくするなどの善政を敷き、また領内の寺社の保護にも熱心であり、慶長7年(1602年)には厳島神社の平家納経を修復させたことが知られている。 武断派の印象が強いが、慶長6年(1601年)の検地で知行高49万8,000石だったのを元和5年(1619年)に51万5,000石まで増加させており、領主として行政面でも結果を残している。 慶長9年(1604年)からの江戸幕府による諸城修築の動員に参加して忠勤に励む一方、豊臣家を主筋に立てることも忘れなかった。 豊臣氏の滅亡を機に羽柴姓も捨てた正則は、ひたすら幕府への恭順。 無断で修理も2ヶ月前から届け出してます。 幕府が新豊臣大名を許さなかっただけです。
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残っている功績から言えば武田勝頼だと思います。
そうですね~。私も戦国時代は割りと好きなので、そう言えば、そんな人 いたか知らんと考えてしまいました。 番頭、組頭いわば鑓一筋で大名になった人ですものね~。 まあ確かに、福島正則などの名前お挙げるのも解りますが、彼にも 色々事情があって一概に無能と決め付けるのも可哀想かなと・・・。 蒲生氏郷にいたっては、大変有能な人の様に私は思いますし。 加藤清正にしたところで生前には家お潰していません。無能と言うなら 息子忠宏の倅でしょう。なにしろ肥後52万石お潰したわけですから。 それだって、何もそこ迄しなくてもと言う面もありますものね。皆さん知ってるところでは 浅野だって無能と言えば無能でしょうが、坊ちャんで別に自分の鑓で大名になったわけでもない。 こう考えると鑓一本で大名になった人はそれなりにやはり有能な人だったのかなと思いますけど・・・。 まあ、あとあえて言えば、千姫のl事件の坂崎出羽守くらいかな~。 それにしたところで諸説色々ありますしね。 回答にはなりませんでしたが、私も色々考えて楽しめました。ごめんなさい。
- eroero1919
- ベストアンサー率27% (3007/11113)
福島正則はそれに近いんじゃないですかね。武人としては優れていたけど、政治家としての才能はありませんでした(一説によるとひらがなしか読めなかったとか)。 だから、関ヶ原あたりから百戦錬磨の政治家である家康に利用されて、何より大事に思っていた豊臣も滅亡させて、挙句に領地もボッシュートの憂き目に遭いました。 加藤清正、蒲生氏郷、佐々成政、滝川一益・・・このあたりは武人としては優れていたけど、悪い意味での政治家としての才能はなかった人たちでしょうね。現場監督としては優れていたけど、経営者としての才能までは持っていなかったタイプでしょうかね。
- misawajp
- ベストアンサー率24% (918/3743)
多数居ますが、そのような者はほとんど名が残りません