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現象学の 本質直観を くわしくおしえてください。

noname#143207の回答

noname#143207
noname#143207
回答No.14

 こんばんは、ひどっち でございます。ご返答いただきましてどうもありがとうございました。 > ★  愚生は、Wesen: essence と解したのですが、いかがでしょうか。 
 ☆ だとすると 《客観》と――同じではないでしょうが―― 相携えてすすむ概念であるように思えるのですが? あい携えてすすんだ結果としては 主観の捉えた認識のかたちとしてあるでしょうから その内容に普遍性が伴われれば 客観であると思われます。
  はじめに排去した客観が よみがえるように思われます。  はい、 その内容に普遍性が伴われれば、客観とみなされてくるかと思われます。  排去したはずの客観が戻ってくることも、もちろんありうるものと考えられます。  なお、英訳名は、"Eidetic seeing" (Translator: F. Kersten)となっておりました。 

> というよりも 排去したのは 世の中の既成概念や先入見としての《現象》観であって 普遍的な観点というものは 排除していなかった。(はじめにはまだ持っていなかった)。
  客観は 作業仮説として想定されているだけの概念かもしれません。だとすると 《 essence 本質》は――客観は別とすれば―― ふつうに類概念または普遍性のことだと思われますが どうでしょう?
  仰られますように、客観とは想定されているだけの概念かと考えております。  本質とは、まだ主観内(内省)のできごとでございますので、普遍性をそのまま持つとまでは言い切れない、と考えてございます。 
> ただし 志向性として 事象(対象)とわが意識との意味関係であるとすれば 《本質》と言うほうが 似合っているとも考えられます。
  ご賛同賜りまして、厚くお礼申し上げます。 
> そこで 主観と客観との一致だという見方を出すと どうなるか? 現象学的還元は はじめから主観のほかに客観をも想定していると見られてしまいます。言いかえると 《超越》とは 客観化のことだと。

  原則、客観なるものの存在は認めておりませんので、少々異なるかもしれません。 > ☆ 《純粋に事象・本質そのものを主観内(こちらは確実に存在します)にて求めていく態度・方法》は ひとつに エポケーなる操作をおこなって行けば 要らないもの(見方)は捨象されますし たしかに言わゆる本質にまで抽象されて行くと思われますが もうひとつに 現象学的反省を加えて行けば やがてその事象観としてはほかの人の主観と共同化を成せるまでになると見られます。 
 これが ものごとをどう見るかについて その普遍性を問い求める姿だと思います。
  はい。普遍化、さらには、客観化を求める姿勢かと存じます。 

> ☆☆(上述) ~~~
  ただし 志向性として 事象(対象)とわが意識との意味関係であるとすれば 《本質》と言うほうが 似合っているとも考えられます。
  しかももしその本質が 普遍性を持つとするならば もはやそれはやはり誰もがそう見るであろうような客観ないし科学的真実だと見られて来ます。 
 ~~~~~~~~~
  そうでないと 間主観性は そなわって来ないと思われます。
  はい。その本質が普遍性を持つという条件がクリアされたならば、もはやそれは誰もがそう見るであろうような客観になりうるものと考えております。
 また、仰られますように、(間主観性の十分条件は満たさないかもしれませんが)必要条件かと察せられます。 
> でもそうではなさそうなので どういう知解のあり方なのかと考えます。つまり さらに考え続けます。 
 ★ “知解”かと存じます。「確信」を抱かせるもの・領域といったものかと思われます。 
 ☆ 確信を抱かせるには 普遍性をともなって間主観性であることを条件とすると思われます。 そういう主観は 類概念や共同主観のほかに どういうかたちがあるか?

  ここではまだ初期フッサールの概念でございます故、間主観性はまだ出て来ていないかと考えております。従いまして、「確信」を抱かせるのは、主観内において、その現象学的還元を施した本人のみ(自分自身のみ)に限定されるものと考えております。しかし、それらが重なり合って、間主観性が生じるやもしれません。
 
> 足踏みしていると見られましょうが 必要なステップであるように思いましたので よろしくお願いいたします。  いえいえ。こちらこそよろしくお願い申し上げます。  ご参考になるところがございましたなら、幸甚に存じます。

bragelonne
質問者

お礼

 今回は ドンキホーテ的質問は不発に終わったかも知れません。  ひどっちさん こんばんは。ご回答をありがとうございます。  質問として考えついた内容が だいたい可能性として まちがった方向には行っていないという結果だったのではないかと思います。  今回はふたたび 原文についてお聞きします。  長い一文から成る文章ですが その文章の中へ 疑問をはさむ形を取ります。よろしくどうぞ。  ▲ (現象学的還元) ~~~  ( a )現象学的還元とは いっさいの超越者(私に内在的に与えられていないもの)に無効(ヌリテート)の符号をつけることである。   *(ぶらじゅろんぬ評)(1) この超越者の規定は 変。《私にとって外部と   して知覚したもの(事象)》といえばよいのに。    (2) 要らない要素を捨象し要るものを抽象する(抽き出す)ことを《無   効の符号をつける》と表わすのはよいとしても でもそこでは《本質》として   捉えられるかも知れない要素については 抽き出す つまり私の内部に受け   留めて行くのではなかったかと疑われる。  ( b ) すなわちその超越者の実在と妥当性をそのまま措定しないで せいぜい妥当現象として措定することである。   *(3) というのなら 《無効の符号をつける》と言っても 《妥当現象とし   て措定する》ことの中には 要ると思われる要素の取り出しも含まれるという   ことらしい。  ( c ) たとえばいっさいの心理学や自然科学など あらゆる科学を私はただ現象として利用しうるにすぎず 従ってそれらを 私にとって〔認識批判学〕の手掛かりになりうる妥当的真理の体系としては まだ前提としても 仮説としてさえも 利用してはならない。   *(4) それは そうだ。知覚したものごとを資料として受け止めるに当たっ   て 参考にならないものを捨て なるものを資料とする。当たり前だと思われる。  ( d ) 要するにこの原理の本来の意味は この認識批判学で問題になっている事象から離れず ここに伏在する諸問題を全く別の問題と混同しないよう絶えず勧告することである。(『現象学の理念』H.II,6)   *(5) 《原理》とは 現象学的還元のであると読む。全体として 当たり前   だと思われる。  ▲ (同上) ~~~  ( e ) われわれは 経験の中で素朴に生活し 経験されたもの ないし超越的な自然を理論的に研究することを止め その代わりに《現象学的還元》を遂行する。   *(6) こうなると 独自の行き方があると見られる。だとしても 《理論的   に研究する》ことから離れるとは思われないのだが。    《超越的な自然》とは 何も超経験を言うのではなく 《私にとって外部と見   られるような自然》のことらしい。  ( f ) 換言すれば 自然を構成する〔*諸作用で〕意識に属する諸作用(現実的な諸作用やあらかじめ示された潜在性の中で実現されうる諸作用)とそれらに付随する超越的な措定を素朴な態度で遂行し かつまたそれらの作用に伏在する種々の動機づけに誘発されて 次々に新しい超越的措定を続行する代わりに――われわれはそれらの措定のすべてを 顕在的な措定はもとより 潜在的な措定をもあらかじめ《作用の外》におき それらを行なわないことにする。   *(7) 分からなくなった。たとえば そこから資料を取り出す与件について    知覚および認識の《作用の外》に置くということか? もともとこれらの与件    については 《私にとっては外部にある》ものではなかったか。わざわざまた    外に置くのだろうか?  ( g ) そうすることによってわれわれは われわれ自身の理論的研究の把握のまなざしを 純粋意識とその絶対的な固有の存在へ向けるのである。   *(8) 独自の《理論的研究》が始まるということらしい。     あらかじめながら《絶対的な固有の存在》という表現は 仰々しい。うたが    い得ない《われ》の存在が見い出されたのならそう言えば済むと思われる。     《純粋意識》と言っても たかが人間の意識ないし存在の基本要素といった    ところではないのか。  ( h ) しかしてこの純粋意識こそ われわれが求める《現象学的残留物 Residuum 》として残留しているものであり この純粋意識は たとえばわれわれが全世界を 従ってあらゆる事物と生物を そしてさらにはわれわれ自身をも含めたすべての人間をも《排去》したとしても あるいはもっと適切に言えば それらのすべてを括弧に入れたとしても それとは係わりなく残留しているのである。   *(9) 《独自》と言っても ここまで来ると 特殊すぎやしないだろうか。    いちいち《排去》などしなくても われなる存在の基本要素を取り出すのだ    と言えば 済むのではないか。     そのようにして それについての思索や把握は出来ようものを。わざわざ    なんで《残留》させるという形にするのか。  ( i ) 厳密に言えばわれわれは〔この還元によって〕何一つ失ったのではなく むしろ絶対的存在の全体を獲得したのであり しかもこの絶対的存在は 正しく理解されるならば すべての世界的超越を《理念的に実現され整合的に継続される諸作用の しかも習慣的な妥当性をもつそれら諸作用の志向的相関者》として それ自身のうちに内蔵し 自己の内部でそれらを《構成している》のである。(『イデーン』H.III,118f.)   *(10) 《何一つ失ったのではなく》――そりゃあそうだろう。もともと抽象   という作業をしていただけ。    《絶対的存在》――よくもこんな表現を使うと思う。人間存在の或る部分と言う   に過ぎないと思われるのに。    それを《獲得した》のならば それを見せて欲しい。それ自体は見せられない   とすれば それを獲得した状態になれば 何ができるのか? 何が見えるのか?   その世界観を示して欲しい。つまりは この文章をこの今表わした時点で その   ことに留意をしてしかるべきなのだ。読む人をおちょくっている。もっとも    ▲ ~~~~~~     しかもこの絶対的存在は・・・すべての世界的超越を《理念的に実現され    整合的に継続される諸作用の しかも習慣的な妥当性をもつそれら諸作用の志    向的相関者》として それ自身のうちに内蔵し 自己の内部でそれらを《構成    している》のである。     ~~~~~~~    ☆ ということらしい。そこまでは言っている。    《私にとって外部であった与件が 参考資料として選り分けて行った末には     そのうちの基本要素らは 私の内部に整然と互いにその相関性が明らかに見    て取れるように 位置づけられている》ということか。     《われは わが心に世界を捉えた》ということだろうか?     ところで その中身は?  ▲ (同) ~~~  ( j ) そのつどの諸客観を現象学的に排去する Ausschalten とか それらを働かせないようにするという表現(これは作用や関心を働かせないようにするという言い方と相関的な正当な表現である)を誤解しないよう 用心しなければならない。   *(11) アウスシャルテンは スイッチを切りオフにすることでしょうか。    ならば あとではオンにすることもあるということなのだろうか。     《正当な表現》であるらしい。  ( k ) 現象学的考察者としての私は 存在や価値や目的をもはや普通の意味では所有していないが しかしそれとは別の変様された意味では やはり依然としてそれらを所有しているのである。   *(12) その違いを早くおしえて欲しい。  ( l ) 私に対する妥当性とそのような妥当性に対する私の関心一般から排去されたものも そのために私の意識野から消え去ったわけではない。   *(13) 早く言ってくれなきゃあ。オフとオンとがあると。  ( m ) ただし《自然的な見方で考察し 認識し 評価し 職業に従事する者としての私とは対照的な》現象学者としての私にとって いまやそれは 私を現象学者に変えた〔還元の〕方法によって 通常とは本質的に異なる仕方で与えられているのである。   *(14) だから それは何? どういう仕方なの?  ( n ) 私はこの方法を 客観的なものに対しては括弧入れの方法と呼んでいる。  ( o ) われわれは客観を いわばそれを排去する括弧に入れ 一つの符号をそれに付与するのである。  ( p ) すなわち《私はここでは妥当性の承認や 存在や価値への関心などをすべて禁止したい。私はこの客観を これに妥当性を付与する自我の作用の志向的客観としてのみ妥当させ そしてその作用と その作用自身がそのように主題化された客観として措定しているものとに対してのみ関心をもつことにする》という私の意志を表わすための符号を付けるのである。   *(15) 《与件についてその諸要素をわが判断に従って取捨選択する》と    言うだけぢゃん。  ( q ) 私はこのような操作を行なうことによって 現象学的に純粋な主観的なものを獲得し そしてその内部に その主観の作用の単なる志向的客観という 変様された妥当性の形態において 客観を所有するのである。(『第一哲学』H.VIII,110f.)     *(16) ご自由にどうぞ。  ~~~~~~

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