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質料と質料因、形相と形相因は違うものなんですか?

old_shoの回答

  • old_sho
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回答No.2

素人見解ですが。 「世界に生起する現象には4つの原因がある」ということをアリストテレスが言っているというのが、外しているのではありませんか。言い換えると、「現象」という言葉の意味が、現在普通に使われている意味と違う、となるのかも知れませんがね。 たとえば、コトバンクでは、 形相因:事物をまさにその事物たらしめるもの 質料因:事物が生成するための素材となるもの という説明をしています。「因」とは「現象」の説明であるという見解ではない。 つまり「現象の原因」という表現が、現代人の偏見であって、アリストテレスの「原因」という言葉ではそんな狭いことを言っていないのではないか、と思うのです。 現代人は、焼きそばが在る事に不思議は感じない。が、焼きそばが空を飛んだら、何故飛んだのか、その訳は、と思うんですね。古代の人は、焼きそばがそこに在る事にも不思議を感じ、何故在るのか、を追究した。で、どうですか。 質料と質料因との違いは、焼きそばと{そば+ソース+キャベッツ+青のりなど}との違いではないですか。 ついでに、 先の方が述べられるように、「犬がほえる」には、質料因として「犬」が、という調子で、全ての「現象」には必ず質料因があるのではないか。すなわち、「質料」の欠けた「形相」なるモノは無いし、「質料」が無いのに現象だけ在る事はない。---まあこれを追究すると全く別の話になりますね。

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