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※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:仏教は邪教という書き込み)

仏教は邪教という書き込み

B-jugglerの回答

  • B-juggler
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回答No.4

う~んと、敬虔な仏教徒・曹洞宗です。 代々そういう家柄、坊さんではないですよ^^;  初代から3代目くらいまでは坊さんですけど。 もう変わってだいぶなります。 えっと、この方の文章は最後の一文だと思います。 >人間は神のお恵みによって生かされているという >基本的な認識が欠如しているのは不届き千万だね。 ここです。 これを、数学で否定します。 これでも数学屋さんなの(o`・ω・)ゞデシ!! 「神は存在する。自然界の法則性があまりにもきれいだから。 同時に神は存在しない。神の存在を証明できないから」 パラドックスなんですよ。どっちとも取れるのです。 だから、神様がいる という人は、神様にすがる。 いないと思えば、すがることはない。 σ(・・*)たち仏教徒は、仏様だけじゃなくて、先祖代々を敬う。 感謝するんです。この人の考え方の仏教は、感謝がないんです。 そう感じました。 m(_ _)m

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     「法華経」に違和感を感じてしまいました。  私は、仏教に興味を持ち「スッタ・ニバータ」、「アーガマ」、「仏教の思想1~8」(角川ソフィア文庫)、「この人を見よ=ブッダ・ゴタマの生涯」(増谷文雄著)その他諸々の仏教関係の本を読み独学している者です。この度、現代語訳「法華経」(中村元著)を読んだ時に、かなりの違和感を感じてしまったのです。  原始仏教の経典等からは、ブッダ・ゴータマは、仏陀であるけれども正しく「人間」であると感じられます。また、悟りを開くには縁起を良く理解し、四諦八正道を実践する事だと説いています。また、晩年自らの死を前にしては、自分も諸行無常の理から免れる事はないので、やがて死ぬであろう。しかし、死後は「法」を拠り所として、修行せよと弟子たちに語っています。  しかし、「法華経」に登場する仏陀は、自分は「久遠仏」であり、過去、現在、未来において永久に存在する、とか。仏国土は永遠である、とか。法華経のみが真説であり、他の経は方便だ、とか。法華経を読んだり仏像を作ったり、礼拝すれば仏の慈悲により悟りを開ける、とか。甚だ原始仏教の内容とは矛盾しますよね。諸行無常なら、仏陀とて永遠の存在ではないし、諸法無我ならば、仏陀とて実体がないのではないでしょうか。  よって、「法華経」は、仏陀を人間ではなく神格化して信仰の対象とすることによって、仏教の大衆化及び教団の強大化を目指すために当時の弟子達が創作したものではないのだろうかと考えるようになりました。悟りを開くには、難解な法を理解し大変な修行が必要と説けば、一般庶民には受け入れられませんからね。  ここで、質問です。  (1)「法華経」は、弟子の創作だと思いますか。  (2)最澄、道元、日蓮などは、「アーガマ」等の原始仏教の経典を読む機会が無かったのでしょうか。  念のため、言って置きますが、私は「法華経」は宗教的には優れた本だと思っていますし、法華経を信心している人を批判しようという意図は全くありません。