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四道将軍(オオヒコとタケヌナカワ)の東方遠征

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古事記には四道将軍として皇族将軍オオヒコとその子タケヌナカワが北陸と東海から遠征して会津で合流したという内容の記述があります。
これは遠征だったのでしょうか。
素人のイメージでも、とても千・万の軍を率いたとは思えません。多く見積もっても精々数百がいいところと思っています。
会津には4世紀と思われる大型古墳がいくつも存在します。これらは四道将軍または差の子孫が作ったものなのでしょうか。
もし遠征以前よりこれだけの権力をもった勢力があったら少数の遠征軍で戦闘ができたのでしょうか。
前方後円墳を作るということは少なくともすでにヤマトとの友好関係等があったと思われます。そんな大勢力にわざわざ遠征にいったのでしょうか。
また別の見方では、この地域は後々7世紀ころまで度々ヤマトの東征戦争がおこっています。
4世紀におこなわれたと推定される、オオヒコとタケヌナカワの遠征は何だったのでしょうか。

素朴な疑問ですが、あくまで記紀の記述は粉飾が多いにしろ、これらの遠征が何らかの形・人物でなされたということを前提としています。作り話だで結論付けられては疑問そのものが無意味なものとなってしまうので‥‥

質問者が選んだベストアンサー

  • 回答No.1

ベストアンサー率 45% (416/918)

私は全くの素人ですが、古代史には興味を持っているものですから、ご質問の直接の答えにはならないかも知れませんが、その場合にはご容赦下さい。

実在の初代天皇ではないかという説が有力な崇神天皇の治世初期に、疫病が流行し死者が多く出たため、天皇は神浅茅原に八十万神を集めたと「日本書紀」にあるそうです。
それぞれの集団が自分たちの神を奉じて集まったという訳です。

この時代は、一般に神意が尊ばれ、それぞれの集団は神に仕える女性を持ち、その伝宣する神意によって政治が行われていて、いわゆる政事は、実は祭事であったのです。
そのような社会構造では、政治的統一も、神々の統一という形を取らざるを得なかったのだと思います。

そして集いでは、最高の神巫が最高の神の託宣を受けて、全体を統一することになります。
その際に、その神巫として働いたのが、孝霊天皇の皇女とされている倭迹迹日百襲姫命であったと言われています。
倭迹迹日百襲姫命は、三輪の大物主神に仕えた神巫でした。
「魏志倭人伝」に記載されている「卑弥呼」に当たるとも考えられます。

大和の勢力が次第に強化され、当時の日本全体に統合を待望する機運が進んでいたのではないでしょうか。
その頃、地方民を統合すべく、有力な皇族が将軍として各地に遣わされたのが、四道将軍だったのだと思います。
ですから、四道将軍とは、各地の武力平定を目指すというよりも、武力と宗教との上手い組み合わせによって、統合の努力をするのが目的で派遣されたものだというのが、実際のところだと思います。
その結果、古代日本の統一は比較的スムーズに実現したのでしょう。
お礼コメント
noname#140208
ありがとうございます。
当方どちらかというと卑弥呼と大和とは別もの(イメージが重ならない)のように考えていましたが、倭迹迹日百襲姫命≒卑弥呼と考えると四道将軍に対してもそのような見方ができるのですね。
倭国の連合体は九州の狭い範囲のイメージがありましたが、少なくとも畿内以西、あるいは関東(尾張以東)を含む広い範囲と見るべきだったんですね。
投稿日時 - 2011-07-28 20:51:53
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