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比叡山
比叡山って延暦寺や日吉神社ができる前はどんなところだったんですか?分かる方教えてください!!厳密じゃなくても結構です!!
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日本の山々がそうであったように、比叡山も山岳信仰の山の一つでした。 最澄が延暦寺の基を開いたのは平安京ができる10年ほど前です。 ウイキペイアにはそのあたりは曖昧にしか書かれていません。 厳密に言えば比叡山頂上(延暦寺のあるところ)は滋賀県大津市です。 滋賀は京都(平安京)、奈良(平城京)よりも文化的にも古く、都(大津京)が置かれた処です。 比叡山の東麓、坂本は平安京ができるずっと以前に開け、最盛期には人口2万人あったそうです。(私の推測ですが卑弥呼の時代位。なぜなら対岸の近江八幡にある日牟礼八幡は竹之内宿祢の創建と称され西暦184年にあったと言われますから、そら卑弥呼よりも古い・・・) 比叡山延暦寺関係の僧は皆坂本側に住んでいますし天皇の子女が入る門跡寺院もあります。 余談です。 あまり知られてはいませんが歌人「紀貫之」の墓は坂本側から比叡山に上る途中にあり、坂本ケーブル(日本最長)に乗車時に駅員に言えば途中の駅で降りる事が出来、険しい道ですが歩いて行けます。 坂本辺りが栄えた頃、京都はまだ未開の土地で全体で人口は推定3000~7000人くらい。 もう少し北の堅田周辺は下賀茂神社(平安京以前にはあったと思われる)の御厨(食糧調達保存庫の役目の所)でやはり平安京(794年)以前にすでに人口は2万人ほどで交通の要所として栄えたところです。 比叡山の信仰は京都側から見れば平安京の貴族たちの信仰を(山岳信仰)集めたのでしょうけれど、滋賀側から見ればもっと聖地に近いものだったかもしれません。 比叡山は一つの山ではなく多くの峰から成り立ち、主峰は四明岳。 比叡の字はもともと日枝:日吉(ひえ)に同じで京都御所の鬼門に当たる守護の山と認識されていました。(平安時代以降) 東麓にある日吉大社は全国の山王神社の総社です。 京都一乗寺から歩いて(坂本からも)約1時間半で登れます。 これも古い道ですが獣道と言う場所ではなく、行者や一般人、僧侶などが歩いたと思うような道です。 一乗寺にある狸谷不動尊へ行く北白川瓜生山からの道は私が学生時代{60年前)は獣道そのままでしたけれどね。 ちなみに一乗寺は女人禁止(比叡山へ登山できない)の結界があったところです。 北白川(瓜生山に裾)から「山中越」という白川沿いの滋賀近江神宮へ抜ける道がありますが(途中から比叡山ドライブウエーにつながる)昭和30年過ぎまでは石ころの狭い道で歩くしか登るすべはなかったのです。 途中には古い山中町と言う集落があります。 昭和20年代後半の頃、登って行くと現在の比叡山ドライブウエイあたり(比叡山の一鞍部、当時はドライブウエイはまだ無い)からは逆落としの急坂で、現在の際川(近江神宮当たりの地名)にある自衛隊の際川キャンプ(昭和20年代はアメリカ軍のキャンプ大津)自動車(トラック)運転の訓練所だった程の難所でした。 大昔からこの道はあったと思いますが、(志賀越道)獣道と言うよりも、行者が或いは一般人が滋賀側との行き来の為、踏み固めた小道だったと言った方が良いのかもしれません。(昔から開けた視界の道なので獣道では無い) もう一つ、堅田と坂本の間にある仰木(JRの雄琴)から歩くと道は緩やかで鞍部は比叡山延暦寺の吉川と根本中堂の分かれ道。 そこから下ると京都大原の「野村の別れ」(三千院、寂光院への道のもう少し南)で楽に(急坂が無い)歩けます。(現在は東海道自然歩道) この道も獣道と言うよりも、又行者が踏み固めたと云うよりも、人々が大原と行き来した様な 自然歩道です。 京都側からも大津側からも道は沢山あります。一度歩いてみませんか?(笑)
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- 川原 文月(@bungetsu)
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こんにちは。 比叡山には「獣道」(けものみち)があるくらいでした。 しかし、何人もの修験者によって踏み固められた「修験道」もありました。
お礼
回答ありがとうございました。比叡山の理解が深まりました!!感謝です!!!