他人の中で生きることについて考える

このQ&Aのポイント
  • 他人の中で生きることについて真剣に考えることがあります。自分は内向的で対人恐怖気質なため、人間関係の悩みが常につきまといます。外面的には良くなったと言われますが、内面的には生き辛さが消えません。友達作りや恋人探しの努力もしてきましたが、本質的には他人を受け入れることができないままです。自分と向き合いながら、他人の中でどう生きるべきか迷っています。
  • 他人の中で生きることについて悩んでいます。自分は内向的で人間関係に苦手意識を持ちながらも、外面的な対人スキルを身につけることができました。しかし、内面的な生き辛さが消えず、他人との関わりに不安を感じます。友達作りや恋人探しの試みもしてきましたが、根本的な問題を解決することはできずにいます。自分と向き合う中で、他人の中でどう生きるべきか模索しています。
  • 他人の中で生きることについて悩んでいます。内向的で対人恐怖気質のため、人間関係に困難を感じています。外面的には見た目も気遣い、社会的に成功しているように見えますが、内面的には生き辛さを感じ続けています。友達作りや恋人探しを試みても、他人を受け入れることができずにいます。自分と向き合いながら、他人の中でどう生きるべきか考えています。
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他人の中で生きること。

実生活では相談できる相手のいない悩みです。 現在、29歳。あと丁度半年で30歳になります。 営業の仕事をしている男性会社員です。 子供の頃から内向的、対人恐怖気質でした。 アルバイトや今の仕事を通して、外面を作ることを覚えました。 会社の顔として働くので見た目も気遣い、爽やかと言われました。 人と会話すること、普通の談笑が出来るようになり、 自分の抱えていた生き辛さが解消されたように思えました。 でも、生き辛さは消えませんでした。 仕事外で一個人として人と関わることはずっと出来ないままです。 外面が良くなった分、応じて中身を求められる場面が増えました。 やはり人より人生経験が少ない分、「つまらない・頼りない」と思われるようです。 人と繋がりたいという気持ちがある一方で、一人で物思いにふけったり、 一人で出来る趣味をしたり、本を呼んでいる時が一番の癒しです。 友達を作ろうと社会人サークルに入ったり、オフ会に出たりしました。 恋人を作ろうと合コンやお見合いパーティーにも参加しました。 世間に追い着こうと必死になっていました。 でもやっぱり本質的には他人が怖いと思っています、変わっていませんでした。 他人をどう受け入れたり、受け入れられたら良いのか分かりませんでした。 「本当の自分」がどうしたいのか分からなくなりました。 一人でいるのが好きですが、このままではいけないと感じています。 それでも人と関わることを自分が求めているのか分からなくなります。 「寂しい」という感情よりも何か漠然とした恐怖感がここ数日付きまといます。 自分が何になりたいのか分からなくなります。 自分と向き合いたくて、一人で海に行ってずっと海を見ていました。 それでも自分の本質がずっと分からないままです。 他人の中でどう生きたらよいのか、いつまでも分からないままです。 一個人の自分と他人、その中でどう生きることを選択すればよいのか、 仮面を被りながら無理を続けていけばいつか解消されるのか、 それとも自分自身が破綻するのが先か、内向的な悪い考えの癖です。 質問というよりは何かアドバイス、ご意見が欲しくて書き込んでしまいました。 他人の中で生きることについて、皆さんはどう生きていらっしゃいますか?

noname#213282
noname#213282

質問者が選んだベストアンサー

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noname#141482
noname#141482
回答No.1

本当の自分がわからないとのことですが……あなたは、「本当の自分はひとりしかいない」と思い込んでしまってはいませんか? 人間には様々な願望や欲求があります。そのひとつひとつが、互いに矛盾なく共存している、などということはあり得ません。 人と繋がりたい。私もそうです。 他人が怖い。私もそうです。 一人でいるときが一番の癒し。私もそう感じています。 私にとって、どれもが本当の自分であるように、あなたにとっても、どれもが本当のあなたです。 あなたは、「たったひとりの本当の自分」というあり得ないものを、あると思って求めすぎてしまい、自分を見失ってしまっているだけです。長い間、自分の内面を見つめて、ないものを探し続ければ、心のバランスを崩して恐怖が湧いても当然です。まずは今すぐその自分探しを一時停止してください。 あなたは、仮面を被りながらと書かれていらっしゃいますね。 人格のことをラテン語でペルソナと言います。これは本来、仮面とか役柄の意味。人は場面場面によって仮面をつけ、役柄を演じているという訳です。 「人と接するときに仮面を被っているというのなら、それは本当の自分ではなく、一人でいるときの自分こそが本当の自分なのではないか?」 間違っても、そんな風に考えてしまってはいけません。その答えは、否です。 一人でいることは、人と接していない訳ではありません。他ならぬ人物……これまでの人生で形成された「自分」と接しているからです。 そしてこの自分とは、正確には「自分たち」とでも呼ぶべき存在です。前述したとおり、人には様々な願望や欲求があり、これまでの人生の様々な場面での経験により形成されてきた、幾人もの自分がいるからです。 他人と接している自分。自分たちと接している自分。そのすべてがその人です。 あなたの言う「外面」だって、立派な自分です。あなたが思考の袋小路に迷い込んでしまうのは、外面を「無数の自分のうちの一個の自分」と考えず、自分には分不相応な、高価な衣服のように思い込んでいるからです。確かに、全身を貴族的なファッションでまとめても、着ている人が庶民であれば、貴族になりきれるはずもありません。 ですが、衣服と外面とでは、まったく次元が異なります。それは、外面というものが、あなたがこれまでの人生の中で自分で作り上げてきたペルソナだからです。 その人格は、人当たりが柔らかなのでしょう。爽やかなのでしょう。でも、意外と話題のストックが少なかったり、気弱だったりするのでしょう。でも、それはそれでいいじゃありませんか。それもあなたの中の無数の人格のひとつ。「本当の自分とは違う、自分には似合わない仮面」として嫌うから苦痛になるのです。そんな爽やかだけど頼りない仮面も、愛すべき自分の人格のひとつとして認めてあげてください。   あなたは、一人でいるのが好きなのに、このままではいけないと考えているとも書いていらっしゃいます。 将来が不安だから、というのならば解ります。「一人が好き。でも将来は家族が欲しい」なんて手前勝手なことは、私もしょっちゅう思いますから。 でも、必死に友人や恋人を作ろうとする理由が「世間に追いつきたいから」というのでは、人が頑張るのには、あまりにもつらすぎる理由だと思います。 なぜなら、あなたが心から友人や恋人を欲していないから。 あなたは世間に追いつかなければならないという強迫観念にとらわれるあまり、人が怖いという本音や、一人が好きという本音を押し殺してきたはずです。  その行為はあなたの心を苦しめるばかりだったでしょう。たとえ友人や恋人ができても、そんな過負荷をかけながらの関係であれば、長続きはできないと思います。 それよりも、素直に、自然に生きるべきです。 あなたはご自分の本質がわからないと嘆いていらっしゃいますが、すでに充分わかっていらっしゃるではないですか。 対人恐怖症の気があって、一人でいるのが好きで、そのくせ人と繋がりたくて、世間一般の価値観に合わせようと様々な場に参加する努力家で、でもやっぱり怖いから本当は何を求めているのかがわからなくなって自己の内面を見つめ続けたりしてしまう内向的なところがあって……(最後の内向的というのは、シャイなだけだと私個人は思いますが)。 そのすべてが、あなたの本質です。 そのうちのどれかひとつを選んで、自分の本質と定義しなければいけないと考えるから袋小路に迷い込む……これはもう書きましたね。 無理を続ければいつか解消されるのか、それとも破綻するのか……断言はできませんが、それは破綻の可能性のほうが高いです。外面も自己の人格と認め、なおかつ無理をやめなければ、いつか限界が来るでしょう。 そもそも、どう生きればいいかをひとつに絞るのがよくありません。白か黒かに決めたがるのが悪い癖です。わかります。私もそうでしたから。 これと決め、ただひたすら一直線に走り続ける。そんなことができる人はほとんどいません。いても、偉人として教科書に載り、伝記本としてまとめられるレベルの人物で、普通の人間には何の参考にもなりません。 年を取り、何らかの経験をする度に目標が変わってゆく。「本当の自分たち」も変わってゆく。そっちのほうが自然です。禅僧ですら、長い長い修行の末に悟りをひらいてもまだそれで終わりではなく、一生涯修行を続けるそうです。それなのに一般人がそんな簡単に人生が決められたら、苦労はしません。 無理をやめ、様々なあなたを認めてください。向いていない事柄に接するときは、徐々に徐々に慣らしていってください。世間の価値観に合わせて友人や恋人を作るのではなく、自分の心が欲したときに、自分の価値観に合う人を見つけて、友人や恋人を作ってください。その際も無理はせず、受けいられる人を受け入れることが肝要です。 今のあなたは、数年後のあなたとは違う人格です。それが少しの違いなのか、大きな違いなのかはわかりませんが、まったく同じということはあり得ません。今を楽しみながら、時に合わせて未来を変え、目標を変えて、ゆっくりと進んでいってください。

noname#213282
質問者

お礼

とても真摯なご回答を頂きましてありがとうございます。 何処にも居場所がない気がして暫くネットからも離れていました。 生き辛さだけが増えていく中でまたここに戻ってきました。 自分の感情に一貫性がないことをずっと悩んできました。 コロコロと感情が変わるたびに何て情緒不安定な人間なんだと。 「一人が好きなのに、寂しい」という感情はエゴでしかなくて、 自分にとって都合の良い展開ばかりを求めている傲慢で我侭な 人間なんだと自分に言い聞かせる度に辛さが増しました。 世間に追いつきたいという気持ちと淋しさの折り合いが付けられない、 どちらが本心かを見失う度に辛さは増えるばかりでした。 良好な人間関係は我慢との対価で払われるものだと言い聞かせ、 深く良好な関係を気付くには無理をして好かれないといけない、 不快に思う他人の言動や態度も受け入れないといけないとは 思うものの、思えば思うほど不自然になる自分と他人との壁。 「傷つくたびに人にも優しくなれる」なんて詭弁にしか思えず・・・ 中途半端に出来ることが増えてしまった故に苦しむことが増えました。 何も変わらない対人恐怖人間で居れれば自分にも他人にも期待なんて しなかった筈なのにと感じることが多々あります。 「こうでなければいけない」という理想の自分を追うことに疲れました。 gmigorou927さんのおっしゃるように自分の多面性を認めることで 楽に生きられる筈なのに、悟りの境地を開けば必ず幸せになれると 思い続けてきた勘違いのツケを今は払っている感覚です。 世間的にはマイノリティーである自分を恥だと思わずに認める、 世間体を気にしてしまい、無駄にプライドが高い自分にとっては とてもとても高い壁に感じるのですが、自分を一つだと決め付けずに 弱さも認められるようになれればと、もっと自分自身と向き合いながら 毎日悩み苦しみながら不器用にでも生きれたらと思いました。

その他の回答 (8)

回答No.9

No.5です。 何だか気になったので、再び回答します。 家庭環境の影響はあると思います。 子供のころから良い子を演じ続けてしまうと、自由な子供の力が弱まっていくと読んだことがあります。 ネットでエゴグラムという心理テストができますが、あれをやると自分にある性質と足りない性質が分かるので、やってみれば何らかの気付きが得られるかもしれません。 私もやってみましたが、自分に足りない性質が分かり、これまでの人間関係上の問題を省みて、どこを調整していけばいいか分かりました。 質問者さんは、今少し考え過ぎているのかもしれません。 私が前の回答で本音で生きたら自分を肯定できると書いたのは、人と関わる面もありますが、自分のプライベートの時間の面を強く言いたかったのです。 ひょっとしたら、最近は自分の時間を好きに生きれず、他人のことばかり考えていませんか? 自分の時間のいいところは、他人のことを考えずに過ごせるところです。 そういう時間に自分が本当にいいと思うことをやる。 別にランチに健康に気を遣ってとか考えずに今食べたいものを私は食べると気合いを入れて選ぶことから始めるのでもいいのです。 そういうことをやっていって自分が子供のころにやりたかったことに今さら抵抗があるかもしれないけど、挑戦してみるのです。 私も本音で生きるということに気付いてからいい大人ですが子供のころにやりたかったスケボーを始めてみました^^; まずは、自分の時間を本音で生きることから始めてみてはいかがですか?

noname#213282
質問者

お礼

再度のご回答どうもありがとうございます。 oshietegoosan様のおっしゃられるように最近は「好きなことをやろう」ではなく、 「どうしたら普通の人のように人に好かれるのだろう?」という事をずっと考えていました。 自分がやりたくないことをしないと好かれない、無理をしないと好かれない。 努力をしないと好かれない、我慢しないと好かれない。 そんな風に考えていました。 おかしいですよね?なんで好かれたいと思っているのに辛いことばかりで。 いつからか自分は無理をしないと(それでも大して変わりはない)繋がれない 人間になってしまっていたようです、立派な人間でないといけないと自分に言い聞かせていました。 皆様の回答を頂いて「もう立派じゃなくてもいいや」と少し思えるようになってきました。 誰かの承認を得たいが為に自分は何になろうとしてきたのだろう? どうして自分を承認出来なかったんだろう? 諦めや開き直りとは少し違う今の自分を受け入れ、認める。 自分は弱い人間です。 弱い人間は誰かに好かれることはないでしょう。 でも、それでも生きてる自分くらいは好きになれます。 そんな人生を歩んでゆけたらと思います。 昨年から「絶対弾けるわけない」と思っていたギターを習い始めました。 弾けないと思ってたら以外に弾けて、ライブで弾き語りが出来ました。 子供時代に周りと比べて卑屈になって諦めたこと、子供の自分が悲しみ傷ついたことを 今の自分が達成することで自分を少し許せるようになれた気がします。 一人ぼっちで孤独な人生、世間から見れば欠陥商品であったとしても そんな欠陥商品を愛すべき欠陥商品として生きて行けたらと感じます。

回答No.8

私も同様の考えを持っていました。陶芸家にでもなって山の中で暮らしていけたらいいななどと思ったものです。 そんな考えは大阪の工場に配属が決まったとき、打ち砕かれてしまいました。 男ばかりの工場なのでとにかく口が悪い!下ネタが多い!声が大きい!ソープやピンサロに友達を誘って堂々と行く!共同の風呂場では前を隠しているのが誰もいない! しかし、その環境は意外に居心地が良かったです。 相手は自分にデブだのトロイだの平気で言ってきますが、陰で言われるよりいいと考え、悩みも怒りもしなかったら段々うち解けてくることができ、変に悩むのが馬鹿馬鹿しく思えてきました。 上司に注意を受けたとき、以前ならひどく落ち込んでいたのも、どこから伝わったのか数人に飲み連れて行かれ馬鹿な話に花を咲かせて落ち込む暇も与えてくれませんでした。 学生時代の自分の未来予想には競馬やソープに行く自分などあり得ませんでしたが、周りも一緒にしていると思うと何でもできました。始めて女性も抱きました。 一種の劇薬を投与された感覚でしたが私の中ではプラスに作用してくれました。 その後、私は自分のことを妙に隠すのはやめました。 趣味は何かと聞かれたら、アニメ鑑賞にテレビゲーム。相手が興味を持ってくれたら話を続けるし、興味がなさそうならそれで打ち切ります。そこから友達に発展したこともあります。 話がだいぶん脱線してすみませんでした。 要は無理することはないということを学びました。 悩むときは趣味に没頭するといいです。 質問者様の仮面の内側にどのような本性があるかは分かりませんが、不必要に自分を隠したり飾り立てたりはしないでください。 現実とのギャップに気づいたときに落ち込むだけなので。 最後にお節介かもしれませんが、誰かに誘われてとか紹介でとかでないかぎりは合コンや見合いパーティーは見合わせた方がいいと思います。 妻や恋人とはある意味、一番身近に自分の心に踏み込んでくる他人です。 質問者様のためにも、また相手女性のためにも、自分をさらして他人を受け入れることができるよう心にゆとりができてから恋人を探すことをおすすめします。

noname#213282
質問者

お礼

回答どうもありがとうございます。 仮面をつけていると面向きは好印象に見て頂けることが多いのですが、 実際は同年代や年下の方が経験しているような友人や恋人との交流を持たない、 経験のない薄っぺらくて中身のなくて頼りなくて面白くもない人間です。 馬鹿にされたり軽蔑されるのが嫌で社会人になってからずっと自分を隠してきましたが、 おっしゃられるように無理をしていたのでしょう、疲れてしまいました。 どこかで良く見せて気に入ってもらおうとしていたんでしょう。 良く同性にも異性にも「何考えているか分からない」と言われていました。 考えの幼さが顔に出てしまって気持ち悪かったのだと今は思います。 別人を演じて好かれて、また演じ続けて破綻するより今は自分らしさを 信じて認めて好きになれる努力をしたいと思っています。 おっしゃられるように自分のように不安定で弱い人間には世間の強い方々のように 異性と付き合うことは無理だと自分でも分かっています。 せめて自分で自分を好きになって生きられたらそれだけでも自分の人生を 誇って死ぬことが出来るのかなと思います。

noname#141482
noname#141482
回答No.7

回答NO.1のgmigorou927です。 私のつたない回答に、わざわざお礼の文章を書いてくださってありがとうございます。 その文章を読ませていただいて、自分が言葉足らずだったことに気がついたので、少し補足させてください。 世間体を気にしてもいいんですよ。私だって気にしています。 プライドが高くてもいいんですよ。私もそうです。人間なんだから、プライドが高くても当然です。決して「無駄に高い」なんてことはありません。 私も長い間、つまずいてばかりでした。最近、ようやく楽になってきましたが、他人の目を気にすることは、今でもあります。 でも、まったく気にしないのもかえって困るでしょう? 社会の中で生きているんですから。 考え方のコツは、自分の中のどれかを、悪いもの、駄目なものとして無理に排除しようとしないことです。「世間的を気にする」自分も、「プライドが高い」自分も、あっていいものです。そして、生きることを円滑にするためにその二つを嫌って排除したがる自分もまた、あっていいものなんです。 自分を愛するためには自分を赦さなくてはいけませんが、それを大事と捉える必要はないんです。 「こんな考え方をしてる! こんな自分がいる! ……まあ、いいか」 何かを思った後に、苦笑を浮かべてつぶやいてみましょう。 「まあ、いいか」……この程度の力加減で、ゆっくりと気に入らない自分たちを認めていってあげてください。急いだりあせったりするなと人に言われても難しいですが、人生は先を見通せない道のようなものです。「急ぎすぎたりあせりすぎたりすると、かえって疲れちゃうよな」と力を抜いて、まずは深呼吸から入りましょう。 応援しています(^^)/

noname#213282
質問者

お礼

再度の回答どうもありがとうございます。 つたない回答なんてとんでもありません。 私にとっては新たな発見のある素晴らしいご回答です。 やはりどうしても世間体、自分がどう見られているかを気にしてしまうので 「こんな自分がいてはダメだ、立派で素晴らしい人間にならないといけない」と いう気持ちが出てきてしまうので一朝一夕で変われるとは中々思えませんが、 少しずつでも生き易さを感じられるように変えてゆけるように、 一人でも良い、と思って生きられるようになりたいと思います。

  • hyuuma8579
  • ベストアンサー率29% (326/1097)
回答No.6

存在するものは全ては三点そろって安定化します。 人間においても例外ではありません。 上下・前後・左右の六方向の人間関係なども含めていろいろな三点がありますが、 あなたの場合、まずは個人の安定基盤を形成しなければなりませんね。 個人の安定基盤とは・・・その前に個人とは、体と心からなる自分のことですね。 その個人の核となる心を安定化させることにほかなりません。 二通りの三点をそろえなければなりません。 第一に、姉または母親的な存在(女性)を三人探し出すことです。 くれぐれも恋愛対象的な存在にならぬよう、人格的な女性を見つけ出して下さい。 つまり、人間として一時の感情などに溺れたり、崩れたりしない・・・言い方を換えるなら、信頼できる女性ということになります。安心して何でも相談できるタイプの違う三女性を持つことが重要です。 第二に、あなたを心から信頼し、敬服してついてきてくれる三人の弟子のような存在をできれば同性を作り出すことです。 当然、第一も第二も同時進行で進めていくことになりますが、特に第二の三人との出会いは、あなたの成長に密接な関係性を持っています。 つまり、あなた自身に人を感動させたり、尊敬させたり、信頼させたりする内容(人の為に生きる喜びなど)を身に着けた度合いに応じて出会いが決まるというものです。 一人から二人、二人から三人と作れるようになれば、それは即ち紛れもないあなた自身の再創造がなされた結果に応じた出会い過ぎないということがわかるようになるでしょう。 人が人を信じたり、心を動かすようになるには、上辺だけ取り繕ってもしかたがないわけですから、 あなたが本物になる以外ないのです。 あなたが本物になればなるほどついてくるなと言っても慕いながらついてくる弟子のような存在・・・ あなたが人格を成長させることができたなら、三人どころかもっといっぱい増えていきます。 自分のために泣いてくれる存在を最低三人つくることを目標にがんばって見て下さい。 たとえ結果がでなくとも焦らないで下さい。そういう生き方をしていけば、少なくともあなた自身を信じられる自分が形成されているでしょう。 個人の安定基盤は、自己の人格を少しでも成長させようと努力していく中で与えられる賜物なのです。

noname#213282
質問者

お礼

回答どうもありがとうございます。 魅力がない人間には誰も惹かれないのは当然だと思いますので 人間的魅力を作るべきなのでしょうが、 それが「自分のため」なのか「他人に好かれるため」なのかで 自分にかかる負担も種類が違ってきてしまいます。 「自分がやりたいからやる」という領域に行ければ良いですが・・・

回答No.5

同じような悩みを持ち最近解決したかなーと思う者です。 「本当の自分」がどうしたいのか分からなくなったとのこと。 今まで本音で生きてきましたか? 外面を繕って適応しても本音を出さなければ楽しく生きれません。 仕事外でも一人の人間として人と関わるには、自分の本音をある程度は出して付き合わなければ、相手も心を許してくれませんし、自分を肯定できません。 確かに仮面を被って社会で上手くやっていくことも大事ですが、質問者さんに必要なのは、自分の本音と相談して生きていくことだと思います。 自分の本音と相談して生きていれば、いずれ自分のやりたいこともはっきりしてくると思いますよ。

noname#213282
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 中々本音を言えない家庭環境だったので、基本的には ネガティブ、根暗、皮肉屋な自分を社会に適応できるように 外面作って対処しています。 今更家庭環境のせいにする歳でもないのですが、抜け出せては いないようです。 人付き合いの距離は苦手なままです。 「一人が好きなのに寂しい」なんて都合の良い考えで、 みんな苦労して人付合いして、その代償として人から好かれるんだと 自分に言い聞かせて人の輪に飛び込んできたんですが、 ・・・ずっとしんどい気持ちばかり抱えてきました。 本音を言ったからといってどうにもならない、むしろ弱さを吐き出した分 弱音を握られて損した気分になったり・・・今思えば病んでました。 好かれなければならない、と考えすぎて疲れていました。 反動で暫くずっと一人でやってきたのですが、ふとした時に感じる 寂しさが本音なのか、それともただの都合のよい甘えなのか 判別付かないので「甘えるな」と自分に言い聞かせたりしていたら 自分の本心どころか分からなくなって相談してしまいました。 自分の本音=ただの自分にとって都合のよい我儘に思えてしまうのですが それと会話していると「もっ我儘を抑制しないと」と考えてしまいます。 出来る限り一人になる時間(自分と会話する時間)を作ってゆきたいとは 思っています。

  • rockfish
  • ベストアンサー率18% (117/643)
回答No.4

結構みんな、あなたの様な思いで日々の生活を 送ってると思いますよ。 こう言ってはなんですが、あなたは順応してる方 ですよ。 世間では順応できずに思い悩んで、精神を病んでる人の 多いこと。 少なくとも、ちゃんと自分を演じていられる。 是非続けてください、演じて外見のみならず内面もそれに 見合ったものにしてください。 あなたが理想としてる人物像を一生かけて演じましょう。 「本当の自分はこんなじゃないのに・・・」って思いで自分を 変えようとしても精神的に無理があったりもするんですけど、 「これは本当の自分ではない、あくまでも演技だ」と割り切る とそれほど悲壮感はないし、まあ楽な気持ちで臨めますし。 僕も男ですから一人で過ごす時間の重要性はよく分かって いるつもりです。 残念な事に女性には大して人気がないですが、なぜか同性 からは好かれるようでみんなに遊んでもらっています。 あなたにはどちらか一つ、あればいいんですよ。 気心の知れた友人か、素敵な彼女か。 合コン、オフ会、いいじゃないですか。 これからもどんどんいきましょう。 今までに「おっ、この人はいいなー」と思える人はいたんじゃ ないですか? だとしたら、出逢っているのにそのチャンスを見過ごしてた だけですし。 僕は海外生活を経て、かなり性格が変わりました。 あまり悩まずにどんどんやってみます、当然問題にも直面 するんですが、そこまではどんどんやる。 直面して初めて立ち止まり、「さて、どうするか?」と考える。 急がば回れ、です。 日本人は思慮深いので熟考してから行動する。 でも日本人の気質?からすると、大抵の場合は考えすぎて 結果、悲観的な答えを導きやすい。 行動すると楽ですよ、少なくとも問題の糸口は見える。 だから対処もできるし、初動が早いのでリカバリー率も断然 いいですし。 なんか仕事の話みたいになりましたけど、似たところがある のかもしれないですね。 これをやり出すと何事にも積極性をもちます。 全てがそういう風になってきます、自然と。 気づいた頃には自分の知らない自分になってますよ。 他人の中でどう生きたらいいかも大事ですけど、あなたが どう生きたいかを優先していいんじゃないですか?

noname#213282
質問者

お礼

回答どうもありがとうございます。 確かに性格的にも思考>行動になりがちです。 以前は思い切って行動していたんですが、結果が出ないと どうにも及び腰になってしまいますね・・・ 自分がどう生きたいかが明確でないから悩むのかもしれません。 おっしゃるように他人とどうこうを模索する以前に、 自分の中で自分との折り合いをつける必要があるのかもしれません。

noname#134883
noname#134883
回答No.3

私も、普段一人でいることを好んでいます。 性格も内向的だし、子供の頃の学校の思い出は、大抵先生としゃべっていたときの事ばかりです。 人の関係に振り回されるより、一人の時間を大事にしたいし、その時間に自分がホッとしていることを感じます。 質問者さんは、人との関わりにかなり「親密度」を求めている・求められているとお考えの様子。 内面に踏み込んでこない関係であっても、人は繋がります・繋がれます。 ご近所さんや親の知り合い、学校や会社の中で時間と空間を共有する人達など。 ご自分が思っているよりも、人は内面に土足で踏み込むようなことはしないですよ。もちろん質問者さんもしないでしょうけど。 仮面を被っているのが自分にとって偽っていると感じても、その仮面越しに質問者さんを見ている人は、仮面が有ることが当たり前の姿です。だから「本当は違う」「本音じゃない」とか関係ないんですよね。 仮面を現実の自分に近づけるか、自分が仮面に近づくかでも良いと思います。徐々に融合させていけば良いのでは無いでしょうか? 私は、現実の社会で孤独を好みながらも、このサイトで人の質問の解決に役に立てばと思う気持ちがあります。 人との関わりは文字でも可能だと考えているので。

noname#213282
質問者

お礼

回答どうもありがとうございます。 >「親密度」を求めている・求められているとお考えの様子。 他人の中で生きてゆこうと考えたり、行動をしている時に 「自分は何になればいいんだろう?」といつも思います。 まだ土足で踏み込まれた方が気持ち的には楽かもしれないです。 空気みたいな扱いの方がずっと辛いですね。 無理をしないと人とは繋がれないという思い(思い込み?)が強いので 心の中に常に虚しさが渦巻いているのかもしれません。 段々と仮面を見透かされているのではないかと思います。 それがこわくてどこか張り合おう張り合おうとしているから苦しいのかも。 仮面が一部になるには・・・程遠いかもしれません。 仮面に課している重圧は自分が課したので一番知っています。 開き直って「私はこんなに駄目な人間です」と言ってしまった方が 楽かもしれないです。 仮面の上のライトな人間関係でやって来れた最初の方が 自分としては一番気楽だったような気がします。 公私共に人と全く関われない⇒公では関われることにより、 自分の成長を感じることが出来ましたので。

  • tora7974
  • ベストアンサー率20% (41/200)
回答No.2

変な風に取らないでくださいね。 もしかしたらそれはあなたの特性なのかもしれません。適切な言葉で表現できないので誤解されることになるかも知れませんが「障害」ともちがうし「性格」とも違う、だから「特性」と表現しました。 人にはいろいろと能力があります。記憶力がいいとか行動力があるとか協調性に長けているとか、そりゃもう言い出したらきりがない。 でも、バランスの程度は人それぞれで全体的に均一に持ってるひともいれば極端な人もいると思います。 あなたはそのバランスに波を持っているのかもしれません。 私は記憶力が少し劣っていて学生時代には忘れ物は酷かったし、授業も頭に入らなかった。「何回言えばわかるん?」って云われては人には「やる気がないヤツ」って思われてました。 でも、物事を推測して先を考えたり、人が感じるであろうことを推測して言葉づかいやしぐさを変えたりは小さいころから出来ました。だから、近所のおばさんは冗談めかして「神童」って言ってた。その言葉の意味は解らなかったけど。 でもこれも「特性」って云えばそうだと思うし、そう信じています。 で、社会に出るときに勉強の部分では人から教えられるのではなく自分で先を考えて、一人で独学して理解していく方法を学びました。当然に時間は掛かりますが、理解し記憶することができるようになり、忘れやすい特性は変わらないのでなんでも忘れないうちに手順書?みたいなものを作っていつでも思い出せるようにしました。いわゆる一般には備忘録ってやつです。私の場合は量からして「手順書」ですけど。 みんないろいろな悩みを抱えて折逢いつけながら生きてると思います。一部をみてそれを自分も欲しいと思うからうらやましくなって自分を卑下してしまう。でも他人も同じように思って感じながら生きていると思います。 あなたが理想に思う生活像をなぞる必要はないと思いますし、プライベートは違っていてもいいんじゃないですか? 営業の仕事だし仮面は必要でしょうけど、それは食べるために演じている「舞台俳優」でいいとおもいます。 普段の私も二面を使い分けているし、多少は緊張しながら人と接してますよ。でも結局一人で何かしているのが好きなのは変わらない。それでいいし、それが心地いい。他人からからどう見られようと・・・・。 追伸:私は行ったことがないんですが、地域地域には療育施設というものがあるようで、そこでは知的障害からそういった障害に遠く及ばないような特性的なことまでテストを通して診断してくれる場所と専門医がいるそうです。 あなたの心の奥底まで判りませんが、どうしても抜け出せないようなら、出向いて調べること・相談することで「光明」が見いだせるかも知れません。・・・・不確実な情報ですみません。

noname#213282
質問者

お礼

回答どうもありがとうございます。 二面性があることは当たり前だと思っていたのですが、 二面性がどんどん離れてゆくと「何が本当なのか」が分からなくなりました。 対人恐怖気質の本当の自分を人に見せるのがとても怖くて、 虚勢を張るたびに「こんな自分になりたいんじゃない」と思ったものです。 外面が作れるようになると他人の優れた部分を見るたびにそれを 羨ましく思い、それが出来ないといけないのではないかと思いました。 自分を何でわざわざ自分ですり減らそうとしているのか分からないのに。 tora7974さんのおっしゃる折り合いが付けられていないのです。 ANo.1でgmigorou927さんがおっしゃられているように、自分の中にある 多面性を認められないから「人目を気にする見栄っ張りな自分」と 「ありのままの自分で楽に生きたい自分」が相反していることを矛盾だと 思うからこそ他人の中で生きることが辛くなるばかりです。 「営業マンやってるけど、根暗・一人が好きだけど寂しがり屋」という 矛盾した自分自分を自分が愛しいと思えるようになれば 他人の中で感じる生き辛さが解消されるのかなと感じています。

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    閲覧ありがとうございます。 なぜ私たちは他人に認められたいのでしょうか? きちんとした職についている、恋人がいる、お金もち、話がうまい、料理がうまい、etc 一般的に、私たちが他人に認められたいのは「自尊心」を保つためだと言われます。 では、なぜ自尊心は保つ必要があるのか? 私の意見ですが、問題の本質は自尊心では ないと思います。 本質は「退屈」です。何の特技も何の趣味もないと、かなり「暇」ですよね。人間、暇すぎると人の噂話、悪口を言うようになります。これも自尊心を保つための行為に見えますが、本質は「暇」だから人の悪口を言うのです。自分の中に話のネタがないから、他人の話をするしかない。どうせなら悪口言って自分がいい気分になろう。 本当は、他人にどう思われるかは重要ではない。自分の軸をしっかり持って、「暇」をやっつけていく事が大事なんだ!

  • 他人に心をさらけ出す事ほど怖いものがない。

    他人に心をさらけ出す事ほど怖いものがない。 二十代後半の会社員です。 子供の頃から他人に対して猜疑心の塊みたいな所があって、 友人は出来ても長続きせず、当然恋人などいたこともありません。 他人に対して自分をさらけ出すことが何よりも怖く、 いつも虚勢を張って自分を大きく見せようとしてしまいます。 家に帰ってはそんな自分に自己嫌悪し、後悔を繰り返してしました。 それでも、さらけ出せる、人に好かれる人間になりたいという気持ちは 年々強くなってきてしまう為、苦しい気持ちが強まってゆきます。 人に心を開いても拒絶されてしまうのではないかという恐怖や、 自分が与えるばかりになって、何ももらえず良いように使われてしまう恐怖、 自分自身が他人の前ではとてもみすぼらしく感じてしまう恐怖。 自分がとても弱くてダメな人間だと分かっていてもそれを受け入れる勇気がありません。 自分を守る為の理論武装や弱い自分を納得させる言い訳を考える能力だけは高まってゆきます。 親や周りの人の顔色ばかり伺ってきて、見捨てられるという恐怖で他人に心を開けません。 その上、劣等感や嫉妬心は人一倍強くて、その感情で自分がおかしくならないように、 自分の殻に篭って自分を守ることしか出来ません。 他人から見れば無駄に警戒心が強くて、理屈っぽくて絡み辛い人間のようです。 理屈で話してしまうので、イライラされてしまったこともありました。 自分を守るために外面は大分良くなりましたが、踏み込むのも踏み込まれるのも躊躇します。 一度心を許してしまったら、恐らく自分はズルズルと依存してしまい、 少し冷たい態度を取られたら「裏切られた」と感じて自分の殻にまた閉じこもってしまいます。 何とかしなければいけない、早く自立しなければいけない、と思いながらも 一番恐れているであろう他人からの承認を何よりも望んでしまっています。 自分にまとわりつく負の連鎖をなくすには今しかない、と思いながらも やはり心を開くのは怖い、嫌われるのが怖い、場合によっては口元が震えてしまいます。 全てさらけ出してどん底に落ちてそこから這い上がるしかないのかと思いますが、 どん底に落ちる勇気すらありません、打たれ弱さだけは天下一品だと思います。 どうやって他人と係わって行けば良いでしょうか? このままではダメだからカウンセリングに行ってみたいとも思っています。

  • 他人と深く関わることができない(他人が怖い、長文です)

    他人と深く関わることができない(他人が怖い、長文です) 小学生時代に「自分は人と違うんだな(劣ってるんだな)」と感じたことを強く覚えている二十代後半の男です。 「みんなと同じ(普通)になりたいなあ」と感じたその時のことをずっと引きずっています。 社会人になって一念発起(http://okwave.jp/qa/q5831764.html)して、 表面上は上手く人と関われるようになったことで自分も普通になれたんんだと最近まで思っていました。 でも、結局他人と深く関わった経験はこの年齢まで一度もなかったのです。 “本当の自分はどうしようもなくカラッポで誰にも好かれない” カラッポだから他人には自分を見せられない、嫌われる虐げられるのではないか? 自分が受け入れられるわけはない、だけど受け入れられている人は羨ましい・・・ どんなに着飾っても薄っぺらで対人恐怖の自分は根本的に何も変われていない。 だから、人には絶対好かれない。人を好きになるのはやはり怖い。 人の顔色ばっかり伺ってきたから本音のやり取りができない。 自分は明るく楽しい人間ではない、誰かと一緒にいても四六時中楽しませてあげることは出来ない。 常に善人でいられるほど、心が健康な人間ではないんのだと知っています。 友人でも恋人でも相手に必要な人間だと思ってもらわなければ何も始まらないのだと思います。 自分から動かないと何も変わらないことは経験で十分分かっていたはずでしたが、 何だかんだで他人が怖い、それを他人も感じ取るから距離が詰められない。 「劣っている人間が近づいて良いのか?」と考えます、見透かされるのを恐怖に感じます。 仕事上は気丈に振る舞います、そこには仕事というモノがあるから人と関われます。 でも、プライベートでは他人を怖く感じます。 明るく楽しい青春時代を過ごして、友情も恋愛も経験を積んだ普通の人の前で自分が小さく思えます。 どうすれば他人を恐れなくなるでしょうか? 今が買われるラストチャンスだと思っています。来週コミュニケーションのセミナーに行きます。 他人と深く関わるには何が必要でしょうか?人として出来て当たり前のことだと思われるかもしれませんが・・・ 二十九才・男

  • どんなに取り繕っても他人が怖い。

    30歳男性です。 情けない話ですが、他人がとても怖いです。 人見知り、引っ込み思案、傷つくのがとても怖いです。 それは子供時代からどんなに時を得ても他人が怖いです。 自分を演じる、別人を演じる手法を覚えてから 接客のバイトから始まり、今は営業の仕事に就いています。 表面上の評価は自分でも過大評価だと思うくらいで 何故か大手の仕事を担当する部署に異動になりました。 若い頃はこのままいけば、自信が持てると思っていました。 今は真逆です、歳を重ねるごとに自信はなくなってゆきます。 どんなに取り繕っても、他人が怖いのです。 傷つけられるのが怖くて仕方がないのです。 取り繕っても、人が大好きというそういう人にはやはり劣等感があります。 傷つくのが怖くない自信がある人にも劣等感があります。 そういう人の方が幸せになれるのも良く分かります。 でも、自分はそうなれない。 一人で居るのが一番落ち着きます(歳を重ねるたびに寂しさは感じますが) 仕事以外の場で自分を演じ続けるのは無理でした。 「好きで人と関わっている」人と自分ではもう魅力が違う。 自分に鞭を打って人と関わろうとしている自分とは全てが正反対です。 仕事のハードルが上がるにつれ、ボロが出てしまうことも怖いです。 傷つけられるのが嫌なので人を本気で好きになった経験もありません。 傷ついて嫌な思いや辛い思い、楽しいや面白いや落ち着くを感じられない経験を もっと積めば良いのでしょうか? 仕事は嫌な事をやってお金をもらうものです。 ただ、それをプライベートでまでやり続ける、「嫌な事」をやる気がおきません。 人といて落ち着くと思ったことは人生で一度もありませんでした。 「同性異性関係なく人を好きにならなければならない」と思うと辛くなります。 自分は誰を好きになればいいのかずっとずっと分からないままです。 「人を好き」になれない以上はこの先もずっとずっと辛い人生しかんないのでしょうか?

  • 他人の中にしか自分がいない

    わたしは、他人の中の評価でしか自分のことを理解することが出来ません。 例えば何も知らない相手でも嫌なやつだと言われたら、わたしは自分のことが大嫌いになります。逆に好きだと言われたら嬉しくて、誰かが好きでいてくれる自分が好きになります。 自分自身のことがよく分からないんです。良いところも悪いところもあるのは分かるのに他人に言われたことが全てだと思ってしまいます。 相手の小さな言葉の中に自分を見つけようとするので、考えすぎてよく落ち込みます。気にしすぎて疲れます。自分がどう思われてるか。好かれてるか嫌われてるか。可愛いか可愛くないか。そんなことを無意識に淡々と探ってしまいます。 ただ自分に自信が無くて不安です。誰かに評価されることでしか自分を認識出来ないと思ってしまいます。 これはおかしなことですか?そんなものなんでしょうか。本当は自分であることを自分が受け入れて人と関わりたいです。でも出来ないです。何かアドバイス頂けたら嬉しいです。

  • 自分に厳しく他人に厳しく?自分に甘く他人に甘く?

    お付き合いしている人がいるのですが、ずーっと合わないなと感じてきたことがありました。 楽しい時は楽しいけれど、なんとなく虚無感があるような。 その理由をずっと考えて、もしかすると 自分は「自分に厳しく他人に厳しく」だけど、彼は「自分に甘く他人に甘く」なのではないかと思いました。 気をつけようと思っていても、相手に色々のぞんでしまったり、嫌な思いをさせてしまいます。 そして「また言ってしまった」と思っていると、相手が「そういうので俺は怒らないから」と言われたりして(責めるのではなく、あくまで事実を述べているという風に)、自分の心が狭いと言われている気がして相手に対して嫌な気持ちになると同時に、実際に自分の心の狭さに嫌気がさします。 そんな感じでもやもやすることが多く、どうにかしたいのです。 「自分に厳しく他人に甘く」なるには、どういう考え方をもてばいいですか? あとこれは興味なのですが、私のような性格と、彼のような性格、どちらがあなたはいいと思いますか? ちなみに私は自分に甘くなるのは嫌です>< 他の人には甘くなれるのですが、それはある程度無関心になれるからというか、彼氏となると、思い通りにしたいとかそういうのではないのですが、もう少しきちんとした生活をしてほしいなどと思ってしまい、厳しくなってしまう気がします。 彼氏とは一緒に遊んだりするととても楽しいのですが、尊敬できるようなところは見つかりません。 (何様って感じですよね。) このままだと結婚はできないなと思います。 結婚を意識しなければ穏やかな気持ちでいれる気もしますが、それもさみしい気がしますし、自分の中の問題点は解消したいと思います。

  • 自分から他人を避ける事で応じる症状

    私は視線恐怖症だったりして自分から極度に他人を避けました。会話とかも長く続けるほど拒絶感が高まりとても人と話したくないかんじでした。人との会話はできるだけ大切にするよう心がけていました。同時に拒絶もしていて会話そのものを楽しんだりする事はなかったです。 質問です。私は最近とても自分がバカになったように感じました。今までの自分とは違い仕事があまりにもできないのです。想像力のなさで失敗したり他に物事を理解できずマニュアルに従いすぎるようなステレオタイプすぎたりするのです。 自分から他人との付き合いを避けるようになると私のような人になるという話を聴いたときあります。 回答者様の中に自分から他人を避けるような体験をしたかたがおりましたらこのことについて答えてもらいたいのです。自分から他人を避けるような気持ちがあるといつもより仕事ができないだとかそういう話を聞きたいのです。

  • とにかく他人にイライラします。

    とにかく他人にイライラします。 自分と家族以外の人間が嫌いというかムカついてたまりません。 職場でも自分の近くで誰かが立ち話をしているだけで イライラしてくるし、目が合っただけでも腹が立ちます。 相手がいい人だったり優しい人だった場合は あまりムカつきませんが、それでも鬱陶しく感じます。 昼休みも同僚と最初に一緒に昼食をとってしまった為に それからずっと一緒に昼休みを過ごしており、 それも煩わしくて仕方ありません。 本当は1人で過ごして昼休み後半は眠りたいです。 でもそうやって頭の中ではイライラしてるくせに 悪い人、嫌な人、最低な人だ、と思われたくなくて 表向きは仲のいいフリをしてしまうのです。 仕事に支障がでて困るというのもあります。 特に女性達が仕事中に私語をして笑っていたり お菓子を分け合ったりしているのを見ると 無理やり仲良しぶってんじゃねーよ、とか思ってしまいます。 外でも通行人全てにイラつきます。 本当はこんな性格直したいんです。 皆と仲良くしたいし、イライラしたくありません。 学生時代、イジメに合ったことと 母から暴力を振るわれて育った事などもあってか どうしても他人を信用できないところもあります。 どうしたら他人に対してイライラしなくなれるでしょうか? ストレスはたまるし、表情も気分も暗くなって このままではいいことなんて一つもありません。 改善しようと意識しても気がつくと 頭の中で他人に対して暴言を吐いています。 人にはとても言えないような言葉ばかりを ずっと考えています。 世の中敵ばかりじゃないのに、どうしてこんな風になったのか・・・。 時々一人で考え込んで泣いてしまいます。

  • 自分のなかのヘンな自信って、ありますか?

    他人からは「ヘンだ」と言われそうだけれども、 自分の経験や考え方から身についたミョーな自信。 あなたにありませんか? 自分の場合は・・・ ●「悩みがない!」と言っている人間こそ危険  →自分のなかでクヨクヨした経験が、のちに「役立った」ということも。  →周囲のお気楽キャラは、本質的に信頼されていない人間が多い。 ●捨てる神あれば拾う神あり  →仕事も良縁も、「もうダメかも!」と思ったころに   向こうからチャンスがやってくる。 ●優柔不断も、ときに力となる  →くされ縁だと思っていた人間関係やビジネスも、   意外なタイミングで幸運に転じることがある。 ・・・といった感じです。 自分はどちらかといえば内向的な性格で、 小さなことにまでクヨクヨすることも少なくないのですが、 そのクヨクヨが頂点に達すると、とことん楽観的になったりします。 「背水の陣」「窮鼠ネコを噛(か)む」といった感じでしょうか? これは、「ヘンな自信」のおかげだと思っています。 もっといろいろな“自分の見方”を知りたくて、 みなさんの、他人に言ったことのないような 「ヘンな自信」をお聞きしたい次第です。