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他人と深く関わることができない(他人が怖い、長文です)
- 他人と深く関わることができない二十代後半の男性が、長年抱える自己評価の問題と人間関係の悩みについて考えています。
- 自分は人と違うと感じ、他人と深く関わることができないという思いを強く持っています。社会人になり、表面上はうまく人と関われるようになったと思っていましたが、実際には深い人間関係を築く経験がないことに気付きました。
- 彼は自分自身をカラッポで好かれない存在だと感じており、他人に自分を見せることが怖いと感じています。また、他人を好きになることも怖く、自分の本音を出せずに他人の顔色を伺ってしまいます。彼は他人を怖がり、自己評価に悩みながらも他人と深く関わる方法を模索しています。
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>他人と深く関わるには何が必要でしょうか? 自分自身と深く関わることが出来るようになることです。 他人を怖いと思うのは誰にでもあることです。 何故怖いと思うのかといえば,自分の思っていることとは 違う事をするからではないかと思います。 自分に意思があるように,相手にも意思があります。 考えていることや行動の仕方も同じにはなりません。 違いがあっていいのです。 しかし,同じであることが普通であると思っていればその違いを 受け入れることが出来ないために恐ろしさを感じてしまうのでしょう。 人間関係を上手く築きたいと誰もが思うことです。 そしてそのために必要なことは相手の気分を害さないことだと考えて しまうことはあります。 そして相手の気分が悪くなりそうだと感じれば機嫌を取るような 行動をしたくなるでしょう。 そして,関心を持つことは常に相手の気分になります。 相手の気分を良くすることで関係を築こうとするなら、自分の気分のことは 大切には出来ないのです。 相手との関係が上手くいっていても、自分が相手の機嫌を取っているから 上手くいっているとしか思えないのです。 そして相手の関係が上手くいかなければ自分のやり方に問題があるとしか 考えられないのです。 気分というのは一定ではありません。 だから気分だけで物事を考えていれば一定ではない気分に振り回される ことになります。 たまたま怒っていたとしてもそれがこれから永遠い続くわけではありません。 いつか気分が勝手に変わるのです。 相手の気分を自分がコントロールできると思うことが問題をより複雑にします。 相手の気分は相手に任せておきましょう。 相手の気持ちを操作しないことで相手を自由にすることが出来て,それが 自分を自由にするのです。 様々な問題の根本にあることは実は自分自身を育ててこなかったことに あるのだと思います。 もちろんそれは小さな頃に自分を育てるために必要な体験をすることを 困難にさせるような要因があったのかも知れません。 でもそれをしなかったとしても,いまからでも自分を育てていくことは出来ます。 そのために必要なことはいますぐ上手く出来るようになることではなく 時間がかかったとしても失敗や間違いをわざわざするくらいの気持ちで 自分で学びながら出来ることを一つひとつ増やしていくことです。 効率よくなるべく失敗や間違いをしないで,簡単にできるようになろうと することが自分の中身を空っぽにしてしまうのです。 ちまたにある簡単にできるというのも,一時的には効果を発揮するものはあると 思います。 しかし、実際に自分で積み上げてきた土台がなければすぐに役に立たなく なってしまい、また他の方法を手軽に入手したくなる依存へと進むことに なるかも知れません。 でもそれすらも自分を成長させるために有効に役立てることが出来ます。 自分で自分を育てるという気概があれば身の回りにたくさんの学べることが あることに気付けると思います。
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- kamenko
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こんにちわ。 人と距離を無理に縮める事はないと思います。 もっと自分本位で「この人は失いたくない」と思った時に少しずつ縮めていけばと。 私は幼い時、家庭不和で家族の顔色を見て優等生を演じていました。学校でもそうです。 ふと自分の体が入れ物で、感情はその場で入れ替えたり差し替えたりすればいいやと思って大人になりました。だから人前では醜態を晒すという事ができないという観念がずっと付きまとっていました。 その中で、ハッとさせられる人に出会いました。 その人はまず初対面はやりすぎなくらい醜態や悪態を晒して、会う度に少しずつその人らしさを小出しにしていく。・・・気付くとその人は会う度に優しくて魅力的にみえました。 「どうして初対面の人には意地悪で嫌な人って印象づけるの?最初から本来の貴方でもいいんじゃない?」 って訊いた事があります。 「最初にそうしたほうが楽だし、相手も不思議と本音なんだよね」 とその人は言っていて、ズルいけど賢いなぁと絶句しました。受身ばかりの私はショックでした。 そんな能動的(主導的)なコミュニケーションのとり方があるんだって思うと同時に皆、人との付き合い方の工夫をしているんだなと学ぶ事ができました。 流石に今までの自分をそんな簡単に変えることはできないけど、価値観の違いをまざまざと見て肩の力が少し抜けました。自分の人生は誰にも譲らないという気持ちに至ったのはその出会いがあったからです。 「そんな人もいる」っていう話に終始してしまって申し訳ありません。 だけど自分は自分ですからもっと自分を好きになったり嫌いになったりして「感情」を出してもいいのではないでしょうか?生意気でしたら申し訳ありません。
お礼
回答頂きありがとうございます。 私も子供の頃から親とか周りの大人の顔色伺っていました。 だから仕事や会社から離れたら普段の自分をどう表現したら良いのか分かりません。 無理に変えようとせずに今の自分のまま、少しずつ自己主張を増やしてゆきたいと思います。 お話の中の方のやり方も一つの処世術(言い方悪かったらすいません)なんですよね。 そうはなれないとは思いますが、自分らしさを表現してゆくのが大切な気がします。 ありがとうございました。
- cibone
- ベストアンサー率25% (89/350)
私も同じように、人と深く関わることができにくい人間です。 劣っている、という感覚も確かにあります。 けれども「四六時中楽しませなければならない。」という質問者様の考え方については、異論があります。 質問者様は、エンターティナーでもないのだから、そんなふうに考える必要はありません。 相手を楽しませることができなければ相手にとって自分は何の価値もない、と考えてしまうんですね。 でも、そんな風に考えるのは、質問者様自身にとって大変酷な考え方です。 また、そんな風にしている人もいません。 常に楽しませている人間なんているのでしょうか。 もっともっと自然体で良いと思います。 質問者様はもっと自分本位になるべきです。 質問者様自身が、相手によって楽しませてもらう、くらいでちょうど良いのだと思います。 また、中身のないことをコンプレックスに感じているというお話ですが、 中身のある人とはどういう人を指しますか? 私の考える「薄っぺらい」人というのは、何も悩みなどなかった人です。 あらゆることが順調で、自分自身について深く悩んだことのない人です。 例えば顔が良い男の人は、顔について悩んだことなどなくて、 得意になっているかもしれません。 そういう人は、顔が悪くて悩んでいる人より薄っぺらいと言えます。 深く悩むということは、それだけ人格的には深みが増します。 人と深く関わることができない、と悩む人も、 そのことについて悩んだことがない人よりも、人間的に深みが増します。 例えば、その悩みについて、答えを得ようともがき、いろんな本などを読んだりします。 すると、いろんな考え方に触れることもできて そこから何かわかってくるかもしれません。 人と深く関わることのできない悩みのない人にとって 本など読む必要はありません。 薄っぺらい人というのは、お気楽で悩みなどこれといってなく、明るく楽しく過ごしてばかりの人のことを言うのだと思います。 20代後半と言いますが その年齢では、それほど中身のある人が多いとは思いません。 だいたい10代くらいは、わけもわからず過ごしてしまったりする人も多いと思います。 だんだんいろいろわかってくる人もいるかと思いますが 20代もまだまだ若くて何もわからない人のほうが多いと思います。 中身がある人というのは、悩みを持ったことがある、ということだけでは説明できないとは思います。 質問者様と共通の悩みとしては 私も「本当」の自分を知られたら、人は私を受け入れないのではないか、という不安です。 結局は自分に自信がない、ということですね。 それでもたまに深い話をする人もいます。 その人は、私と価値観や考え方など似ている人です。 質問者様も、質問者様と考えや価値観を共有できるような人とまだ出会っていないのかもしれません。 嫌われることを覚悟で 本音を話せそうな人には本音で話していくと良いと思います。
お礼
回答頂きありがとうございます。 エンターテイナーというよりも、相手の満足を常に満たさなければいけないと考えてしまいます。 友人関係であればそこまで求めないのかもしれませんが、恋人関係はシビアですよね・・・ 元々、他人に興味というよりも他人を通して見える自分にしか興味がないのではないかと最近思います。 矛先が常に自分に向いているから悩みが多いのかな・・・みたいな。 外面を良くした分、内面の自分と大分解離してきたような気がしますね。 そうすると内面はどんどん薄っぺらくなって人前には晒しにくなります。 生きづらい世の中ではありますが、あまり悲観することなく生きていければ、と思います。 いつか回答者さんも私ももっと笑って生きられるように頑張っていきましょう。 生意気に感じられたらすいません、回答どうもありがとうございます。
mofto-さんは自分自身が何か特別なことを出来る人や、何かすごいことが出来る人じゃないと、 友達になってもらえない、自分を好きになってもらえないと思っていませんか? それは違いますよ。 仮にその部分「だけ」を好んで近づいてくる人とは、長い付き合いは出来ないものです。 私も自分の友達や恋人を見渡してみて、 何でこんな私を好きになってくれたんだろう? 何でこんなに私と親しくしてくれるんだろう? 何で私はこの人からメールが来ると、こんなにも嬉しいんだろう? っていろいろ不思議に感じるときがあります。 でも、友達・恋人のどちらの関係も、 関係が長く続いている間柄の人ほど、「特別な部分」が好きってだけじゃないんです。 誰にでも特技やすごい部分は持っているから、そこも好きな部分の一つではあるけど、 それ以上に共通している部分は、『存在』が好きなんです。 ○○と一緒にいると和む、落ち着く。 こう感じるときに、何か特別なことや、特別すごい優れている部分っていうのは関係ありません。 一緒に楽しみたい、安らぎたいっていうときに、 そんなものを持ち出されて変に飾られても、嫌味に感じるときもあるしorz また、自分と長く繋がってくれている人達は、 「許す心」を持っている人が多いなと感じますね。 だって、学歴も仕事も何もかもボロボロな私を皆受け入れてくれている時点で、 私の存在自体を許してくれているなぁって思います。 そして自分自身も相手のことや、日常のイライラすることも許していこうと変わっていくもんです。 断言してしまえば、自分のことをずっと好きになってくれるか、今後も親しくしてくれるかは、 相手の価値観からなる評価であって、自分自身が決定出来ることではありません。 なので劣っている部分をどうにかしようとするよりも、 自然体の飾らない自分を認めることから意識されると良いですよ。
お礼
回答頂きありがとうございます。 結局人間関係もシビアなもので、自分に何も与えてはくれない人間と 無償で付き合うわけがないから与えられるのものがないとダメだと思っていました。 (特に恋人関係はそれが顕著だと思っています) 回答者さんのおっしゃられる関係は凄く理想的で羨ましく思います。 自然体で好かれることがなかったので、今後は無理をして自分を変えないとダメだと思っていましたが、 やっぱりどこか無理が生じて辛くなっては止め、そんな自分に自己嫌悪していました。 これからは無理して他人に併せようとするのを止め、自己主張の数を少しずつ増やしてみたいと思います。 決定権が自分にないなら好きにやった方が良い気がしてきました。 ありがとうございます。
- kurike0516
- ベストアンサー率12% (1/8)
人間に劣ってるなんてありませんよ。勉強など点数で云う場合で100点より99点は劣ってるという言い方はできると思いますが、人間が劣ってるわけではないんです。 人間は10人十色と言いますが人間の数だけ個性があるんですから。 人間が劣るとしたら他人にやさしくできない人でしょう 好かれようとするんじゃなくて自分から好きになることですよ それはどういうことかと言ったら、ひとに甘えることです。なにかを頼むこと。反対にひとを甘やかすそれは、なにかをしてあげることです。 そういう風にして人は、支えあっていく結果が友人となるんです。また恋人・夫婦と変化していくのです。 そういう事をしてあげたりしてもらう関係が友愛に発展していくのです。 仕事だとできると云われましたが、そこからどんどん引き受けてあげたり自分も要求してやってもらってください。 そうすることでたぶん良い関係がすすんでいくことでしょう。また仕事の能率もあがり、会社的にも儲かることとなるでしょう。 まず仕事関係のなかを高めて行きましょう。 笑顔が増えて行くと思いますよ。人間は笑顔ができるひとが優れた人だと思います。
お礼
回答頂きありがとうございます。 自分から好きにならなければ、人からは好かれない。 という言葉を見る度に「自分から好きになる」ということが分からず悩んでいました。 でも、自分から好きになる=甘える、頼むという形で考えるとしっくりきました。 こっちが甘やかす=何かをしてあげても、こちらの頼みを断る人とは付き合わなければよい。 (仕事関係は除くとして) そう考えたら少しの発想の転換で気が楽になりました。 どうもありがとうございます。
お礼
回答頂きありがとうございます。 以前、読んでいた漫画に「どうにもならない他人の気持ちを考えるのはやめて どうにかなる自分の気持ちから変えませんか?」という台詞があったことを思い出しました。 確かに他人に「こうして欲しい」と願うことは甘えであり、エゴなのかもしれません。 アサーティブ関連の書籍の中でも自分は自分の主張をすればよい、とありました。 あくまで人の気持ちまではコントロール出来ないのだから自分の主張したいことははっきりした上で 後の判断は他人に任せてしまえば一喜一憂することはなくなる気がしました。 回答者さんの回答はアサーティブの考えですね。どうもありがとうございます。