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意見

こんばんは。 ただいまオーストラリアはメルボルン大学に留学している23歳です。 メルボルン大学で行われるセミナーはディスカッション重視で、生徒達がいろいろなことについて議論します。 結局何を議論しているかというと意見なのですね。でも意見というのは本当に大事なのでしょうか。例えば「結婚後、女性は家事をしなければいけない」という意見があるとします。それに対してああだこうだと議論します。賛成したり反対したり、もしくは違う視点から論じたり。 ほとんどの生徒(もちろん僕も含めてですが)が自分の意見に執着するあまり、他人から自分の意見をけなされたりすると、とても攻撃的になったりします。または自分の意見を守ろうとするあまりついつい思ってもいない事を言ったり、自分の意見にいろをつけようとします。 反論をしなかったとしても自分のなかでは相手の意見をけなしていたり、馬鹿にしていたりすることもよくあると思います。 一度自分の中でこれは正しい意見だというものが出来てしまうととても危険だと思います。時間は常に動いていて、人間もそれと同時に柔軟に生きていけばよいのに、つい意見にしばられて前にすすめなくなってしまう。 みなさんはどうお考えになりますか? もちろん、意見は無意味だ、というのも一つの意見ですし、みなさんの回答も意見になるとは思うのですが、そういうことも含めて、みなさんの考えるところを知ってみたいです。よろしくお願いします。

質問者が選んだベストアンサー

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  • jive
  • ベストアンサー率45% (27/60)
回答No.7

 読んでいて、そういった思いを私も持ったことを思い出しました。今も、その思いは心の片隅にあります。  ある話題について人と話すときに、「協力してより良い意見に到達しましょう」とか、「お互いに知らないことを教えてもらいあいましょう」とか言う精神に基づけば、実に穏やかに話し合うことができますし、意見の相違も、それを踏まえて納得することもできます。  しかし、「どちらの方がこのことについてよく考えているか勝負しましょう」とか、「あなたが知らないことを指摘して差し上げましょう」とか思って話しますと、その指摘が正しいかどうかに関係なく、建設的な議論にはなり得ない気がします。    「朝まで生テレビ」という討論ものの深夜番組があります。あれは政治家や学者やジャーナリストが、その場で自分の有能さを示す必要があるので、例え、人の意見によって大きな気づきを得ることが出来ても「あ、それは気付かなかった、なるほどなあ」とか、よく分からないことを聞かれても「実はそのことについては私も考えている所なんです」などとは言えないわけです。そのくせ、「あなた全然分かってないね」みたいなことは平気で言います。これは、そういう場面に応じた、話し合いの一形態に過ぎない、ということであって、人と人はもっと有益な話し合いができるはずです。  「無知の知」などといいますが、その話し合いの場で、お互いに、自分がどれほど分かっていないのかを多く知ることができればできるほど、すごくいい話し合いができたことになるのではないでしょうか。「相手をギャフンと言わせることができればできるほど」ではないはずです(私はその場でおとなしくギャフンといった人を見たことがありませんが)。  人の物の言い方は、どういう内容を言っているか、というより、どういうつもりで言っているか、それによって伝わる雰囲気や気持ちで相手の受け取り方はずいぶん違ってきます。  例えばそこで容赦なく恥をかかされた人は、帰ってからもそのことを悶々と考え、風呂の中で「あいつ、今度言ってきたらこう言い返してやる」、などと考えたりします(私も経験があります)。その人は、相手を負かせることしか考えません。こういう悪循環となってしまったりします。  「建設的な雰囲気?相手にどう伝わるか考えて話す?面倒くさい!そんなこといちいち考えていられるか」などと言う人ばかりでは、結果的にその場で簡単に得られるはずの成果すら得られないでしょう。  上手な話し合いをするには、そのための能力が必要です。最初は誰でも、下手くそといえます。  自分の意見を論理的に見せる技は、恥をかきたくないから自然に身に付きます。相手の主張の矛盾を指摘する技は、かっこよく見せたいから自然に身に付きます。しかし、その場を建設的な議論の雰囲気にする姿勢は、なかなかその必要性に気付きませんし、身に付いてきません。  その場で議論しているのは何のためなのか。自分が目立つためでも、相手をやっつけるためでもないはずです。共同してより良い意見、認識に至るためであるはずです。そのためにどうすれば一番良いか。そこから上手な議論にいたる道が見える気がします。  意見を言い合う場において意見を出すことは何ら問題がないでしょう。とはいっても、相手に配慮して、意見を言わないことも、より大きな価値のためには必要なこともあり、おっしゃるように日本的美徳が当てはまるところかもしれません。  ただ、「言わぬが花」というのは、相手が異なる意見を出せば、すなわちそれは敵対的な意志が背後にあるのだと疑ってしまう、話し合いの下手さに由来するのかもしれません(「世間様が何というか」という、生活協同体から外れることを恐れる言葉もあります)。この疑心は見習うべきではありません。  皆それぞれいろんな意見があり、それはむしろお互いに出し合って、考えあうことこそが有益なのだ、という認識を全体が持つことができれば良いのだと考えます。

powerandterror
質問者

お礼

有難うございます。御自分の経験について話していらしゃるという態度に大変感激しました。特に人と話すときは、内容ではなくどういうつもりで言っているか、というのはおっしゃる通りだと思います。「おはよう」一言でも相手が自分の事をどう思っているか分かってしまうようなものですね。意見を言う言わない以前の心構えが大事なのですよね。僕の「意見は意味が無い」という質問に対して、完璧な答えだと思います。なによりもjiveさんのお人柄が文章からにじみ出ていて、とても良い勉強になりました。今後ともよろしくお願いします。

その他の回答 (6)

  • mktoolll
  • ベストアンサー率22% (20/88)
回答No.6

議論や討論というものは新しい価値観を生み出す為に行うものだと私は考えています。(勿論、モラルや社会通念を確認する為の討論は否定しません) よく討論自体が「さっき言ってた事と違う。」という発言によってストップされることがあります。 しかし、変化して当たり前というか、変化することが当たり前なんですよね。自分自身の意見を変化させる意見に出会えば変化しないほうがおかしいと思うのです。 意見の正当性を競い合うだけの討論ならば、それはゲームであって、なんの進化もしないし、何も生み出さない。単なる暇つぶしが悪いわけではないけども、人類の未来やこれからの社会についてなどの真剣な討論の席でも同じ姿勢でのぞまれると大変迷惑な時があるのですよね。 人は同時にいくつもの意見を持つことが出来ることは、誰でもしっているはずなのに、討論の場になるとかたくなに同じ意見を主張し続け変化できないのは、教育の失敗でしょうね。プライド合戦など無意味なことを学ばなければいけませんよね。(資本主義だとプライドが重要かもしれませんけど) 日本の小中学校における討論は主に「どう思うか」という視点で行われることが多いので、大人になっても同じ視点から論じられる場合が多いように感じます。 一つの題材が与えられた時に「それについて取材をし、限りなく正しい情報を収集する。」という現実的作業が加わって初めて本当の討論ができるような気がするのは私だけでしょうか?   とにかく、他人の意見を聞いて自分の考えに変化がおきれば討論した甲斐があるというものではないでしょうか。 宇宙の存在そのものが無意味だと私自身は思っているので、人間の行動なんてどうでもいいというのが私の本音ですけどね。意味が無いから無理やり意味付けしてみるのだとも思います。どうせ意味がないならポジティブな意味付けをした方が人生楽しく生きれそうな気がするのですけど、どうなのでしょう。 あなたの質問で感じたことを感じたままに書いてみました。

powerandterror
質問者

お礼

日本の社会、教育に踏み込んだ回答を有難うございます。プライド合戦というのは言いえて妙ですね。日本人はプライドと責任感というものがとても強い民族のような気がします。常に柔軟な態度をとれるようになりたいですね。宇宙論ですが、一部反対で一部賛成です。僕は一個人の宇宙に与えている影響というのは計り知れないものがあると思います。結局宇宙と言っても、世界の反対側の国にいる人々と言っても、それらと僕は細かくいえば完璧につながっている存在だと思うからです。人間の体を物凄い強い顕微鏡で見たとするならば、空気とまったく同じものが最終的にはあるのです。空気と人間をわけているものはただわれわれの体の方が質量が粗いという事だけだと思います。だからmktooIIIさんの言うようにポジティブに生きる事はとても素晴らしい事だと思います。それが世界中の人々に影響していると思うからです。 なんだかお礼のつもりが妙に長くなってしまいましたが、有意義な御意見有難うございました。

回答No.5

1度話した事や1度支持した意見を変えてはいけない理由などないので「意見を持つと柔軟な発想が出来なくなる」と思うのは思い込みです。意見に縛られている人を基準に考えないことです。 ディスカッションに必要なのは情報収集と自分の意見ですが、何にしても「話し方」に意味があると思います。TVでの討論をみても大抵声を荒げてムキになる人の意見はまず通りません。面白いです。モノはいいようですよね。話の流れの変え方や、人が静かになる声のトーン、ムキになっている人をギャフンと言わせる一歩引いた台詞、これらを身に付けるためのディスカッションなのでpowerandterrorさんが質問で書いている「こんな状態になってしまう」という悪いところに気が付いて工夫をしてゆくのが本来の目的です。 ディベートなら、主張が決まっているから曲げられませんが、ディスカッションは「あれ?」と思ったら意見を曲げてもいいじゃないですか。

powerandterror
質問者

お礼

そうですね。ディスカッションとディベートは種類が違いますね。それと他人が受け入れやすいようなものの言い方をするのも大事ですね。賛成です。今後ともよろしくお願いします。 有難うございました。

回答No.4

質問を読んで、自分の意見にとらわれすぎて柔軟さが失われている事を危惧されてらっしゃるように思いました。 もしそうならば、自分の意見は自分にとっては正しいが、ほかの人にとってはどうかは分からない。そういう前提に立てばだいぶ楽ではないでしょうか。 自分の意見にこだわるあまり、他の人の意見が受け入れられなくなるのが嫌なのであれば、まずは他の人の意見を理解する事に重点をおいて見るのもいいでしょう。 それぞれに異なった意見や感じ方があり、自分の意見もまたその一つなのだと知る事で、こだわりも解けていくように思います。 質問者さんがディベートの講義を通じて、やりとりする際に感じる様々な思いや、自分の意見にこだわる危険などについて考えるきっかけを得たのであれば、まずはディベートの意味はあったのではないかと思います。

powerandterror
質問者

お礼

素晴らしい回答を有難うございます。まさにおっしゃる通りだと思います。ディベートの行為自体に意味をおくのではなく、ディベートを通じて何かを感じる事に意味があるというのは目からうろこです。そのような視点にたつと、世の中の全ての事に意味があるという事になると思いますし、それはとても大切な事でもあり、真実だと思います。

  • nika
  • ベストアンサー率14% (66/470)
回答No.3

意見をYES or NOだけで区別するのは、現実受け入れられない場合があるという意見もあります。つまり、わからないということです。 では、ずっとわからないかというとそうではありません。 自分の中で意見がまとまり、どちらか結論がでます。 そこで、いろいろな意見を聞き、それに対して意見を述べる、でも結論がでるまではわからない。これでいいのではないでしょうか。 あなたの意見がまとまった場合、またいろんな批判にさらされるでしょう。また迷うかもしれません。なにがわるいのでしょう。わかりませんとその理由を述べることができればいいのではないでしょうか。 わたしはあなたの意見や意志を尊重します。 あなたの意志はどこにあるのかが問題です。

powerandterror
質問者

お礼

有難うございます。 同意いたします。結論を出す、という人間の一姿があるという事ですね。僕自身は「意志を持たない」というところに意志を持ちたいと思っております。つまり僕が一瞬一瞬で考える事に常に心の方で準備をしておきたい、という事です。nikaさんのおっしゃることは意見というよりも、人間の姿を説明なされているような気がして、とても参考になりました。

  • sakikumo
  • ベストアンサー率26% (36/138)
回答No.2

ディベートですね。 日本でも、この「ディベート能力」は 国際的価値として認められてきました。 要するに日本的「なあなあ」が通じない世の中で、 「きちんとした意見を持とう」という風潮ですね。 ご存知とは思いますが、 日本でも中学生レベルで 「ディベート大会」が開かれています。 新聞で、優勝校が発表されたりする時代です。 二者択一で意見を交換する場合(ひとつのことに関してYESかNOか)という場合、 どちらの意見を支持するかは「じゃんけん」が基本だそうです。 ここで勝つためには、相手の意見(反論)も考える、 それをつぶす意見にも資料を取るわけであり、 どちらにまわっても勉強が必要です。 ある意味で「ゲーム」であるディベートで、 「ひとつの意見を確信」しちゃったら、 それはそれなりの人でありますので、 あんまり危惧はしていません。 熱くなる気持ちはすごくわかります。

powerandterror
質問者

お礼

有難うございます。 そうですね。ディベートをゲーム感覚でやるという事ですね。国際的な感覚を身に付けるのも大事ですよね。僕は逆に子供の頃から英語圏で生活していた為に、日本的な「なあなあ」というところこそにとてもすばらしいものが潜んでいるような気がします。ディベートの主旨自体に自己保全をさせてしまうものがあるような気がします。しかし実際に行われているという事はなにか良い意味があるのでしょう。ぼくもあまり危惧はしていません。 sakikumoさん有難うございました。

noname#5186
noname#5186
回答No.1

このご質問自体に、相当多くの意見がちりばめられており、回答しにくい、というのが印象です。  私はまず賛成なのか、反対なのか、どちらの意見を唱えると実際に有益であるのか、そういう事を考えます。所詮個人の意見など風に吹かれておしまいです。どちらでも良いのです。ただしいずれかの立場で意見をしたからには、その立場で出来うる限りの議論を尽くすのが、マナー、筋だと思います。そうする事で真理の探究に少しでも近づこうという意欲が必要なのだと思います。真理がつかめれば、どちらにしても大もうけです。その時には賛成も反対も無いのですから。それが有益という意味です。  ところで、このご質問に対しては、あえて、こう答えます。・・・>ほとんどの生徒(もちろん僕も含めてですが)が自分の意見に執着するあまり、他人から自分の意見をけなされたりすると、とても攻撃的になったりします。または自分の意見を守ろうとするあまりついつい思ってもいない事を言ったり、自分の意見にいろをつけようとします。・・・それを正当な事と区別できる術を誰も知らないし誰にも出来ない。そうであるという肯定をする事は出来るが、それが不当で無いという事もできない。だから、そこのところについては深く探求したところで不毛であり、無意味である。あくまでも純粋に議論に対する意見を交換する事を考える事が、多少は意味のある事かもしれない、という事だと思う。  平たく言うと、客観的が過ぎて、意見の場から逃げたしている事と、区別のつかない状況にpowerandterrorさんが身を置こうとしているし、その不毛な部分で更に不毛かもしれない意見を得ようとしている、という事だと思います。

powerandterror
質問者

お礼

有難うございます。 意見の場から逃げ出そうとしている、というのは図星です。するどいです。onthewellさん。自分自身どうすることもできないし、それが人間というものだというのはわかっているのですが、議論により、理性により、理論により相手をうわまる、もしくはその問題に対しての真理を追求する行為が、世の中にあるたくさんの不平等の根源のような気がしてならないのです。良い理論を作り真理を追求する、ディベート社会である、オーストラリアを含めた西洋社会が、物質的に常に豊かであり、途上国とは格段の差があるという現実を見ると、意見を出し合い、真理を追求する行為自体に疑問を持たずにはいられません。 どちらにしろ回答楽しく拝読させて頂きました。有難うございます。

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