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江戸時代の生類憐みの令と有害動物について
- 江戸時代の生類憐みの令において、鼠は保護の対象に含まれていたかどうかについて質問があります。
- もし鼠が保護の対象だった場合、当時のネズミの増加についての問題が考えられます。
- また、江戸時代では鼠以外にもゴキブリ、蜘蛛、ハエ、蚊、ミミズ、カラスなど、有害動物の保護が行われていたかについても興味があります。
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こんにちは。 >>質問1. 江戸時代の生類憐みの令では、「鼠」は保護の対象になっていましたか。 保護の対象になっていました。 >>質問2. もし、保護の対象になっていたら、当時のことです、相当ネズミが増えて困ってのではないでしょうか。 猫を飼えば猫がネズミを捕ってくれました。 自然連鎖でしたので、人が殺してはダメでしたが、動物同士が争うことには、生類憐れみの令は適用されませんでした。 >>質問3. ネズミのほかにも、有害動物はいます。ゴキブリ、蜘蛛、ハエ、蚊、ミミズ、カラス、などなど、これらは保護の対象だったのでしょうか。 事実かどうかは別として、江戸時代に揶揄して書かれた本に「蚊」を殺したところを八丁堀に見つかり「遠島」になった、と書かれたものがあったようです。 また、農家で馬が死んだのを河原に放置した罪で「遠島」やら「死罪」になった者もいたとか・・・。 従って、生命のある動物全てが保護の対象になっていました。 子どものセミ捕りなども厳禁でした。犬ばかりではありませんでした。
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- 百 楽天(@100rakuten)
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まず言えるのは、「生類憐みの令」 という法律はなかったのです。 徳川五代将軍綱吉の「生類を憐む」という思想のもとに発せられた惣触(そうぶれ)や町触(まちぶれ)などを後世の人が 「生類憐みの令」 と総称したのです。 惣触は、老中・若年寄の下で作成された草案を将軍が裁決し、老中または老中の指示を受けた公儀役人(大目付・目付・三奉行など)から全国に向けて発せられた「触れ」で、御触書(おふれがき)の形で出たもの。町触は、町奉行の権限で町中に発したものです。 惣触の御触書には、あまり細かいことまで書かれていません。 なので、地方によってどこまで領民に指示するかが違ってきます。「生類憐みの令」 と称されたもののほとんどは江戸の町触です。これだって町奉行の配下の与力などによって作られたもの。 町触は町奉行の名で発せられたものですが、「町奉行-町年寄--町名主-月行事(家主)」 という順序で書面または口頭で行われました。口頭での場合は「口達書(こうたつしょ)」という覚書を渡されたようです。 町触は何かある度に発せられ、禁止したことが徹底しないようなときには同じような触れを何度も出したり、厳守さずお上に対して奉行の顔が立たないとなれば、こと細かなことまで指示します。 たとえば、犬同士がケンカしたときにはどうするかという質問があったときには、「水をかけて分けろ」 というようなことまで。 この「分け水」 についても、町奉行からの直接の触れにはなかったかも知れないのです。 町触はその時々の情勢で発せられ、そのなかで惣触のような公儀の直接の指示に関わるような重要なことはは高札場に高札を出して掲示しましたが、町触の数は膨大なのでそのすべてを町奉行所がいちいち記録していなかったのです。 そんなところにデマや噂が入り込んだり、当時のゴシップ集のような書物、新井白石が政権を握ったときの回想として前代の治世をこきおろすように大げさに 『折たく柴の記』 に書いたりしたことまでゴチャ混ぜになって、生類憐み思想までが悪者にされてしまったようです。 町触を記録した『正宝事録』(岡崎十左衛門編)には、たとえばこんな記載があります。 「 覚 一、生類あはれみ候儀に付、最前書付を以て仰出され候所、今度武州寺尾村、 同国代場村の者、病馬これを捨て不届の至に候。死罪にも仰付けらるべく候 得共、今度は先ず命御たすけ、流罪に仰付けられ候。向後相背くに於ては、 急度曲事に仰付けらるべく候。御料は御代官、私領は領主地頭より、前方仰 出され候趣、弥堅く相守り候様に急度申付くべき者なり。 貞享四年四月」 「 覚 本所相生町三町目大工善次郎弟子 犬を切殺し候者市兵衛 右市兵衛犬切殺し候由、本所相生町弐町目左官嘉兵衛と申す者の娘しもと申す小女申し候に付、御□議相知れ候間、御褒美として金子五拾両しもに下され候。 子八月 右の通仰付けられ候間、町中家持は申すに及ばず、借家店かり出居州召仕等迄、残らず申聞くべく候。以上。 元禄九年子八月六日」 町触について従来史料とされてきたのは 『正宝事録』 や 『撰要永久録・御触書』などで、奉行所ではなく町方による記録です。 『撰要永久録・御触書』は、南伝馬町名主で御伝馬役として公儀御用に関わる人馬の調達業務にも当たった高野家の所蔵史料から、重要な内容のものを集めたダイジェスト版です。 1994年に刊行を開始した『江戸町触集成』は上野東照宮旧蔵の町触を採録したもので、触れ出されたさまざまなレベルの内容を取捨選択せずにそのまま書き留めたもの。 当時の状況を詳細に残した史料であるため、今後この史料による研究が進めばもっといろいろなことがわかってくると期待されます。
農作物を荒らす害獣はその限りではなかったようです。 森銑三の『おらんだ正月』には、元禄年間、九州北部の島で全島あげての猪掃討を指揮した人物の逸話を記しています。 また、『黄門様と犬公方』文春新書で山室恭子が、『山王外記』や新井白石の『折り焚く柴の記』が糾弾するほどの厳罰が数多く行われたか疑義を提示しています。