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赤穂浪士「討ち入り」、そのとき辻番は?

川原 文月(@bungetsu)の回答

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回答No.1

こんにちは。 私は、自称「歴史作家」です。 >>当時の本所は「場末にて辻番しまりこれ無き所、さまざまの諸浪人衆多く入り込みたる所の由に候」と浪士長老の吉田忠左衛門が書状に残すような新開地だった、という記事を見つけましたが、これが正解でしょうか。 回答から先に述べますと、あながち「間違い」とも言いがたいのですが・・・。 確かに、辻番は江戸市中には辻番所がいくつかありました。 辻番は、幕府の負担による公儀辻番、大名によって設置される一手持辻番、いくつかの大名や旗本が共同して設置する組合辻番とに分かれますが、当時、辻番所が設置されていたのは、大川(隅田川)より千代田城に近い場所にあり、吉良邸のあった川向こうの本所松坂町辺りには辻番所はまだありませんでした。 (元文年間頃・1736~1740頃には川向こうにも設置されました)。 では、赤穂浪士たちが集合して市中へ繰り出した時は・・・と言うと、 良く知られているのが、両国橋西の米沢町にあった堀部弥兵衛宅に一旦集合し、その後も3ケ所に分散して吉良邸に向かいました。 当然、辻番もいたでしょうが、「場末にて・・・」とあるように、すっかり、辻番の役目を果たしてはいなかったのです。 従って、大石内蔵助らが集団で市中を歩いても咎められなかったのです。 なお、木戸番は長屋などの庶民地だけにありましたので、木戸番と出会うことはありませんでした。 武家地の道路は軍事用道路で、「いざ鎌倉」と言う時に、木戸が幾つもあったのでは役に立ちません。 >>浪士長老の吉田忠左衛門が書状に残すような これは「嘘くさい」ですね。 辻番と出会っていれば、お咎めもあったでしょう。 しかし、まあ、当時の風潮として「赤穂びいき」が多かったので、辻番も見逃してくれたのかもしれませんね。

goo-par1732
質問者

補足

ご回答の一部に少し解らない箇所がありますので、教えていただけませんか。 >>当時、辻番所が設置されていたのは、大川(隅田川)より千代田城に近い場所にあり、吉良邸のあった川向こうの本所松坂町辺りには辻番所はまだありませんでした。 (元文年間頃・1736~1740頃には川向こうにも設置されました)。 >>当然、辻番もいたでしょうが、「場末にて・・・」とあるように、すっかり、辻番の役目を果たしてはいなかったのです。 従って、大石内蔵助らが集団で市中を歩いても咎められなかったのです。 質問。当時、辻番所はなかったのですか。  吉良邸の小者が上杉邸へ危急を知らせに走っていますが、同時に番所にも届けた、という記録はなさそうなので番所も木戸番もなかったと推測しています。 >>木戸番は長屋などの庶民地だけにありましたので、木戸番と出会うことはありませんでした。 質問。集合場所は、町人の住む町中ですから「木戸番」がいたのではないでしょうか。

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