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日本の神話、童話、寓話で、以下の4つの特徴のあるものを探しています。

日本の神話、童話、寓話で、以下の4つの特徴のあるものを探しています。 思い当たる物語があれば、教えてください。 1. 物語の最初に”事件”や"危機"が起る 2. 少数派(一人でも、集団でも)の存在 3. ”事件”の原因は少数派にあるとして、人々は彼らを追放または殺害する 4. その社会に平和が訪れる

  • oelze
  • お礼率17% (15/88)

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • toshineko
  • ベストアンサー率44% (258/575)
回答No.1

日本では「まれびと」の信仰があり、どちらかというと少数派の来訪者が「神」であるという考え方のほうが主流だと思います。典型的なものは「スサノオノミコト」の神話でしょうか。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%81%B3%E3%81%A8 質問のケースとは多少異なるかもしれませんが、「キジも鳴かずば」の話を思い出しました。 ・ある村に父親と娘が暮らしていた。 ・娘が病気になり、その娘の願いを聞くために父親は罪を犯す。(1)事件 ・娘の病気は回復するが、娘の唄から父親が罪を犯したことが明るみになる。(2)少数派(罪人) ・罪を犯した父親は、橋を架けるための人柱として殺される。(3)少数派の追放 ・橋は無事に架かり、村には平時の生活が戻る。(4)平和の訪れ ・後日談「キジも鳴かずば・・・」 下記URLは長野県の民話ですが、同じ伝説が日本各地にあるようです。

参考URL:
https://www.so-net.ne.jp/storygate/sakuhin/s293.html
oelze
質問者

お礼

キジも鳴かずば、ぴったりです!! 助かりました、ほんとにありがとうございます!!!

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