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政治学 存在論と認識論

ghostbusterの回答

回答No.2

> 存在論は基礎付け主義者と繋がり、認識論は反基礎付け主義者と繋がる。 これはペケ。基礎づけは認識論の方法です。 > 基礎付け主義者は客観的で、反基礎付け主義者は主観的。 うーん、そもそも「客観的」「主観的」という言い方はあまり正確ではありません。ただ、まあ、これだったら当たらずとも遠からず、ということになるのかな。 あまり単純に二項対立させて考えないことです。「あれかこれか」という分類で無理矢理「わかろう」としている限り、絶対に先へ進めません。わからない状態というのは、いまの質問者さんの理解の枠組みでは、把握できないということです。わからないものをわからないまま、しっかり握って離さないで勉強を続けること。そうやって、自分が立っている理解の枠組みを絶えず広げていくこと。そうして、光が射してくるのを待つことです。大丈夫、そのうちおぼろな光が射してくる(笑)。あきらめなかった人は、みんなそうやってきたのですから。 さて、ここから回答。 存在論や認識論を哲学史の流れに置いて説明しようとすると、かなり大変なので、これはおいおい政治思想史を勉強していくときにちゃんと勉強してもらうことにして、ここではごくごくかいつまんで説明します。 存在論というのは、簡単に言ってしまえば、ものごとの本質、真のありかたを考察する学問です。わたしたちが「何かがある」と言うとき、わたしたちの目に触れるものは、「そのもの」の姿としては現れません。 たとえば、木の葉が一枚落ちてくる。わたしたちはそれを「葉っぱ」と呼んでいますが、木に茂っているのも葉っぱですし、紅葉しているのも葉っぱ、落ちたのも葉っぱだし、芽吹いたばかりの春先のそれも葉っぱです。つまり、わたしたちが「何かがある」というときの「何か」は、かならずある種の「状態」にあるもの。言葉を換えると時間の流れの影響を受けたものです。 わたしたちが目にする「何か」はかならず時間の影響を受けていて、時間の影響を受けていない「葉っぱそのもの」を目にすることはできない。 だから、「葉っぱそのもの」を知ろうとするなら、わたしたちが直接見たり聞いたりふれたりできないものの本質について考察しなければなりません。 わたしたちが知覚できないものの真のありようを問題にするのが存在論(形而上学とも)です。 さて、これを政治思想上の文脈で使うときの「存在論」は、ちょっと使い方がちがってきます。たとえば「南北問題」を考えようとするとき、「南北」という機軸が果たして存在するのか、あるいは「南側諸国」というものが存在するのか、そうしたことを問題にするのが「存在論」です。 ある問題を取り上げる。 その分析の出発点として、「どのようなものが存在すると前提されるのか」(※ここ、アンダーライン)を問題にしていく。そういうときに「存在論」という言葉が使われるのです。 つぎの認識論というのは、存在論と並ぶ哲学の大きな柱です。 存在論が、いきおい目には見えない、知覚することもできないものごとを相手にするのに対し、人間の知識の範囲や限界を見定め、その範囲のなかで知識の基礎づけを目指していこうとする考え方です。 この「基礎づけ」というのは、ある主張の正しさを、その前提となる事実と論理によって証明しようとするやり方です。そう、わたしたちが普通に「論証」と言っているやつ、それが「基礎づけ」なんですね。 Aが正しいことを証明しようとする。それには、正しいBということがらがあって、BであればAだから、Aが正しい、といえる。 でも、ここで問題が起こってきます。 では、そのBの正しさを証明するためにはどうしたら良いのか。Bの正しさを証明できるようなことがらCが必要になってくる。このように、基礎づけというのは「それを正しいと証明できる前提」を求めて無限に後退してしまうことになってしまいます。 近代認識論の祖と言われるデカルトは、この「基礎づけ」の一番根っこのところに神を置きます。神様が保証してくれるから大丈夫(ちょっとちがうけど)、と言った。まあ、デカルトは十七世紀の人ですから、それでも通ったのですが、ともかく、基礎づけ主義は、あらゆる推論の正しさを保証する、大前提が必要となってきます。その大前提というのは、いったいどうやって得られるのか。認識論は、その「基礎づけ」の一番根っこをめぐっていろいろ考えられてきたといっていい。 けれども、やがてこの「基礎づけ」そのものに対する批判が生まれてきます。 「基礎づけ」というのは、どこかで判断停止をして、正しい、と言い切ってしまっているのではないか。さもなければ、この基礎づけ主義は、循環論法を使うか、無限後退に陥らざるをえない。 (つぎへ続く)

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