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哲学することでは、悟りの世界には到達できないか?

tumaritou1の回答

回答No.18

哲学は、意識する脳の働きです。言葉を頼りに考える事に当たります。分別脳の働きの考えです。論理的に人生を突き詰めてゆく学問です。自我意識です、或いは顕在意識としての考えです。 それに対しては『禅問答』で分ると思いますが、この問答は言葉を使っていますが、分別脳に拠らない言葉です。分り難い書き方をしていますが、人間には二つの意識が存在しています。参考までに、ウイキペデアから引用しておいて、説明をして見たいと思います。 ”ロジャースペリー 分離脳 ノーベル賞受賞者 受賞年:1981年 受賞部門:ノーベル生理学・医学賞 受賞理由:大脳半球の機能分化に関する研究 ノーベル賞の受賞理由となった業績として分離脳研究がある。てんかん治療の目的で半球間の信号伝達を行っている脳梁を切断した患者に、片方の脳半球に依存することが知られている作業を行ってもらい、二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持っていることを実証した。” 右脳の意識が『仏性です、或いはキリスト教における神です』悟りを開いて、生死の問題を解決する、と云う意味と、神に会って和解する、と云う意味は、教義上の関係から厳密に言うと多少違い部分があるかもしれませんが、『心的な内容』有限のこの身が、永遠に抱きすくめられて、救われたと云う意味においては、同じと考える事は出来ます。 右脳の機能とは『生命活動を営む営みそのものです』母親の胎内にいるうちから働いている働きです。その証拠は、学校に行かないうちから(生まれた瞬間から、或いはその前から)心臓やホルモンや腸や呼吸までその時々に応じて、最適に整えています。 そうして左右の脳の機能の分化が完成に近ずいたあたりから、人間は苦悩するようになります。つまり右脳と左脳が別々に考え始めると云う意味になります。 アダムとイブが知恵の実を食べたと云う意味は、左右の脳の機能が完成して、”二つの脳半球が『それぞれ独立した意識』を持ったと云う意味になります。それが失楽園と云う科学的な意味になります。 つまり、知恵が付いて(左右の脳が二つの違う人格を形成して)『心の矛盾に苦しみ始める』と云う意味になります。 右脳の意識は、顕在意識には分り難くなっています。何故ならば、無意識の意識として君臨しているからです。メンタル面が強い人とは『自我意識が出ないようにして、無意識の自分に任せる事が出来る人』と云う意味になります。 逆にメンタル面が弱い人とは、『自我意識が引っ込めなくなって、無意識の意識と喧嘩をしている状態、或いは、無意識に入り難くなった人』と云う事になります。 哲学的に考える事は、論理で世界を、或いは人間を考える事に当たります。悟りの世界は、分別を捨てた考え方です。思考方法が全く違います。論理的な考え方が『人間の心の闇と、有限の壁を作っています』言葉に依る考え方が、人間を有限の世界に閉じ込めているからです。 その訳は脳の機能によっています。言葉で論理的に分析する機能は『割切れる事をその機能としている』と云う意味が有るからです。従って左脳の分別する機能は、割切れる問題しか解けない機能と云う意味があります。 自我意識だけでは有限の壁を越えることは出来ないと云う意味になります。では如何するのかと云う事が『禅問答』生まれた背景にあります。 禅問答とは、左脳にある人格自我意識が、右脳に在る『命その者を働かせている、無意識の主人公』=『神、仏』と出会うためのテキストという事になります。 人間の計らい(例えば悟りを開きたいと云う気持ちや、神経症になって治りたい気持ち、或いは自律神経失調症になって治りたい気持ち、或いは心を病んで、生き難い想いから離れたい気持ち)等の計らいで生きた時、自我意識には出来なかったと分かる時、右脳の意識が顔を出します。それが見性です。 その訳は脳の機能から説明出来ます。神経症や心を病むと言った場合の『自我意識への圧迫感』は右脳からの情報です、高い所に上がった事を脳梁を通して情報として送っていると同じものです。 自我意識が感じる『漠然とした不安や罪悪感等』は右脳からの生きてゆくために必要な情報です。ただ好きと嫌いでその情報を『受け取ろうとしなくなっています』ますますその信号を増幅して送ろうとします。その弱い不安を拡大して増幅した信号が『恐怖感』という事になります。 生まれたばかりの何も知らない赤ん坊でさえ『不安や安心や恐怖』を知っています。不安や恐怖感とは右脳の働きの事です。今の医学は心に対して、ある意味では間違った対応をしている事になります。 自我意識の計らいが尽きた時、右脳の意識が左脳の意識と、心の奥底で、交替する時、出合う事になります。自分を不安にしていた者の正体と、その訳を知ると言う事です。『神と和解する』涅槃。

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