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昭和20年8月15日のクーデターが成功し、本土決戦に突入していた場合、

昭和20年8月15日のクーデターが成功し、本土決戦に突入していた場合、 関東軍75万が全軍玉砕するまでソ連軍と戦うことになりますが、昭和20年夏から昭和21年末頃と想定される終戦にかけて満州の戦闘はどのように展開されていたでしょうか?

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質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
回答No.1

恐らく、昭和21年どころか昭和20年の末まで持たずに、 一方的な展開で朝鮮まで占領されていたかも知れません。 当時の関東軍は、南方に戦力を抽出されていたうえに、 戦力の質・量ともにソ連軍が圧倒的でした。 (特に戦車は絶望的な差です。) 南方では島やジャングルでの戦いが多かったので、 地の利を生かした戦い方で何とかなりましたが、 満洲の戦場では、機甲戦力や火力の差は誤魔化しようも ありません。

その他の回答 (4)

  • aburakuni
  • ベストアンサー率30% (470/1562)
回答No.5

#1さんの言われる様に既に関東軍は弱体化していた上、気の利いた上層部は本土に逃げ始めていました。 従って設問のクーデターが成功していても、組織を挙げて「全員玉砕」とは行かず、平地での地上戦においては到底1ヶ月も持たなかったと思います。 本土に近い場所では、沖縄戦がそうだった様に抵抗は在ったでしょうが。

  • sotom
  • ベストアンサー率15% (698/4470)
回答No.4

8/9に旧ソ連が侵攻してボロボロになりました。 戦況? どうにもならんわ。 勝ち目のない戦闘を継続させたがる馬鹿者に付き合ったから、 日本人の死者が余計に増えてしまったのです。 まともな戦略眼と精神を持つ将校がいれば、味方の死者を減らす努力をしたでしょう。 そうならなかった事が残念です。

  • gonveisan
  • ベストアンサー率20% (477/2365)
回答No.3

No2さんいいこというと おもいます IF 歴史でなく ゲームカテゴリーでも創設してもらいたい 果たして本土が18発の原爆にたえられるか トルーマンは18発投下予定さずがに長崎広島で中止したが 若しくは関東軍及び日本民族が亡国の民となるであろう

  • juyjuy
  • ベストアンサー率22% (139/612)
回答No.2

まだこの戦闘で生きてソ連に5年以上も抑留され、共産主義に洗脳されたり、それに反抗して重労働の末やっと生き延びた人がまだ生存されています。 このような問題を公開の場所で・・しかも無責任な無記名のサイトで・・論じることは、倫理に反していると思います。 若い人には「関係ない」と言われても当事者にとっては無責任な発言はつらい事になるでしょう。 通報はしませんがよく考えて投稿してください。英霊、今生きている当事者に失礼です。

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