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第一次,第三次中東戦争でパレスチナに住んでいたアラブ人たちは居場所が無

第一次,第三次中東戦争でパレスチナに住んでいたアラブ人たちは居場所が無くなってしまい,以後貧困に苦しんでいたようですが 周りのアラブ諸国(エジプトやヨルダン)が受け入れることはできなかったのでしょうか?それはまた,なぜ?

みんなの回答

  • zep19
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回答No.3

アラブ諸国の場合 その時代、政変により政治方針が変わるので画一化に区分けができません 例えばシリアやイラクで政権を掌握したバース党はアラブ民族主義政党で反イスラエルでしたが 政治・社会体制をイスラム体制に回帰させようとするイスラム主義とは対立 シリアのバース党アサド政権はイスラム教の少数派アラウィー派で指導層を固めたため 多数派のスンニー派と対立していました このように複雑化したのは50年代後期からのソ連のアラブ諸国支援からです それまで米英仏は三国協定によりアラブ、イスラエル双方に武器援助を抑制していたのですが これにより米は親ソ・アラブ諸国の敵であるイスラエルに援助を開始し アラブ、イスラエルの対立が激化 イスラエルの隣接するパレスチナ難民を受け入れる国家も PLOが国家内国家を勝手に組織し受け入れた国家を混乱させてしまう ヨルダン内戦はいい例ですが そもそも第三次中東戦争のきっかけを作ったのは アラファト率いるPLO傘下ファタハによるイスラエル領内への挑発的な多数のテロ攻撃です アラファトはこれでイスラエルの報復攻撃を呼び込みアラブ諸国を巻き込む思惑でした 予想通りになったのですが、イスラエル軍が予想以上強いのは想定外でした ヨルダン内戦で追放されたPLOとパレスチナ難民はレバノンへ逃れましたが レバノン南部にファタハランドと呼ばれるようになる国家内国家を作り イスラエル領内へ攻撃を仕掛ける一方でスンニー派やシーア派、ドルーズ派に武器援助し民兵団を組織し レバノンを内戦化し、結果シリア、イスラエルの介入を招き泥沼化してしまうのです このレバノン内戦での反イスラエル強硬派の急先鋒というべきシリアがコロコロ立場と敵を変え 最終的にシリア軍がPLOとパレスチナ難民に凄惨な攻撃を仕掛けレバノンから追放する というように過激か穏健かという区分けがかなり難しく微妙なのです 長文失礼致しました

  • zep19
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回答No.2

第三次中東戦争後 ヨルダンに多数のパレスチナ難民とともにPLOが亡命しました しかしPLOはヨルダン政府に無許可でパレスチナ難民から税を強制徴収したり ヨルダン軍や警察を差し置き難民キャンプで検閲を行う越権行為など頻繁に行い しまいにはヨルダン政府そのものを転覆させようと武力反乱まで起こしました PLOの過激グループPFLPが社連続ハイジャックにより首都アンマンへ強制着陸させ航空機を爆破する というテロ行為を行いヨルダンの国際的信用が失墜 激怒したヨルダンのフセイン国王と国民ベトウィン族は一斉にPLOとパレスチナ人に武力反撃し国外に追放しました

vavilion
質問者

補足

つまり同じアラブ人でも過激派と穏健派で対立しているということですか?

  • DieMeute
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回答No.1

難民として受け入れています。 1956年の国連の数字によれば、ヨルダンには難民キャンプが24あり、エジプトにも7、レバノンには15、シリアには10の難民キャンプがあり90万人の難民が暮らしていました。 この難民をなぜ自国民として受け入れなかったのかという意味ならば、ちょっと古い本ですが、1995年に第三書館から発行された鳥井順さん著書の「中東軍事紛争史2」に三つの理由が挙げられています。全部書くと長くなるので要約・補足して書くと・・・ 1.自国民の権利が侵害されるのを防ぐため。難民の大部分は農民出身でしたが、そのころアラブ諸国は過剰な農業人口に悩んでいました。そのため受け入れる国にとっては大きな負担になりトラブルの種となります。 例えば、エジプトの人口の7割は貧困層でした。中でも農家の9割以上は貧農でした。ここに、新たな難民(農民)をが入ってくると、さらに農家の生活が苦しく脅かされる可能性が出てきます。 2.イスラエルと、その建国を援助した欧米諸国による犠牲の象徴として、世界へのショーケースとする狙いがあったため。つまり、難民問題の責任の一端は英米の政策にあるので、救済は彼らがするべきだという論理のため。 3.アラブ諸国の結束・統一を図りイスラエルを攻撃する共通目標としての材料。イスラエルを非難するための材料。つまり政争の道具として難民の存在を使うため。 また、他国の市民になるより元いた家に帰りたいと望む、難民達の存在も忘れてはならないと思います。 戦争になり家を破壊され難民になったのは約半数で、半数の難民はまだ家に住める状態でしたが、戦争の危険を避けるため避難した人達でした。戦争が終わったら元いた家に戻るつもりの人も大勢いたのです。 1948年12月には国連で、帰国を望む難民には早い時期に帰れるように便宜を与える事をイスラエルに要求しています。イスラエルはこの要求を無視し実現しませんでした。

vavilion
質問者

お礼

夜遅くまですみません 素晴らしい回答でした!助かりました!

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