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子規に「広島は 柳の多き ところなり」という句があることを知りました。

子規に「広島は 柳の多き ところなり」という句があることを知りました。 1)この句は,表面上は,明治時代柳の多かった広島にいって,見たままを詠んだように思えます 2)また「ところなり」は,一言一言を大切にする俳句にあって,あまりにも単純な言葉のように思います 3)質問ですが「この句に何か深い意味があるのでしょうか」「または子規の何かの心象を詠んだものなのでしょうか」 4)もしそうでなければ,子規は「何の目的があってこの句を作ったのでしょうか」 よろしくお願いいたします。

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回答No.1

 こんにちは。  一見単純素朴な俳句ですが、含むところは大きいと感じます。  今、念のために過去の質問をいくつか読んでみました。清水辺りの歌の件からは、心に懸かることを忘れず、いずれ明かしたいという志が受け取れます。学校の課題ということでないのは明らかですので、この質問を読んでから調べたことはおよそ書き記すこととします。  いくつもの事象が絡んでいるため、結果を得るためには相応の想像力が必要かもしれません。ともあれこの句で格別に取り上げるべきは「広島」と「柳」、そして作者自身です。これだけでそれなりに連想ゲームが出来れば、なかなかの者だと私は感じます。 1.広島。  原子爆弾で攻撃された最大の理由はその歴史にあったと言えます。こちらの維新後から1890年代半ばまでの状況を先ず読んでください。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E5%B3%B6%E5%B8%82#.E6.88.A6.E5.89.8D  早い話が大陸への出兵の中心は広島の呉軍港でした(もちろんそれ以外の舞鶴港などもあったと思います)。これはその後の日露戦争でも、日中戦争でも変わらなかったでしょう。 2.柳  これは中国文化の知識が必要です。明治の知識人の文章では漢学の素養は必須条件でした。おそらくこの句での柳の意味は、旅の無事を願って渡す柳の環を指しています。 http://homepage3.nifty.com/kanran_fiori/nov_yanagi_2_fm1_index.html http://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f09/suwa84.htm 五段目に清明節に関して述べられています。このページは学習院大学の先生が書かれているようです。  ついでですがこのページの「イ 漁民信仰」の節の第3項に柳の持つ力の民間でのいわれが記してあります。 http://ilove.manabi-ehime.jp/system/regional/index.asp?P_MOD=2&P_SNO=1&P_FLG1=4&P_FLG2=2&P_FLG3=1&P_FLG4=5 これ以上は長くなる一方でしょうから、ここまでとします。 3.正岡子規の経歴。  日清戦争にごく短期間ですが従軍し、その帰路で発病したとあります。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%B2%A1%E5%AD%90%E8%A6%8F 広島で柳が多い風景を目にしたのは確かかと思われます。 4.その後。  既に子規の存命中に大陸事情が相当に燻っていたわけです。が、この句は数年後の日露戦争どころか、更に30年のちの日中戦争までを予見していたかもしれません。やはり子規が並の人ではなかったことを如実に示す句作だと言えるでしょう。  しかしその柳そのものが焼かれて大量に消滅するという最期にはさすがに子規も思い至らなかっただろうと想います。  今から読めば、これは平和への願いを込めた子規の真情ではなかったかと感じないではいられません。

kinseiboya
質問者

お礼

早速に詳細な回答ありがとうございました。 1)この歌がいつ詠まれたか私は知りませんが,もし虚子が日清戦争から帰還した時に読まれたとすれば,広島に前線基地としての大本営があったこと,遼東半島でも(多分)柳をみたこと,柳が別れなどの象徴的な樹木であったこと,(多分)広島にも当時柳が多かったこと(あるいは虚子がたまたま柳のある場所を見たこと),5月帰還とすれば新緑の柳が繁茂していたこと,こうしたことが,ご指摘のようにベースにあると思います 2)これをベースに,無事帰還できたことと,瑞々しい柳の美しさが重なって,この句ができたのではと思われます 3)こう解釈すると,一見単純表現に見える「ところなり」は,反転非常に力強い言葉として響いてきます ご丁寧に調べて回答いただき,ありがとうございました。この句はある歌手が好きな俳句としてあげていたのですが,彼がここまで知っていたとは到底思われません。

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