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今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。変な問いです

今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。変な問いですね。 私の頭の中から現れたというのは間違いです。さて、どこから現れたのでしょうか。 本当の自分は何かということで悩んでいる方をみます。そして、二元論での回答が多いことに驚きました。 私たちの本性は、外面でもなく内面でもない。時間も空間も超えています。それは私たちの傍に常にあった。私たちは、生まれるたこともなく死んだこともなかった。「自分」というものがあると思っていることが間違いです。私たちの本性は、実在でも、非実在でもありません。時間も空間も存在しません。心も存在しません。魂も存在しません。「色即是空」もありません。「絶対」もありません。「空」もありません。それらは、自我が創り出した幻想です。自我自体も幻想です。自我はどこから来たのでしょうか。 言葉で考えているものは、すべて幻想となります。言葉を観念を離れてください。ありのままをみてください。「色即是空」、「空」を観念でとらえてはいけません。 外の問いを出してみますね。 質問1「一羽のカラスが鳴きながら飛んでいきました。その鳴き声はどこから現れたのでしょう。そしてどこに消えたのか。」 質問2「両手を叩くとパンと音がするでは片手の音はどんな音か。」(禅の公案) 二元論だと答えがでないでしょう。 もし、分る方は回答してみてください。でも、回答した瞬間に間違いとなりますよ。 私は誰か。これを見ているのは誰か。これを聞いているのは誰か。と常に問うてみてください。 私は誰か。この問いは、どこから現れますか。そしてどこに消えますか。 私・・・は・・・誰か・・・。どこから現れますか。 私は誰か。という問い自体には意味はありませんよ。 さて、今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。

みんなの回答

noname#130082
noname#130082
回答No.25

毒矢に射られたとき、「この矢はどこから射られたのか?」などなどの質問を考えている暇があるでしょうか? そんなことを調べているうちに死んでしまいます((c)御釈迦様)。 もし、この質問が「こういう疑問が頭から離れずに、眠ることさえできません。どなたかヒントでもいいですから教えてください」という内容でしたら、私も、貴方のエゴから来ている、などという失礼な回答は言いませんよ。 単に戦うのを止めればいいのです。(おわかりですか?)

回答No.24

有、無、心、魂、が目覚める前の『言葉にならない世界』の話をしようとしています。或いは宇宙が何処から始まったという問いかけでしょうか?心が始まる前の出来事が分らないと分からない問いです。自分の心の始まりを問いかけています。言葉になる前の、言葉にならないものを問いかけています。言葉にしたら壊れてしまうものです。 心の闇に深く沈みこんで、意識と無意識が未だ始まる前の処からの事を問いかけています。母親のお腹にいた時の事を聞いています。自我意識と、自分自身の命そのものの働きは絶えず相談しながら、毎日が成り立っています。その事は誰も知らないかも知れません。知っていると言うも『嘘』だし、知らないというなら『あほう』です。知っているも3トンの棒、知らないで居る事も三トンの棒と言うところでしょうか? しいて言うなら『二元論が』始まる前に戻るなら、全ての矛盾が解消出来ると言う話です。人間の障害の元は、全てが『心の矛盾』に端を発していると言う話です。有限と無限が一つになって、二元論さえ飲み込んでいる世界です。 人間の障害、或いは、深浅を問わず悩みそのものの本質、或いは心の病全てが『心の矛盾』に端を発しています。脳内の説明でするなら、右脳の主人公が『言葉を持たない事』左脳の主人公が『言葉しか理解できないところ』が全ての問題の発端となっています。 今の精神科医達はその働きを弱めたり、感じないような薬を処方して、『妄想』を相手にしてお金を貰っています。ですがその根本が分かっていません。精神科医達は『心がどうして苦しくなるのか』という事を知らないで、『治療をすれば治ります。』と言っていますが、治るという事と治らないと言う事の根本側が分らないで、治療を開始しています。その結果が寛解となっています。 今の精神医学では『完治』と言う言葉は使おうとはしません、何故ならば、原因が特定出来ていないからです。 一方、宗教界も『心の矛盾』の解決には懸命になっていないように見えます。今の宗教にはもうその力が無いのか、或いはその力を持つ人がいないのかも知れません。 迷える子羊は、薬を処方する精神科医を頼っているように見えています。よい薬が開発されながら、心を病む人達が、減らなくてあべこべに増えている現状を憂いている者の一人です。

noname#129202
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 とても良い回答ですね。 想念のおきる前、「       」、そこにいかにとどまれるかが問題になるのですね。

回答No.23

 存在と現象の食い違い、その根源に対する無知からきていると存じました。

noname#129202
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「無知」という概念から出発してはいけません。 概念を外しましょう。

回答No.22

>さて、今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。  意識ではないでしょうか。

noname#129202
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 「意識」という概念も外してください。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.21

#20です。 私の問いかけには応じていただけないようですね。 いつか会話が噛み合える日が来るよう願っております。 それまでせいぜい精進することにしましょうかね。   

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.20

#19です。 >そもそも、この質問は誰が誰にしているのでしょうか。あなたと私、他の皆、路傍の石、花、樹、犬、音、光、月、太陽、その根源(仮の概念)が同じだとしたら、この質問は誰が誰にしているのでしょうか。 : 蟻も人間も同じ生き物ではないでしょうか、と言われたような印象を受けました。 間違いではありませんが、蟻にとっての世界と人間にとっての世界は別物である(且つ、その意味で[世界というもの]の実体を我々は知ることが出来ない)という事実をないがしろにすることはできないでしょう。 >あなたが、私・・・は誰かという時、私が私・・・は誰かというとき何か変わらずに在るものがありませんか。 : 変わらないもので思いつくのは「人類としての記憶」ぐらいでしょうかね。 しかし、いずれにしても「私」と考えた段階で主観的見解が導かれるわけで、これは客観的でない分、普遍的とはなり得ませんから、その意味で、「何か変わらずに在るもの」と同時に「何か独自なるもの」が必然的に伴ないます。 前者だけに目を向けるのも一種の逃避と言えるでしょう。 回答者として愚見を披瀝しておりますが、差し支えなければ、ご質問者さんご自身のご見解も伺ってみたい気がしますね。     

noname#129202
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >蟻も人間も同じ生き物ではないでしょうか、と言われたような印象を受けました。 蟻は自分のことを蟻と認識しているでしょうか。蟻にはあずかり知らぬところです。 全ての動植物、光、月、太陽。 それらはすべて人間が名付けたにすぎません。 概念を外しましょう。そこに何が在りますか。変わらずに在り続けるものがありませんか。 >「人類としての記憶」 これも概念です。 あなたは今、私は誰かと問うてみましょう。 「私」・・・(どこから現れましたか)は・・・・・・誰か・・・。どこに消えましたか。 考えて・・・(どこから現れましたか)いるのは・・・・・・誰か・・・。どこに消えましたか。 こんどは私が自分(仮の概念)に問うてみましょう。 「私」・・・(どこから現れたのか)は・・・・・・誰か・・・。どこに消えたか。 あなたと私にとって、何か共通して変わらないものが在りませんか。 内側でもない外側でもない。無でもない有でもない。あれでもないこれでもない。しかし、全てに存在(仮の概念)している。全てに充ちている。いつもあなたの傍にずっと在りつづけている何か(仮の概念)。 探そうとしてはいけません。 その瞬間に「探そうというもの」と「探されようとするもの」の二つに分かれてしまいます。もともと一つのものを分けてはいけません。あなたは既にその到達地点にいるのですから。

  • hakobulu
  • ベストアンサー率46% (1655/3578)
回答No.19

>それらは、自我が創り出した幻想です。自我自体も幻想です。自我はどこから来たのでしょうか。 言葉で考えているものは、すべて幻想となります。言葉を観念を離れてください。 : 文頭の「それら」とは、『「自分」というものがあると思っていること』ですよね。 しかし、今回の、 『今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。』 というご質問自体が、 「自分=質問者さんご自身」があると思っているからこそのものではないでしょうか。 でなければ、質問をしようとする気持ちになること自体が有り得ないはずです。 >ありのままをみてください。「色即是空」、「空」を観念でとらえてはいけません。 : 色即是空にはとんと縁の無いものですが、それにしても、「ありのままをみる」ということ自体、つまり、「見ようとすること自体」が「色即是空」の本旨から外れているような気がするんですけどね。(違っていたらご指摘いただきたいと思いますが) 観念で捉えてはいけない、とおっしゃる点はわかるような気がしますが。 >私たちの本性は、外面でもなく内面でもない。時間も空間も超えています。それは私たちの傍に常にあった。私たちは、生まれるたこともなく死んだこともなかった。「自分」というものがあると思っていることが間違いです。私たちの本性は、実在でも、非実在でもありません。時間も空間も存在しません。心も存在しません。魂も存在しません。 : 『私というものの実体』についてのご見解ですね。 大体そんなとこではないでしょうか。同意しますよ。 しかし、冒頭でも述べましたが、ご質問者さんが、このような主張を以って自らの意図するところを他者に伝えたいと欲求するという、まさに、そのこと自体が自我と言えるわけで、それを無視してしまうと、単なる逃避にすぎなくなってしまうでしょう。 逃避はその名の通り一時逃れとしては有効ですが、(通常の場合)すぐに底が割れ、飽きられる可能性が高いのでは。 つまり、実体がどうであれ、私たちは(知りようもないので)実体としての我を生きているわけではなく、実体と見える我を生きているにすぎません。 しかし、我の実態とは何かがわからないということは、我という存在が無いということと同義ではありません。 >時間も空間も存在しません。心も存在しません。魂も存在しません。「色即是空」もありません。 : たしかに、それらは単独で存在はしないでしょう。 時間も空間も、なにかの存在を認識する上での条件にすぎませんから、 『「自分」というものがあると思っていることが間違い』 というご見解から導かれる当然の帰結だろうと思います。 しかし、なぜ『「自分」というものがあると思っていることが間違い』なのか、を(なぜなのか疑問ですが)明示しないうちは、ご質問者さんの主張は納得されないでしょう。 >私は誰か。この問いは、どこから現れますか。そしてどこに消えますか。 : それは、ご質問者さんが人間であるからこその問いでしょう。 本能だけでは生きない(生きられない)ことの見返りとして付与された超自我性から現れています。 これが、いわゆるアイデンティティの希求です。 誰かと問う自分と問われる自分、この自我同一性を求め見つけてこそ、精神の安定が得られる仕組みに人間はなって(しまって)いるわけです。 発せられた問いは、発した私自身に消えるしかありません。 むしろ、消えたあとに何が残っているか、が問われるべきでしょう。 >さて、今、「私」がしているこの質問はどこから現れたのでしょうか。 : ごく真面目な逆質問なのですが、 「あなた」がこの質問をしようとした、あちいは、このような考え方を人々に知らしめたいと思うようになった理由はどこから現れたのでしょうか。 自我擁護派として、この質問で締めくくりたいと思います。   

noname#129202
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 >そのこと自体が自我と言えるわけで、それを無視してしまうと、単なる逃避にすぎなくなってしまうでしょう。 そうですね、回答を求めるというのは自我の働きでしょう。しかし、この自我がなぜこの時間・空間に(概念で説明しますね)現れたのでしょう。どこから現れたのでしょう。 そもそも、この質問は誰が誰にしているのでしょうか。あなたと私、他の皆、路傍の石、花、樹、犬、音、 光、月、太陽、その根源(仮の概念)が同じだとしたら、この質問は誰が誰にしているのでしょうか。 あなたが、私・・・は誰かという時、私が私・・・は誰かというとき何か変わらずに在るものがありませんか。 I am that i am.

noname#118718
noname#118718
回答No.18

この質問は私が疑問に思っていることとリンクしてますね。 これは運命に違いない! まあ、単に質問を自分の関心事に脳内で再編成しただけなんですがね・・・・・ ここらへんの機微がわからないと「これは運命に違いない!」とのめり込むのかもしれません。 メモ:「平均的な人間像というのは個性的な人間を排除するためのものではなく、その個性を理解するために使う道具だ」

noname#129202
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 あなたは今、私は誰かと問うてみましょう。 「私」・・・(どこから現れましたか)は・・・・・・誰か・・・。どこに消えましたか。 考えて・・・(どこから現れましたか)いるのは・・・・・・誰か・・・。どこに消えましたか。 こんどは私が自分(仮の概念)に問うてみましょう。 「私」・・・(どこから現れたのか)は・・・・・・誰か・・・。どこに消えたか。 あなたと私にとって、何か共通して変わらないものが在りませんか。 内側でもない外側でもない。無でもない有でもない。あれでもないこれでもない。しかし、全てに存在(仮の概念)している。全てに充ちている。いつもあなたの傍にずっと在りつづけている何か(仮の概念)。 探そうとしてはいけません。 その瞬間に「探そうというもの」と「探されようとするもの」の二つに分かれてしまいます。もともと一つのものを分けてはいけません。あなたは既にその到達地点にいるのですから。

noname#130082
noname#130082
回答No.17

面白い質問ですね。 まあ、言葉を使う限り、二元論的な考え方が入り込むのは避けられないと思います。 あえて二元論的に考えると、この質問をQとした場合、Q⇔(質問「Q」はどこから出てきたのか?)という感じになって、自己言及を含む質問になりますね。まあ、そこからゲーデル云々などに話を進めると、どんどん本題から外れますのでスルーしますが。 二元論でない自他未分化のような根源的な話となると、私も悟りをひらいたわけではないので答えられないですね。 無理に答えてみると。そもそも、「質問する主体」と「答える主体」という対立関係がないので、質問自身が幻です。何故なら、「問題」というものが存在しないからです。問題が存在しないから解決も存在しません。当然、この回答も幻想ですね。 あえてこの質問があるとすれば、質問者様の中に「私は二元論や言葉にとらわれない本当の答えを知っているぞ」と主張するエゴが残っていたために、そこから出てきたもの(私の回答も、こちらのエゴからの回答)ということになりますか。とはいえ、エゴも幻想ですから、やはり質問もこの回答も幻想ですね。 カラスは鳴いていない(でしょ?)。もし「カラスの声はあちらに行きました」という答えをした人の鼻をひねるのもなし。あえて何とか答えようとすれば、 >鳴きながら飛んでいきました。 いまだにカラスを背負っているのか?私はとっくに降ろしてしまったぞ、ぐらいですかね。 ということで、そもそも、両手でも音は出てません。

noname#129202
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 そうですね、回答を求めるというのはエゴの働きでしょう。しかし、このエゴがなぜこの時間・空間に(概念で説明しますね)現れたのでしょう。どこから現れたのでしょう。 そもそも、この質問は誰が誰にしているのでしょうか。あなたと私、他の皆、路傍の石、花、樹、犬、音、 光、月、太陽、その根源(仮の概念)が同じだとしたら、この質問は誰が誰にしているのでしょうか。 あなたが、私・・・は誰かという時、私が私・・・は誰かというとき何か変わらずに在るものがありませんか。 I am that i am. >カラスは鳴いていない(でしょ?)。もし「カラスの声はあちらに行きました」という答えをした人の鼻をひねるのもなし。あえて何とか答えようとすれば、 >鳴きながら飛んでいきました。 では、実際に鳴いているカラスを見てください。鳴き声はどこから現れていますか。そして、どこに消えましたか。 >ということで、そもそも、両手でも音は出てません。 実際に両手でしっかり叩きましょう。

noname#118718
noname#118718
回答No.16

きぐるみさんの意見は面白いなあ。 確かに、抽象的に考えすぎると全てのものは必然であり密接な関係を有しているとなりがちですね。 単に端を丸めて臭いものに蓋をしただけなのに・・・・ 犯罪捜査などは帰納的に導き出した理論を現実の事件にあてはめる過程で現実に引き戻されるから精神的にまだ健全なのかもしれませんね。 さしずめ質問者さんは理論を現実にぶつけていない為、道具としての理論が崇高に観え、それにとりつかれているということでしょうか・・・

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