哲学はまだ進歩するのか?

このQ&Aのポイント
  • 哲学は進歩し続けるのか?自動車や文学との比較を通じて考えてみました。
  • 19世紀の哲学と比べて最新の哲学は進歩しているのかについて、深刻な問いを投げかけます。
  • 新型哲学の理解に時間を使うべきか、それとも19世紀の哲学に集中するべきか、選択を迫られる状況です。
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哲学はまだ進歩しますか?

哲学はまだ進歩しますか? 自動車がまだ進歩しますか?という問いには多くの人が、是、と答えるでしょう。 そして、多くの人が、まだ使える13年前の旧型自動車を新型自動車に買い替えたりします。 文学がまだ進歩しますか?という問いに、私は、否、と答えます。 100年前の文学が最新の文学よりも劣っているとはどうしても思えないからです。 音楽に関しても、私の評価は同じです。 ただし、100年程度の時間軸の中での答えです。 さて、 哲学はまだ進歩しますか? 100年程度の時間軸です。 この問は大変に深刻な問いです。 すなわち、自分の余命を考えた時、選択をさまられるわけです。 新型哲学の理解に時間を使ってしまい、19世紀の哲学に対する時間配分が取れなくなくて良いのか、 それとも、100年前までの哲学に集中し、新型哲学のほうは「またにしておきます」と、断るか。 問い: 19世紀の哲学と比べて最新の哲学は進歩していますか? 注); 進歩(しんぽ)とは望ましい方向へ(物事や文化、文明などが)進んでいくことである。対義語は退歩(たいほ)。類義語は発展、及び発達。また生物学の分野では進化がよく混同される。 哲学が進歩していると思われる方が、ぜひ、その根拠を教えてください。 旧型の哲学を廃車にして、すべて新型哲学に一新しましょう。

質問者が選んだベストアンサー

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  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.13

哲学の進歩を議論する上で哲学の定義は重要と思われます。No11さんの『論理脳の限界に挑戦して『人間』そのものを解き明かす』哲学は 論理学的に論理の限界が示されている現在 絶対的なものではなく 個別的、相対的な答えを用意するしかないでしょう。これを進歩という言葉で解釈できるか どうか 大いに疑問と思います。 では その反対に『非論理脳の限界に挑戦して『人間』そのものを解き明かす』としたらどうでしょう。非論理脳とは感覚の世界です。五感の世界に直結している気がします。例えば、音楽であり、絵画であり あります。主張は共感覚に訴える哲学です。時には世界的に大多数の人間が共感することがあるでしょう。進歩は 積み重ね を経て 継続発展するものと思われます。しかし この共感覚は積み重なっていくものでしょうか。質問者と同じように思いますが、私には 感覚は 曖昧であり 一過性的であり進歩は疑問と思います。が 勿論 私の意見であって 、非論理脳の哲学は 考えられ 進歩の可能性 全否定はできないとは思いますが。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

再度のご回答ありがとございます。 ロゴスとパトスのアウフヘーベンですか! 哲学史上最初にして最後の大転換になるかもしれませんね。 そこまで追い詰められているということでしょう。 そこまでしないと各学問領域に付随したグリコのおまけ、あるいは、ハンバーガーのハッピーセットになっちゃう。 まあ、ハッピーセットが欲しくてハンバーガーを求める子供たちもいるので、客引きというレゾンデートルが残るか? 物理学ほどには緻密でなく、宗教ほどには逞しくない哲学に哀愁を感じるのは拙者だけでしょうか。

その他の回答 (17)

  • mmky
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回答No.7

哲学はまだ進歩しますか? ○まだまだ進歩しますよ。社会規模に応じて新しい価値観を提示することが哲学の役割ですから、当然進歩しますね。 現在は、村社会から町へ、都市へ、国へぐらいのところですが、今後は地球規模、数百年後は宇宙規模の価値観の提示が必要でしょうね。 全ての言葉、思想をより大きく、ダイナミックにしないと宇宙規模の世界には住めませんからね。 当然、科学技術の進歩も加速するでしょうから、それにも対応しないといけないですね。 そういう価値観が提示できなければ残念ながら哲学は死ぬでしょうね。でも古いものが死ねば必ず新しいのがでますからね。それに凡人がどこまで追従できるかでしょうね。 まあ、現状は20世紀の価値観が全て白紙になりつつある時期なので、混乱もありますね。でも21世紀以降の新しい価値観は必ずできてきますからね。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 それぞれの領域を追求する人々がその領域哲学を整理し、深化させる営みに終焉はこないでしょう。 しかし、哲学が学問一般を指した時代が終わり、一つの学問領域として独立した以上、この領域学問としての哲学が進歩しなければ、哲学の存在理由は完了したことになるのではないでしょうか。 残された仕事は、哲学史を整理し、哲学史教育を継続し、哲学する心を伝承することです。 この状態をもって哲学は進歩しないと呼びたい。 >価値観が提示できなければ残念ながら哲学は死ぬでしょうね。 拙者は、哲学に「価値観の提示」を望んでいないので、死んだというか、進歩は無くなってしまったように感じています。

回答No.6

 諸学の女王と呼ばれて久しかった哲学が婢(はしため)にと呼ばれるようになって久しい。  私も、本質的なことを根本的に考え追究するこの学に小5から中学までは傾倒しました。  しかし先生方からは哲学の役目と方法は終わった。今は学としてやる事はない。と指摘され通しました。  それで類似ではないが、法学、法哲学から、思想史なども独学でやりました。  これらは一応存立しそうなものです。領域哲学の一分野ですね。でも認識論は意識心理学か、インド哲学の一部に吸収されてしまうでしょうね。  ここのカテの質疑とご回答の多くは、失礼ながら趣味の方のご遊戯に近いものも多いと存じました。  期待していたものとしてはとても以外で、自分と自分以外の哲学の彷徨を拝見するものでした。  西洋的思弁、知的哲学はもうそういうものなのでしょう。  只、東洋の哲理や洞察については、各個人が古聖人のご研究が更に探求されていくでしょう。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 確かに、それぞれの領域の人々が、その領域で哲学することは終わりがないと思います。 でも、それは哲学という領域が消滅したと考えることと何ら矛盾は無いですね。

回答No.5

簡単に。 「進歩」「発展」というのは、近代の概念です。 現代思想というのは、「人類は進歩し、文明が発展する」という考え方そのものを「大きな物語」(by リオタール)として斥けます。 原始的社会は、文明社会に比べて発展していない状態なのか。そうではなくて、単に現代とは異なる思考方法によって成立している社会というだけでしょう(c.f.レヴィ=ストロース)。 時代がうつりかわるにつれて、人びとのものの見方・考え方は劇的に変貌しますが、それは「進歩」や「発展」ではなく、時代の「エピステーメー」(by フーコー)が変わったというだけではないか。 ですから、 >哲学はまだ進歩しますか? という問いには、 いまはあまり「進歩」という考え方をしません、と答えておきます。 > 文学がまだ進歩しますか?という問いに、私は、否、と答えます。 > 100年前の文学が最新の文学よりも劣っているとはどうしても思えないからです。 これは激しく同感です(笑) ここらへんに関しては一晩中語りたいくらいです(笑) 絵にしても音楽にしても同じでしょうし、「書」に至っては、一部の例外的な人を除けば、わたしたち、寺子屋に通ってた子供より劣っていたりしませんか(少なくともわたしはその自信があります)。 つまり、「進歩・発展」という枠組みでものごとを考えるそのやり方は、「近代西洋」という一時代的・局所的なものだった、というふうに考えていくと、スッキリしませんか?

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 フーリエ変換ができるようになったおかげて、CTでスキャンで人体の断面が見えるようになったとか、相対性理論に基づく補正計算の結果、GPSによる車の位置測定が「畑の中」じゃなくて「道路の上」にまで向上したという事実は、進歩だと思います。 そういうのを進歩と見ると、一方の哲学だとか文学だとかは、季節もので、春なれば春の料理、秋になれば秋の料理、そんなん繰り返してゆくのかなあと漠然と思っておりましました。 で、本題はですね、限られた余命の中で勉強すべき哲学はいつの時代のものか?なんですね。 数学や物理学は19世紀までしか理解できないので、哲学ばかり20世紀とか21世紀の最新版を追いかけてもなんか、自分の小宇宙が不均衡になるような気がする。季節外れ、かな。 車が13年前のものであれば、この際、カメラも銀板写真で良いことにしようか、なんて感じですね。 結構、老人の気持ちが理解できるようになってきました。

  • ok9608
  • ベストアンサー率38% (50/129)
回答No.4

哲学は進歩しているか、とか税金で飯を食っている大学の哲学者は何かの役に立っているか とかの問いは同質の問いのように思います。DNAの発見以後の医療の進化とか量子論以後の半導体などの開発進化などに比べてみれば明らかなように 進歩もなし役立たず と思っている人がほとんどではないでしょうか。あるいは マルクス唯物論に起因する共産国の実験は ある哲学に基づく人為的な大失敗(大役立たず)と見做されても仕方ないでしょう。では 哲学はどう位置づけるべきでしょうか。現代は 大哲学(世界の考えをリードするような)の時代ではなく 小哲学(個人個人が思想 考えをまとめる)の時代と思います。何時から そうなったのか おそらく ゲーデルの不完全性定理の証明 が契機になった とおもいます。現代では 実用的な哲学の進歩はない とおもいます。 ただし、考古学的興味で文献解釈の新発見は続くと思いますが マニアックな狭い世界とおもいます。 

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 拙者も薄々そんな気がしておりました。 拙者の場合、余命もそれほど長くないので、勉強の方は、19世紀のドイツ人たちが作った哲学ぐらいまでにとどめて、あとは自分の小宇宙と小哲学を建設したいと思います。

noname#110896
noname#110896
回答No.3

全く詳しくないのですが、技術の発達に伴って新たな議題が増えていくのではないでしょうか。 例えばクローンは可か否か。 多くの分野で色々と思考を深めたら、それが哲学の進歩と言えるかも。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 たしかに倫理学も哲学の一分野でした。 でも、クローンの可否は犬はペットか食糧かなどと同レベルの議論なので、哲学やっている人達にとっては議論にならない(答えが一致している)様な気がします。 この場合、宗教家と商売人の議論を横で眺めながら、ニヤニヤしているのが哲学じゃないかと。

  • cyototu
  • ベストアンサー率28% (393/1368)
回答No.2

進歩すると思います。ただし、その進歩は、自己の内部から起こると言うのではなく、自然科学の新たな認識に引きずられて起こると思います。ずっと昔の哲学ではその反対だったこともあるでしょうが、既にカントなどはニュートン力学の成功から多大な影響を受けておりました。また、前世紀初頭の量子力学の発見は、不確定性原理などの刺激的な言葉で、哲学者達を大混乱に陥れたようです。哲学に限らず、前世紀初頭のピカソを代表とした絵画の立体派などは相対性理論の言う時空の多次元性に多大な影響を受けたようです。我々生命の存在の位置づけに関する、科学者からの近年の自然科学の進歩に基づいた深刻な問い掛けは、ジャック・モノーの『偶然と必然』や、イリヤ・プリゴジンとイザベラ・スタンジェール共著の『混沌からの秩序』を嚆矢としますが、特にプリゴジンの非平衡熱力学における散逸構造の概念に基づいた世界認識は、現に近代の思想界に多大な影響を与えております。 一般の方ばかりでなく科学者まで含めて、偶然という言葉で、つい五分五分で無秩序な事象を想起して来ました。しかし、近年の物理学の発展は、この宇宙が本質的に非平衡でさらに数学でいう非線形であるために、単純な構造が物理学の法則に従いながら、次々に分岐を繰り返して自発的に高度な複雑性を非決定論的に手に入れることが可能であることを、実証的定量的に明らかにしました。たとえ均一で全く無秩な状態から出発しても、昔の物理学者が考えていたよりも桁違いに高い確率で、複雑な構造が偶然に基づいた揺らぎを契機として、非線形性のために自発的に出現し得ることが明らかにされたのです。 質問者さんは「進歩」と「進化」の違いを気にしていらっしゃるような表現をされているようですが、そのような「哲学的」な認識の違いも、自然科学の発展によって「進化」という偶然を契機とした概念に統一されたと私は考えております。ただし、誤解を招かないように、相変わらず進歩という言葉は使っています。 また、進化とは統一態が次々と分岐して各々個性と言う特殊化を生み出す多様化の方向に向かっております。決して昔分岐した物が改めて統一する方向には向いていません。そのような統一化のことを「退化」と呼びます。 蛇足ですが、私は例えばクラッシック音楽にさえ大変な進歩があり得ると考えています。私はバッハの『フーガの技巧』の、それも弦楽による演奏が好きです。特に十人足らずの演奏であれだけの厚みのある音が出せることに感心しております。私はマーラーの交響曲第1番も好きなのですが、それをコンサートで聞きに行った時に驚いたのは、それを100人を軽く超えたオーケストラで演奏していたことでした。それだけの人数を使っても『フーガの技巧』の厚みに匹敵した音が出せていなかったのです。その後どのCDを聴いても同じ感想を持ちました。その時私には、そうかオーケストラにはまだまだ発展の余地が残されているのだ、と思いました。20世紀になって作られたとは信じられないようなあれだけ美しい『アダージョ』がサミュエル・バーバーによって作られております。音楽は、まだまだ発展して行く可能性が残されていると思います。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 cyototu先生らしい、正しく楽観的なご回答とおもいます。 進化木に例えて言えば、2000年ぐらい前に、哲学と科学が分岐して、それぞれの枝となった。 人類が無知な時代、哲学の方が広い領域を占めており、科学は限られた領域で細々とその存在を維持しているかのように思われたが、19世紀以降に科学が爆発的に進歩(≠進化)し、哲学の生息域を狭めてしまった。 哲学は残された領地から新天地を求めて隘路に挑戦するものの、科学を身につけた哲学者ヴィトゲンシュタインが、 「語りえないことについては人は沈黙せねばならない」と喝破し、どの哲学者も有効な反撃が出来ない状態で、言葉に依存している哲学の生存領域は明確に線引きされ、逃げ行く場所が無くなってしまった。 生物学で考えればその先に残された運命は、種の絶滅ですね。哲学の終焉。 科学が進歩した時にそれに対応して哲学のテーマが増えるというのは、フィギアスケートの技が進歩したとき、解説者の語彙が増えるというのとおなじですから、これを甘んじて受け入れるとすれば、哲学者はスケーターではなく、解説者であることを認めるという事。 再度、ヴィトゲンシュタインに登場してもらうとすれば、 フィギアスケートなど語りえないことに関しては人は沈黙せねばならない。 もちろん、沈黙せよと言っているヴィトゲンシュタインは、フィギアスケートを無視しろと言っているのではなく、語っている場合じゃなくて、スケート靴を履いてリンクに出てみよ!と言っている。 これは、哲学している場合じゃなくて、物理学を実践せよ、実験だ!、観測だ!と言っているわけですね。 回転木馬に乗って遊んでいる子供が別の木馬に興味をもってしまい、この馬(自分が乗っている)よりあちらの馬の方が良いと、駄々をこねる場面を想像しながら、次々と別の哲学者の説を理解しなくちゃ、と思ってしまう自分がガキに思えてしょうがありません。

  • ENERGAIA
  • ベストアンサー率9% (5/53)
回答No.1

 可能性としては科学や宗教との融合によって為されるのでしょう。  分化した学問の再統合。

Mokuzo100nenn
質問者

お礼

ありがとうございます。 でも、科学や宗教の方は哲学との統合を必要としていますか? 科学の方は科学を理解しない”文科系”を必要としてないし、 宗教の方も盲信を認めない哲学を必要としていないでしょう。 傾きかかった会社が他社との統合で存続を目指すってやつですかねぇ。

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