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天正10年 3月

織田信長の親征による最後の征服戦争である天正10年の"甲州征伐"ですが、織田・徳川連合軍は一体どの位の規模の兵力を動員したのでしょうか? 資料によってマチマチで、1万5千から16万余までの開きがあります。 落ちぶれたとは言え甲信二カ国の大大名である武田家を討伐するのに1万5千では少な過ぎるし、大体侵攻経路である岩村口、木曾口、飛騨口、駿河口からの大規模な分進合撃作戦を成功させるにはそれなりの戦力が必要と思われます。 また、当時の織田家の石高はざっと800万石で常備兵20万人は動員可能と思われますが、毛利や上杉さらに四国遠征を控えていた信長にとって16万の動員は多すぎるように思われます。 "甲州征伐"は中世の終りを告げるエポック的な大事件であり、信長もそれを良く認識していたからこそ自ら出馬に及んだものと思います。 私の考えとしては5~6万余が妥当な線ではないかと思いますが、如何なものでしょうか?

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  • Pinhole-09
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回答No.1

1万5千は武田勝頼が率いた軍勢です。   16万は織田信長の石高から割り出した、推定全動員兵力数です。(江戸幕府は50石当たり、一人の軍役を課しました) 甲州征伐の信長の軍勢数は明確ではありませんが、前年の第二次伊賀攻めの4万5千が、当時自由に使える兵数と見られます。    伊賀の抑えに少し兵を残したそうで、信忠総大将の織田勢は約4万、徳川勢を加えて5万弱と推定されます。    武田各将の内応が判っていれば、もっと少なかったかも知れません。

sindengen3
質問者

お礼

回答頂き有難う御座いました。 伊賀攻めに従軍した部隊と言うと伊勢・尾張衆が主力でしょうか?明智光秀や筒井順慶の与力も参加していたと思いますが、精鋭織田軍団の中では二線級の範疇と言っても良さそうです。まあ、徳川勢の全力動員や穴山梅雪の離反も期待できることから考えて、頭数だけ揃えれば十分だったのでしょうね。 それにしても、信長の対武田戦に限っては本願寺や浅井・朝倉のそれに比べて労少なくして効多い極めて効率のいい戦いであった気がしてなりません。(長篠の後は殆ど家康に任せ切り)まるで熟柿の落ちるを待つが如く。

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