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「構造と力」に出てくる一文の意味が分かりません・・・

いま、浅田彰の「構造と力」を読んでおるのですが、特に難解なフレーズが出てきました。それは、テキストで書くにくいのですけれども 「はじめにexcesがあった」 ("exces"の2番目のeはイーアクソンテギュ、『あった』の部分に×) というものです。「あった」の部分にわざわざペケがしてあると言うことは、「はじめにexcesがあったのではない」というような単なる否定ではありませんよね?? これは一体どういう事なのでしょうか?? この手の本を読むのは初めてで、何を意図してこんな表現がしてあるのか、見当が付きません。 恐らくはこの書の最も大切な内容の1つであるはずなのに、そこに引っかかりを抱えたまま読み進めることが不安でたまらないです。当該フレーズが、どういう事なのか、ご教授下さいませんか。

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回答No.1

 こんにちは。  わたしの解釈をそのまま述べて――しかも読んだのは 大昔ですが―― むしろ質問者さんやほかの方がたのおしえを乞います。大きな主題であると考えます。  ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  「はじめにexcesがあった」  ("exces"の2番目のeはイーアクソンテギュ、『あった』の部分に×)  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ 《はじめに》は この時空間の始まりのときのことです。もしくは じんるいの誕生のときです。  《 exces (過剰)》は 逸脱・度外れの意味で採るとよいのではないでしょうか。ほかの動物との違いを言っています。  ほかの動物が本能で生きるのとは違って ヒトはその本能が壊れており 思考もしくはその思考能力にしても その内部に部分的に論理的な整合性が得られるとは言え 全体として《錯乱》している。こう言おうとしているのだと思います。  《錯乱せるヒト homo demens 》とかも言っているのではなかったですか?   そしてこの思考が大筋では錯乱しているということ〔――わづかにその内部において 論理的な筋をとおすというような思考のあとを見せることはあるということ――〕 このような《 exces 》が そもそも誕生のときからついてまわっていると言うべきであるが そうなのだが この事態は その当のヒトがみづから――つまりみづからのいわゆる自由意志によって――好き好んで おこなったその結果なのではない。こう言おうとしているようなのです。  一般には ひとは自由意志の持ち主であって おのれの望むところを意志による自由な判断と選択によっておこなうと考えられています。つまりは この一般的な仮説においても この《自由意志》は おのれの望む自由な意志決定のその結論内容にさからう自由もあると説くのですが それでは気に入らないと見えて この自由意志そのものについて批判し否定するという方向を打ち出しているのではないかと考えます。  つまり そもそも錯乱しているという大前提の上で多少なりともの論理的な妥当性を表現することはありうる。それのみだ。という仮説であるようです。  〔自由と言えば その表現の自由には答責性を伴なうことがついて来ますが そのような調和の世界は 前提することができないと言おうとしているのではないでしょうか〕。  もっと早い話としては ひとの生きる世界は すべて《脱本能・脱自然》から始まっており すべてが《非自然という意味での〈文化〉》によって成り立っていると見ようとしているようです。何を為すにも大きくは錯乱せる(その意味での自由な)思考によっており そういうかたちにおける文化の行為であり社会情況はすべて文化状態にあると見ようとしている。このようではないでしょうか?   〔さらに念のためですが ここで《文化》というのは ひとの思考をつねに経ていて すべてははからいであるという意味です。すばらしい文化もあれば醜いものもあるという意味ですから 中立の概念です〕。  * 浅田のこの本には ヒトにおける《自然》ということが科学的に説きうるという方向にも触れていたのか 触れていずに《反自然の文化の一本槍》だったのか いま記憶がさだかではありません。どうでしょう?

noname#103383
質問者

お礼

ご丁寧に回答下さいましてありがとうございます。 私はもう少し、表面的な内容で質問していたのですが、本の内容の意味に触れてくださり、より理解が深まった気がします。 あれから考えてみて、 >「はじめにexcesがあった」 >("exces"の2番目のeはイーアクソンテギュ、『あった』の部分に×) という文が言わんとする表面的な部分については何となく理解できた気がします。つまり、 はじめ=原点、exces=差のことなので点ではなく線の広がりがある、だから「はじめにexcesがあった」と表現することは実はできないけど、他に言い様がないから、「あった」の部分に×を打った形で、論理構造を保っている と言うことなのでしょうか。 お恥ずかしながら、実はまだ半分しか読み切れてないので/読み切ったとしても一読しただけでは、作者が意図する深いところまでは理解できかねる状況です。 ちなみに、ホモデメンスの話は出てきていました。

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