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変身(ヒーロー)

1970年代に変身するヒーローの一大ブームが巻き起こり、下火となりながらも、それは根強く現代にまで引き継がれていると思われます。 その理由は一体何でしょうか。 そもそも、なぜヒーローたちは平素の顔との「二重生活」を送らなければならないのでしょうか。 また、以前にも古今東西において様々なヒーローがいたと思います。 ただ、彼等も毎度の如く変身していたのかどうか。 むしろ、変身していなかったケースが多いのではないかなと、漠然と思っております。 もし、両者に違いがあるとすれば、一体どのようなところなのでしょうか。 作品の具体例、その時代性、性差などを考察した上でのご回答をなるべくお願い致します。 神話から文学、演劇、アニメなど、ジャンルは全く問いません。 どうぞよろしくお願い致します。

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  • kigurumi
  • ベストアンサー率35% (988/2761)
回答No.3

通過儀式に類似しているかも。 いろんな民族がありますが、通貨儀式をする際は、普段とは違う格好をするんです、どこも。 例えば成人式。 普段と違う格好をしますよね。 どうしてか。 未成年と青年の間の境界線は、目では見えませんよね。 その目で見えない境界線をまたぐとき、どうするかというと、普段とは違う格好をするんです。 異装とか。 インドの宗教のなんでしたけ? 忘れましたが、その人たちは肉体的には男なんですが、女装をします。 女装をすることで、特定の権利を行使できる とか そんな感じ。 キリスト教の上位の聖職者も公の場で式典などをするときは、マタニティードレスを来て女装しますよね。 創造する者・生み出すに変身してその権力を行使する権限を得たってわけですね。 他だと、裁判官は人を裁くときに、裁判官の服装をしますよね。 これも異装。 このことによって、裁く者と一時的になるんです。 人を人が裁くわけですが、同格なら裁けませんよね。 だから超越した存在となるために、異装をするわけです。 境界線をまたぐために異装をする。 考えてみれば、普通に生活していて、おかしいと思ったら、やっつけちゃえばいいわけです。 変身をしなくても そのまま。 でも野獣のように暴力を行使したり、やっつけるにあたって殺しをしたりとかすると、罪ですよね。 でも 人間を超越した存在なら、人間の法律は適用されない。 そのために、変身するんじゃないか と。 昔非人というランクが日本にありましたが、人ではないという意味でけだものって意味だけじゃなくて、人と神の中間に位置するものなので、人間では裁けない って意味も含む。 したがって、その土地に慣習とか仕来りを守らなくてよかった。 超越した存在だったので、柿色の衣装に高下駄を履いており 一目で人間以外のランクの人ってわかるように異装をしていた。 現代だと、、、 ある友人は、ほんとかどうか知りませんが、突然お好み焼きが食べたくなり、アメリカ大使館の車でお好み焼きを食べにいったそうです。 店の前にどーんと車をつけたそうです。 「誰も取り締まれないので ゆっくり食べれば」って笑って話してました。 これはやはり 異装・変身の一種じゃないか と。 (ご存知だと思いますが、治外法権なので日本の法律が適用されないんです。 取り締まりたかったら、アメリカ政府に文句を言うしかない。) 水戸黄門はわかりやすい勧善懲悪ものなので人気ありますが、この人の場合、もともと人を殺す権利を有しているのかな? 変身しませんね。 印籠という殺人許可証を見せることで、人を殺しても罪に問われないってなるのかも。 昔は武士は勝手に町人を殺してよかったそうです。 で、殺された町人の子供は、あだ討ちの許可をもらう つまり殺人許可証をもらうことで、町人でありながら武士を殺せた。 あだ討ちの相手に出会うと、宣言して殺したそうですが、異装はしなかったんじゃないか と。 ドラマだと 頭に鉢巻つけてますね。 他に変身しないものとして、ジェームズボンドを書いたイアン・フレミングス。 MI6のメンバーだったので、殺しのライセンスをメンバーにいる間だけは持っていた。 変身しませんね。 私がはまってシーズ5まで買ってしまったニキータ。 彼女も変身しません。 彼女の場合、影のように動くので一般人には殺しのランセンス保有者だとはわからない。 普通の生活をしていて、指令が来ると殺し屋になる。 普通にショッピングモールとか歩いて買い物をすることができるのは、女の顔を見たものは、死ぬか一生閉じ込められるので、外で普通の彼女に会うことが無いからじゃないかと。 一人普通に歩いていて強盗に襲われた人がいて、見殺しにできず救ったことがある。 そのとき被害者は見てないが、ある家の窓から人が彼女の只者ではない格闘を見ていたんです。 それで、警官に連絡がいって、一気に連続強盗だか殺人だがを解決できるとして探し出して証言をしろと迫ったのですが、「なんのことでしょーか 私には一切かかわりが無いことでござんす」とバックレ続けた。 警官はなんで協力しないのかわからず、後をつけて彼女の正体を知ったわけです。 家を訪問した時の彼女は、普段着でどこにでもいるねーちゃんなのに、外出するときはすごい洗練されたモデルのような格好。 美術館で「おやえらくめかしこんでるな」と警官が声をかけて「やば」ってなった。 なぜならその美術館で、メンバーと任務を遂行している最中だったから。 警官邪魔。 とうことで、メンバーに連絡して拉致監禁。 正体を知った以上 メンバーになるか 死ぬかの選択を迫られた。 どっちも一緒です。 メンバーになるってことは死人になるってことだから。 あ、、、変身ですね。 彼女は任務を遂行するときは、モデルのような衣装を身に着けます。 法律で裁けない人に変身するってことですね。 だって彼女は現実には存在しないことになっているから。 メンバーになったとき、死亡届けが出されて、墓もたてられている。 この組織を出るときは死ぬとき。 組織によって用済みとなったときも、組織に殺され死人になるが、遺体は処理されるので、「とっくに死んだはずの人が何故死んでる」とはならない。 女性の化粧も、芸能人の着飾りを 一種の変身することで、別なものになるって意味を含む。 差が大きいほど、普段とかかけ離れた存在になるってことですね。 狂言もそう。 神のようになるってことで、異なる衣装・異なるしぐさ・異なる音を出すわけです。 歌舞伎もそうですね。

mashumaro2
質問者

お礼

kigurumi様、ご回答をありがとうございます。 たくさんご教示くださって、嬉しい悲鳴をあげております。 だから、ちょっと、お時間を下さい。 補足欄よりお礼を記させていただきますね。 ほんとうに、ありがとう。

mashumaro2
質問者

補足

ただいま帰宅致しました。お礼が遅くなってごめんなさい。 >通過儀式に類似しているかも。 >その目で見えない境界線をまたぐとき、どうするかというと、普段とは違う格好をするんです。 >異装とか。 はい、納得です。 変身(異装)することにより、人間を超越した異形が誕生し、そして人智の及ばない力をもって荒ぶるわけで。 そもそも「装うということ」は、とても文化的な営みなのですよね。 人間は──自らの身体と自然との、なにがしかの境界線を引かずにはいられなかったのかもしれません。 装いには、自然に対する畏怖の念や呪術的な意味合いも込められ、儀式という形からは、どこか≪共同体的≫な意味合いも感じ取れます。 かくいう現代の私たちだって、いかにも自分の個性で「自由に」装っている気がするけれども、 そんな「自由なこだわり」なんて、差異化のようでなんてことはない、単なる≪集団との同化≫に過ぎないのですよね。 装いが自他との関係に成り立つ以上、あまりに逸脱した格好では奇異に見られるし、結局は個性もへったくれもありゃしないわけです。 >治外法権なので日本の法律が適用されないんです。  はい、まさに仰る通りです。 某大使館でバイトしていたのですが、一歩敷地をまたげば、そこは外国で、当然、祝日も本国に準じておりました。 因みに、ブルー・ナンバーで元気に路肩を走ったら、一体どうなっちゃうのでしょう? >水戸黄門はわかりやすい勧善懲悪ものなので人気ありますが、この人の場合、もともと人を殺す権利を有しているのかな? >変身しませんね。 >印籠という殺人許可証を見せることで、人を殺しても罪に問われないってなるのかも。 なるほど、印籠は「殺人許可証」とも言えますね。 「これを見せれば権威主義」は、他に何があるでしょうね。 変身、変装というより「徴を帯びる」の方が相応しいかもしれません。 >私がはまってシーズ5まで買ってしまったニキータ。 はい、私もあのドラマには、はまりましたよ。 映画とは少々異なる感じ、でもそれも味があって良いと思います。 それにしてもアメ・ドラの難点は、ストやら制作費不足なんかで、肝心のラストが尻切れトンボになりがちなことでしょうか?! 頑張ってみたのですが、どうしても楽しいお話の方に流れてしまいました。ああ、お許しを。

その他の回答 (14)

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.15

 それから...  犬猿の仲w とか揶揄されて 同格扱いされると困るので サルの相手をするのは今回限りとさせていただきます。  サルは人間が相手をしてくれるだけ有り難いかもしれないが、人間様にとっては何の得にもならないので。 >もし、両者に違いがあるとすれば、一体どのようなところなのでしょうか。  目の前にいる人が 力や権力を持っていると最初から解っていれば エテ公もいたずらをしないでおとなしくしているでしょう。そういうケースもあるのではないでしょうか。  善悪正邪の判断さえしっかり出来れば 絶大な破壊力を持っていなくても、つまりカメハメ波が打てなくても良いわけです...

mashumaro2
質問者

お礼

ENERGEIA様、 >犬猿の仲w とか揶揄されて 同格扱いされると困るので サルの相手をするのは今回限りとさせていただきます。 はい、承知致しました。 >善悪正邪の判断さえしっかり出来れば 絶大な破壊力を持っていなくても、つまりカメハメ波が打てなくても良いわけです... いえいえ、ちゃんとカメハメ波を打てるように、一層のご精進をなさってくださいますよう。 そして、いつか、ましゅまろにもご教授下さいますよう。 楽しみにしております。 ではでは。

mashumaro2
質問者

補足

このたびの質問は、小中学生のわが子たちとの会話より派生したものでした。 テーマ的に分不相応なところがあったかもしれませんが、ご回答を下さった方々に、あらためてお礼を申し上げます。 参考にさせていただき、こどもたちとまた会話したいと思います。 ありがとうございました。

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.14

それから、No.1の回答はオナニーしすぎて アタマがクルクルパーに成ってしまって、何がなんだかわからなくなっちゃったお猿さんの 回答であることは間違いないようです。

mashumaro2
質問者

お礼

仁義なき戦いと承っておきます。

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.13

 ENERGEIAです。  オナニーザルに おかずです。  「サルはサルである。」これは確かにそうです。  すでに地位も立場も価値観も出来上がったサルは 完全に自分とは違う境地に達しているものを放っておく事が出来ないのでしょう。  幻覚、幻視を見て 家族から馬鹿にされて相手にされないからといってここで ウンコ を投げまくるのはいかがなものでしょうか。  私は私である。しかし私は何か。私は誰か。  自分自身になった。自覚した。しかし、これからどのような方向を目指すか。どうなるか。  自分がサルであると自覚したなら、これからどうするか、どうなるか 何を目指すか を考える。  哲学はこうありたいものですが、オナニーザルはそこで終わってしまい、  善はあるが悪はない。人は子孫を残すことのみが役割である。  公衆の面前で、そのような哲学を<薦めて>います。  早く気付いて欲しいものです。自分が単なる  オナニーザル だということを  とにかく、早々に諦めるなら諦める。しかしそうするなら人間様にイチャモンをつけないで謙虚でいることですね。

mashumaro2
質問者

お礼

仁義なき戦いと承っておきます。

noname#117439
noname#117439
回答No.12

A11です。 無断で、バター犬にえさです。 私が私である。 自分自身になる。 哲学はそうありたいものですが、バター犬の場合は、 自分自身と結婚する。 自分自身をお嫁さんにもらう。 公衆の面前で、そのような哲学を進めています。

mashumaro2
質問者

お礼

仁義なき戦いと承っておきます。

noname#117439
noname#117439
回答No.11

A1です。 > 当時は「ウルトラマン」や「仮面ライダー」など、一連の変身する正義の味方が登場し、こどもたちはこぞっておもちゃを買い求めたかと思います。 今はいかがでしょうか。 現代っ子の親の世代はすでに豊かな社会に生まれているので子供が喜ぶものはすぐに買い与えます。そういう意味で売れています。 >>ストレス解消の対象たる悪人はテレビの中だけであり > はい、ということは、 テレビを通じて当時の大人たちがそのようなメッセージ性を伝え、こどもたちもそれを受け取っていたことになります。 ショッカーのような悪の組織はかつて、現実にはあり得ない事になっており、そのショッカーと戦う仮面ライダーも仮の存在ゆえに変身が必要な仕組みでした。話をややこしくしたのは一連のオ○ム事件でして、まるでショッカーみたいな組織だってので該当事件後の番組制作にはなんらかの配慮があると思います。 > 当時こどもたちだった世代は、今の番組制作の中心的役割を担っていると思われます。 ですが、あまりこの手の番組は、かつてほどに人気がないように感じます。 何故なのでしょう。 単純に子供向け番組として新鮮さが無いだけです。子供向けの娯楽番組として不動の地位は築いていますので安定はしています。 >>変身することで自らを仮の存在と規定してしか悪人に憂さ晴らしできない。 > なるほど、仮の存在と規定すれば、思う存分手加減なく、憂さ晴らしが出来ますね、納得です。 >>「悪」は観念上に想定された存在で実在しないからです。 > つまり、観念上の「悪」を具現化したなれの果てが、一連の怪獣たちや仮面ライダーのショッカー軍団だったということになりましょうか。 「巨大化」「街の破壊」など、象徴としての興味も尽きません。 現代の仮面ライダーの怪人は、観念のみの存在である悪意の類型を研究して、その悪意が人間の姿だったらどのような姿になるかを表現しています。 > 今のこどもたちのヒーローとは、一体何だとお考えでしょうか。 物心がついて初めて触れるヒーローはアンパンマンです。 20代前半以前の若者のヒーローの原型です。 なんでこんなに幼い時からヒーローが必要になるかは分析しきれませんでした。でも番組制作者なら一定のテーマやヒーローの哲学もあるでしょう。

mashumaro2
質問者

お礼

primeape様、再度のご回答をありがとうございます。 このたびの質問は、小中学生の我が子たちとの会話の流れによるものでした。 primeape様には、主にこども用番組についてお伺いを致しました。 こども向けとはいえ、それを制作するのは大人の都合、更には時代性や性差の刷りこみも加味されていると思っております。 ですので「一連のオ○ム事件」のご指摘も納得です。 >現代の仮面ライダーの怪人は、観念のみの存在である悪意の類型を研究して、その悪意が人間の姿だったらどのような姿になるかを表現しています。 観念である悪意が人間の姿に映し出されているのですね。 そうですね、なんとなくわかる気もしてまいります。 私個人的には、因習的に規範とされてきた善悪の観念や理論と、実際に何が善悪かを意識し相応な行為を選択することとは、やはり別物であると捉えております。 >なんでこんなに幼い時からヒーローが必要になるかは分析しきれませんでした。 そうですね。 こども向けヒーローが必要というよりも、 入念なマーケティング戦略のもと、テレビ番組と連動してあらたなヒーローが発掘、誕生するという構図も考えられると思います。 もちろん、ターゲットは、実質的な購買層の親なのでしょうけれども。 それにしてもそんな幼い時から、ヒーローなんて本当に必要なのでしょうか。 >でも番組制作者なら一定のテーマやヒーローの哲学もあるでしょう。 はい、制作者側としてはできうるかぎりの夢やヒーロー哲学を、テーマに盛り込んでいることでしょう。 ですが、昨今では、随分とおもちゃの出来が良くなったように映ります。 もはやヒーロー哲学云々以上に、おもちゃゲームの出来不出来により、ヒーロー自体の人気が左右される観もあるかもしれませんね。 また、こどもの頃のヒーロー観が、のちにどれほどの影響を及ぼすことやら。 それもひとえに個人差、でしょうか。

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.10

No.9の訂正: 誤:あと、日本やインドの神話の原初の神々は、善悪や正邪を超越したところでの相克と言えるような戦いがある という印象も受けます。 正:あと、日本やインドの神話の原初の神々の物語においては、善悪や正邪を超越した、相克とも言えるような戦いがある という印象も受けます。  思い浮かんだことを急ごしらえで書いたため、整合性がない部分もあるかもしれませんが、そのときは指摘してもらえればその都度 補正させて頂きます。連続投稿失礼しました。

mashumaro2
質問者

お礼

了解致しました。 仮に1回きりでも修正機能が設けられたら、今まで以上に利便性が上がるかもしれませんよね。 例えば、投稿後5分以内に修正、とか。

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.9

No.7の訂正 誤:人間版「仁義なき戦い」でした。 正:神々版「仁義なき戦い」でした。  それから、自慰猿のおかずはリカちゃん人形のような虚存在でなく、どうやらここでの質問における まともな回答をすることのできる実存在である人間であるようです。  つがいの猿に小馬鹿にされて相手にされないからと言って人間様相手に自慰行為を見せ付けて、時に危害さえ加えてくるのは正直腹立たしいです。ヘンタイザルとでも言うべきか。  とにかく、「ストレス解消の対象たる悪人」としてテレビの中の正義と自分を同一化し、気を紛らわせているのは自慰行為と言ってもよいかもしれません。カタルシスとしての。その場合はもちろん「変身するヒーロー」でなくても良いわけです。  しかし、変身するのは やはり、普段は人間と同じ視点、弱さも伴う感受性を持っていなければ悪を倒そうと思えないのかもしれません。人間が昆虫同士あるいは下等生物の弱肉強食を見ても、特に弱いものを助けようとしないだろうから、普段は人と同じ視線で見ていなければならないわけです。人間を完全に超越した神であれば、人間同士の争いは眺めているだけなのかもしれません。  とにかく仁義なき戦いにおける勝利で以って覇権を得たヤクザ神、チンピラボス猿と、その僕(しもべ)と成り下がった人間たちになんと言われようと、影響されてはならないでしょう。  あと、日本やインドの神話の原初の神々は、善悪や正邪を超越したところでの相克と言えるような戦いがある という印象も受けます。

mashumaro2
質問者

お礼

重ねてのご回答をありがとうございます。 >あと、日本やインドの神話の原初の神々は、善悪や正邪を超越したところでの相克と言えるような戦いがある という印象も受けます。 面白いことを伺いました。 私も、ちょっと調べてみますね。 ありがとうございました。

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.8

 いずれにせよ自分が教化していると思っているが実際は猿が著しく全体のレベルを下げ、障害となっているとしたら それは忌まわしきことです。  猿(的な人間)に早く人になってもらわなければ 全体の調和も訪れないかもしれません。こちらは人以上になろうとしているのに、彼は人になろうとするどころかサルから進化したくないと言って駄々を捏ねているのですから。  猿待ち で焦燥感を募らせるのも辛いものです。  自分の母親に禍事(まがごと)が起こったとして、それにたいして許すとか どうとか言っていますが、自分の身の周りの人間にそういったことがこれからはおきないように生きていかねば成りません。そのために人並みの知恵を身につけることが必要でしょう。  話が逸れました、結局、自分が直面している生活の中で現実をありのままに見て受け入れ、善悪を見極めて対処することが出来るようになるまで、逃げ道としてのヒーローモノや勧善懲悪の時代劇をみて自慰をし、満足するしかないのでしょう。  しかし、いい加減壮年のオナニー猿に喧嘩を売られるのには辟易しています。皆が「彼は人ではなく、紛れもなくオナニー猿である」と認識できるまで、野放しのままなのでしょうか。

mashumaro2
質問者

お礼

ENERGEIA様、再度のご回答をありがとうございます。 仰っていること、まるごとそのまま承っておきますね。 先の回答にお礼をさせていただいたかぎりにおいては、ENERGEIA様は、私には到底及べないほど深遠な哲学並びにご信条をお持ちかと拝察致しております。 ですからね、これからも感情面、知的な思索、豊かな感覚を研ぎ澄まして、より自発的に活動なさっていっていただきたいと願っているのです。 それは、外部から駆り立てられるようなどこか強迫的なものでもなく。 何と言ったら良いのでしょう。 まだお若い方でしょうしね、せっかくの良い資質が勿体ないように思うのです。 心のままに申し上げた次第です。 お心を悪くされたら、お許し下さいね。

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.7

>変身することで忌まわしくも恐ろしい力の封印を解く、といった感じでしょうか。  マンガのドラゴンボールでは、怒りとともに発せられるゴールドのオーラを出して戦いますが、そこには 美しさはあっても、忌まわしさはありません。しかし、現実社会では人が怒る場合、そこに美しさがあるかどうかは難しいですね。史実や実際に存在していた人間ではどうなんでしょうか。実際に居たとしても、人々に認知されたり、知られたりすることはないかもしれません。 >呉承恩の「孫悟空」(明代の半ば、1570年頃)では、苦難に満ちた西方への旅において徐々に悟性を抱き、ついに成仏に至るのですが。  マンガのドラゴンボールでは、尻尾の生えていた孫悟空は、途中で尻尾がとれ、人間となって最後には超人に変身して戦いましたが、逆に人間から猿にグレードダウン?して戦う人もいるようです。この場合は、私はあまり評価できませんが... >とても難しいです。私にとっては。  いえ、質問者さんのことではなく、実際に私の知っている人のことを、名前の変遷と変身を関連付けて言っただけですので 他意はありません。軽く聞き流してください、余計な詮索をさせてしまって失礼しました。  誰かに発した悪口?も、近くで聞いている人にとっては自分のことを言われているような気分になることは、私にもよくあることです。 >でも、あっちにしてみたら、私の方を「ゴキ」と認定したのでしょう。  いえ、あっち側の存在にとっては「なんか良く解らないけど俺たちより上級の存在であるようだ」と感じていると思います。人間が神に対して抱く恐れや畏怖や神秘や不可知感と同じようなものだと思います。 >人間としての性質を帯び、その限界を容易く超越しているようでありながら、結局はそれを打ち破れずに死んでいくわけで。  本当ですか?例えば町を歩いている人を観察して、「この人は死んでいく人だ」と思ったり、逆に「この人は死なない人だ」という判断は、私には出来ません...  最近、あらゆるジャンルの神話について簡単にですが、解説された本を読みましたが、そこに書かれていたのは「正義の戦い」ではなく、人間版「仁義なき戦い」でした。言わば「こんなにも忌まわしき神々のヤクザ戦争がありましたよ」という内容のようにしか思えませんでした。神話を良い例として学ぶのか、悪しき例として同じ事を繰り返さないための反面教師として捉えるのか。  人間に老いと死の苦しみがあるのは、人間が相応の存在だからでしょう。痛みや苦しみは、人によって 感じる強さ、感受度合いは違うと考えています。町を歩いていても、必要以上に びくびくと怖がっている(精神的苦痛を受けている)人もいれば、平然と歩いている人も居ます。全ては自分のしてきたことの結果なのだと思います。  そういう意味で、「苦しんでいるように見える人」に大しては時に 同情することはあっても、それらを助けることが正義ではないでしょう。 >その「悲劇性」ゆえに、人々は胸を打ち雄々しさに賛美するのでしょうか。  見ている人は悲劇と感じるかもしれませんが、本人にとってはどうでしょうか。死ぬことが忌まわしきことであり、悲しいこと とされている一方で、死者にとっては死ぬことが喜びであり、よき出来事かも知れません。「正義に生きる人」に悲劇性を感じるのは、その死に方というよりも、生き様そのものに欺瞞があったが故の苦しみに対して 悲劇性 を感じるのだと思います。結果としての死は、生き様が反映されるのではないでしょうか。過程と結果は一対、一体であると思います。

mashumaro2
質問者

お礼

ENERGEIA様、再度のご回答をありがとうございます。 もう少々、お返事にお時間を頂戴してもよろしいでしょうか。 後ほど補足欄より拙文を書かせていただきますね。 手際が悪くて、ごめんなさいね。

mashumaro2
質問者

補足

お礼が遅くなって、すみません。 >マンガのドラゴンボールでは、怒りとともに発せられるゴールドのオーラを出して戦いますが、そこには 美しさはあっても、忌まわしさはありません。 >しかし、現実社会では人が怒る場合、そこに美しさがあるかどうかは難しいですね。史実や実際に存在していた人間ではどうなんでしょうか。 >実際に居たとしても、人々に認知されたり、知られたりすることはないかもしれません。 これ、どうなのでしょうね。 美しさなんて、どうなのでしょうね、本当に。 繰り返しで恐縮ですが、私個人的には、因習的に規範とされてきた善悪の観念や理論と、実際に何が善悪かを意識し相応な行為を選択することとは、異なるものであろうと考えております。 >他意はありません。軽く聞き流してください >誰かに発した悪口?も、近くで聞いている人にとっては自分のことを言われているような気分になることは、私にもよくあることです。 はい、了解致しました。 それでも、やはり不特定多数の集うネットの投稿というのは、なかなか難しい面がありますね。 だからこそ、もっと気楽なスタンスで参加する、くらいの気構えのほうが、結局はお互いの身のためかもしれませんよね(でないと、身が持たないでしょう?)。 >いえ、あっち側の存在にとっては「なんか良く解らないけど俺たちより上級の存在であるようだ」と感じていると思います。 >人間が神に対して抱く恐れや畏怖や神秘や不可知感と同じようなものだと思います。 ああ、なるほど。 たしかに巨大化すると、もうそれだけで相手に対する畏怖の念が湧きおこりますね。 そうか、だからウルトラマンやら怪獣やらゴレンジャーの最終形やらが巨大化したわけですか、納得。 でもやっぱり、ちっちゃくても、ゴキは苦手。 >>人間としての性質を帯び、その限界を容易く超越しているようでありながら、結局はそれを打ち破れずに死んでいくわけで。 >本当ですか?例えば町を歩いている人を観察して、「この人は死んでいく人だ」と思ったり、逆に「この人は死なない人だ」という判断は、私には出来ません... これはですね、いわゆるヒーローのありがちなパターンの性質として申し上げたまでです。 実際の道行く人に対する観察眼として申し上げたのではないのです。 あくまで、境界的な存在として、たとえば厳しい試練を潜り抜けるのは優れた勇士と資質の証であったり、超人的で不死身に近いゆえに劇的な死に方をする、とか一般論としての話でした。 >全ては自分のしてきたことの結果なのだと思います。 >そういう意味で、「苦しんでいるように見える人」に大しては時に 同情することはあっても、それらを助けることが正義ではないでしょう。 はい、そうですね。 一概に手を差し伸べることばかりではなく、時に不作為という選択手段も採り得ると思います。 >見ている人は悲劇と感じるかもしれませんが、本人にとってはどうでしょうか。 >死ぬことが忌まわしきことであり、悲しいこと とされている一方で、死者にとっては死ぬことが喜びであり、よき出来事かも知れません。 はい、仰る通りだと思います。 >「正義に生きる人」に悲劇性を感じるのは、その死に方というよりも、生き様そのものに欺瞞があったが故の苦しみに対して 悲劇性 を感じるのだと思います。 欺瞞、ですか。なるほど。 ちなみに──あのドン・キホーテとサンチョ・パンサって、どう思われますか。

  • ENERGEIA
  • ベストアンサー率10% (3/28)
回答No.6

 ヒーローにも 戦うときと そうでないときがあるからでしょう。  「善はあるけど 悪はない、ムキー!」と 雄叫びをあげる 猿の相手ばかりをしているわけにもいかないでしょう。  ヒーローも、生活してるし、恋愛もするだろうからね。  例えばドラゴンボールの孫悟空(←人間です)は、戦うときにオーラを出して変身?しますよね。  別に見た目の変化が(ほとんど)なくても良いわけです。隠す必要がないから。  キチガイなら、嘘を言う時「私は人間ではありません、単なる猿です」と言うかも知れません。  インチキを言っていると、後ろめたくなるから あるいは、猿に変身するから インチキをいう事になるのかもしれません。  どちらが先か。微妙なところです。 >もし、両者に違いがあるとすれば、一体どのようなところなのでしょうか。  例えば、猿に変身しなければならない エテ公 は、嘘を言っているか、悪いことをしていて、後ろめたいから そうするのでしょう。  変身しなくて良いのは 正しくて何も隠す必要が無いからです。  請われたら実名で相談者の前に普段の格好で現れるでしょう。  あと、ブスなのに貴い名前、偉そうな名前を持っている人を私は知っていますが、子供の頃 親に甘やかされたのに中年になったら誰にも相手にされなくなってきた人がヒステリーを起こして 気狂い 発言をすることもあるようです。  それから、ドラマやマンガの中でだけしか そういったヒーローがいない(認めない)のは、実際に目の前にそういった人が現れたら、ゴキブリが殺虫剤をかけられたような心境、心情になって 落ち着いた気分でいられなくなるからでしょう。  だから架空の物語の世界の中で自己満足するしかなく、そしてそのぶん 現実がおろそかになり、時には自分自身が害虫になり、世の中の変化を阻害する あるいは 悪しき変化を推し進める ゴキブリになるのだと思います。  しかし、ゴキブリが「殺虫剤をかけないでくれ」もしくは「もう少し暗くしてくれ」と言うのは悪ではなく、そういった立場、心境で居る人たちが自己弁明を伴った他者の攻撃、誹謗中傷や邪推をしたくなる気持ちは、解ります。  そういった場合、他者の発言の内容の是非ではなく、ひとえに邪推と妄想からなる思い込みを基準、前提とした 非難になるようです。  哀れなゴキブリと考えて ほうっておくのも正義でしょうか?

mashumaro2
質問者

お礼

ENERGEIA様、ご回答をありがとうございます。 >ヒーローにも 戦うときと そうでないときがあるからでしょう。 >ヒーローも、生活してるし、恋愛もするだろうからね。 なるほど、そうですね。 たしかに、オン・オフの切り替えのために「変身」は必要だと思えてきました。 自然の脅威や悪の具象化である怪物たちと戦うためには、同じ土俵に立つ以上自らも怪物化せざるを得ず、必然的に内なる戦場の狂気を秘めているはず。 変身することで忌まわしくも恐ろしい力の封印を解く、といった感じでしょうか。 >例えばドラゴンボールの孫悟空(←人間です)は、戦うときにオーラを出して変身?しますよね。 はい、戦うオーラを出して変身?するキャラもいましたね。 たしか呉承恩の「孫悟空」(明代の半ば、1570年頃)では、苦難に満ちた西方への旅において徐々に悟性を抱き、ついに成仏に至るのですが。 >子供の頃 親に甘やかされたのに中年になったら誰にも相手にされなくなってきた人がヒステリーを起こして 気狂い 発言をすることもあるようです。 ここは。私へのENERGEIA様からの「愛のムチ」と有り難く頂戴つかまつりまする。 ネットって、とても難しいです。私にとっては。 >哀れなゴキブリと考えて ほうっておくのも正義でしょうか? 昔、とある化粧室で、一匹のゴキと見つめ合ったことがありました。 私もマジ凍りついたけど、あっちも微動だにしなかった。 でも、あっちにしてみたら、私の方を「ゴキ」と認定したのでしょう。 「正義」を貫くヒーローの多くは、超人的な活躍をしたり華々しい武勲を立てるものの、幸せな老後の自然死ではなく、若くして暴力を加えられ劇的な死に方を強いられる宿命を抱えています。 人間としての性質を帯び、その限界を容易く超越しているようでありながら、結局はそれを打ち破れずに死んでいくわけで。 その「悲劇性」ゆえに、人々は胸を打ち雄々しさに賛美するのでしょうか。

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