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ブッダは 神か? ――仏性をどう扱うか――

mmkyの回答

  • mmky
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回答No.6

参考までに  【問い1】 ブッダは 神か? 答え:YES God=神という解釈が混乱を与えてる。God=仏陀。神(かみ)=上(かみ)、つまり尊敬される上位の者という意味しかない。上の者を人は神と呼んでもよいがその場合、最上位に位するものが仏陀です。このときは「God Of Gods」あるいは「Master of Masters」を仏陀といいますね。そういう意味では仏教は一神教ですが仏陀は寛容ですから上(仏陀以下)を神と呼んでもよいとしているだけですね。  【問い2】 ブッダないし仏性は 人間の境地か? 2つに分けて 1)ブッダは 人間の境地か? 答え:NO 2)仏性は 人間の境地か? 答え:YES ・・全ての人間が有するものが仏性という意味。 仏陀は宇宙の英知、創造主ですから人間ではありえない。人間は仏陀が自身の英知の一部で創造した生物だから仏陀の一部、つまり仏性が宿っているということですね。 【問い4】 つまり 梵我一如ではないのか? 答え:YES 仏陀は宇宙の英知であり宇宙そのものである。それゆえ、梵(宇宙)我(仏陀)一如(同じもの) 付け加えれば、仏陀の悟りは全ての宇宙即我(ご自身が創った宇宙ですから当然なこと)ですが仏教の高僧の梵我一如はよくて地球即我ぐらいのもの。  【問い5】 けれどもそれでは 諸法無我なるおしえに反する。 答え:無関係 「諸法無我」の意味解釈が間違っているだけでしょう。

bragelonne
質問者

お礼

 補足欄の書きなおしです。  おしまいのところで  ○ 神(かみ)≠上(かみ)  ☆ と言いたかったのです。  ・まちがい: ○ かむぃ kamui ≒ かみ kami  ・ただしい: ○ かむぃ kamui ≠ かみ kami  ○ 諸法無我と梵我一如との関係について おぎないです。  ▲ (ヰキぺ:梵我一如) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%B5%E6%88%91%E4%B8%80%E5%A6%82  梵我一如(ぼんがいちにょ)とは、梵(ブラフマン:宇宙を支配する原理)と我(アートマン:個人を支配する原理)が同一であること、または、これらが同一であることを知ることにより、永遠の至福に到達しようとする思想。古代インドにおけるヴェーダの究極の悟りとされる。不二一元論ともいう。  ▲ (ヰキぺ:アートマン) ~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%9E%E3%83%B3   ○ 仏教における解釈  釈迦によれば「我」は存在しないとされるため、仏教においてアートマンの用語は一般的ではないと思われる。無我を知ることが悟りの道に含まれる。しかし、個の中心にある「無」を知ることが悟りとされることもあり、この場合、「無」が「アートマン」と同じものだと捉えることもできる。  仏教が最終的にインドから消滅した理由に、「我はない」とした初期の仏教の教えにあるとする説もある。「我の中心にある偉大なアートマンは祝福に満ちて、花びらが舞降りている」という説明を聞くと人はアートマンを求めようとするが、「我は存在しない」という事など人は知りたくもない、というわけである。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~    ☆ ゴータマ・ブッダがそうしたかどうかを 別として ブディスムは けっきょくアートマンもブラフマンもともに認めて 梵我一如の思想に戻ったということでしょうか?

bragelonne
質問者

補足

 mmky さん ご回答をありがとうございます。  そうですね。  【定義1】 神とは ひとり満ち足りている存在を言う。  ☆ この《神》が 異なる存在として二つより多くあるとおっしゃっているのですが それはまとめて一つ(つまり全体としての一)と見なして すすめます。  もはや復唱をはぶきますが 二点 疑問が残ると考えます。  まづ  【問い9】 《神であるブッダが 人間の境地ではない》とすれば 歴史上の人物であるゴータマ・シッダルタは この意味でのブッダではないということになりませんか?  つぎに  ★ 「諸法無我」の意味解釈が間違っているだけでしょう。  ☆ みなさんとともに つぎの説明を参照します。  ▲ (ヰキぺ:諸法無我) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%AB%B8%E6%B3%95%E7%84%A1%E6%88%91  諸法無我(しょほうむが、sarva-dharma-anaatman )は、・・・釈迦の悟った項目の一つである。すべての存在には、主体とも呼べる「我」(が)がないことをいう。  諸行無常といわれるように、一切のものは時々刻々変化している。ところが我々は、変化を繰り返し続ける中に、変化しない何者かをとらえようとしたり、何者かが変化してゆくのだと考えようとする。その変化の主体を想定してそれを我(が)という。 我とは「常一主宰」(常とは常住、一とは単独、主宰とは支配すること)のものといわれ、つまり常住である単独者として何かを支配するものを指す。   ・・・これは一般に有我論が説かれている最中に釈迦だけが主張した仏教の特色である。諸法無我は、インド在来の実体的な「我」の存在を否定し、あらゆる存在に常住不変の実体のありえないことを主張する。  ・・・この意味で、諸法無我は、自己としてそこにあるのではなく、つねに一切の力の中に関係的存在として生かされてあるという、縁起の事実を生きぬくことを教えるものである。  〇 神の存在について  有為法だけでなく無為法を含めてすべての存在には主体とも呼べる我がないというのは、    (α) 他の宗教に言われるような「神」などの絶対者もまた無我で   あることを意味する。これは絶対者の否定ではなく、神などもまた我々   との関係の上にのみ存在することを意味している。  仏典の中にも神が出てくる場面が多いが、絶対者としての神ではなく、縁起によって現れたものと見るべきであろう。その意味で、仏教は他の宗教と根本的な違いを持っている。  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  【問い10】  ★ 仏陀は宇宙の英知、創造主です  ☆ と上の(α)とは 矛盾するように思いますが いかがでしょう? 《創造主》は 《絶対者》であることが一般です。  * なお  ★ 神(かみ)=上(かみ)  ☆ これは 日本語学では  ○ かむぃ kamui ≒ かみ kami  ☆ と説かれていることを添えます。大野晋『古語辞典』。

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