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台湾沖航空戦から

台湾沖航空戦といえば大本営の誇大戦果発表で有名ですが、 なぜあれほど戦果が膨らんでしまったのでしょうか? この時期に空母を19隻も撃沈破するのは無理な話ではないでしょうか?現地司令部ではなぜ経験のすくない搭乗員の「魚雷があたった」とか「火柱を見た」という話を鵜呑みにしたのでしょうか? また事実が判明したならば発表は差し控えて陸軍にも話をしておけばよかったと思います。これで情勢が有利になったとした陸軍はルソン島持久作戦を主張する山下奉文方面軍司令官の主張を一蹴して、レイテ作戦を発動して、悲惨なことになりますね。普段から中の悪いことで有名だった陸海軍ですが、なぜ陸軍は海軍の誇大戦果発表を信用したのでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • trajaa
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回答No.1

まず戦果報告について、その時期になると搭乗員の訓練も充分で無く促成で搭乗している。要は飛び立って目標まで到達できるのが精一杯というよなレベルがほとんどだった言われます。 燃料不足航空機不足も深刻で充分な訓練もできず、当然戦闘能力も攻撃能力も開戦初期の充分に訓練を受けた熟練の搭乗員とは較べる事もできないと。 しかし、幕僚に取っては搭乗員の人数、飛び立った航空機数だけが重要で、その内実は見えなかったのでしょうね。 或いは知っていても、知っているからこそ深く追求できなかった。 能力の低い搭乗員にしてみれば、至近弾と命中弾の識別も艦種の識別も怪しいモノがあり。 ある人が一方から見た着弾と別の人が反対側から見た着弾、さらに別の方向に居た人からの着弾の報告を、一つの命中弾としてでは無く、3発(3艦)への着弾として報告してしまったりすることも多かったようです。 ですからある敵艦に対するたった一発の着弾が、上へ報告される過程でより大型の艦に対する複数の着弾があったように脚色されてしまい。 そんなに命中したのなら当然撃沈して当然だと言うことで、次から次に敵艦を沈めたようなあり得ない程の大戦果ができあがってしまったと言われます。 報告が上がる途中の段階で、中には疑問を持った幹部が居たとしても他所の部門の事に口を挟む事を拒むセクショナリズムや現場の兵士が多数無くなったのだから、そう言う戦果に疑問を挟むのは可哀相だと言うような変な感情論とかによって、事実の報告では無く希望の報告になってしまったと。 そして陸海の反目というか面子も大きいでしょうね。 海軍は何としても敵を撃滅すると大見得を切った以上、やっぱり駄目でしたと陸軍側へ頭を下げるのは、面目丸つぶれとなるので事実を知っていたとしても告げる事は恐らく無かったろうと思います。 高級将校はほとんど官僚的な性質で、軍人というよりは官僚だったと言われます。 今の高級将校は大丈夫かな?

その他の回答 (3)

  • tande
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回答No.4

直接的な回答ではないのですが。 5月8日の珊瑚海海戦における搭乗員の戦果報告は、 瑞鶴 爆弾 ヨークタウン型に9発命中(14機出撃) 魚雷 サラトガ型に2発、ヨークタウン型に2発命中 軽巡洋艦1隻に突入(8機出撃) 翔鶴 爆弾 サラトガ型に10発以上命中(19機出撃) 魚雷 サラトガ型に7発、戦艦に2発(内1発は不確実)命中(10機出撃) としています。 それを元にMO機動部隊は空母2隻撃沈確実、戦艦及び巡洋艦を各一隻撃破と判断しています。 ただ実際に命中したのは、(至近弾は不明) レキシントン 爆弾2 魚雷2 ヨークタウン 爆弾1 と言われています。  念のため言うならば、他の戦いを見る限りでは第5航空戦隊より腕が良いと言われる第1・第2航空戦隊であっても同じように過大な戦果を報告しています。(真珠湾攻撃での雷爆撃の命中率が物凄いことになってます) 真珠湾や珊瑚海海戦やマレー沖海戦などの過大な戦果報告から考えて、インド洋作戦における爆撃の命中率80%はあくまで日本の搭乗員報告であり、本当の命中率はもっと低いと考えたほうがいいでしょう。 台湾沖航空戦とは関係ない事を長ったらしく書きましたが、言いたいことは初期のベテランパイロット(といわれている人)であっても戦果報告がこんな凄いことになってしまうということです。 つまり、実際の戦果と日本側(搭乗員や司令部)の判断した戦果が食い違っているのは台湾沖航空戦に始まったことでは無いんです。 最後に、勿論戦果報告が過大になってしまうのは日本に限った話では無い、とは言っておきます。

  • Yelm
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回答No.3

一応、パイロットの弁護をすると当時、米艦隊でも多くの乗組員が夜間、次々に挙がる火柱や砲火で照らされた艦を見て「多数の艦が撃沈された」と勘違いしたとの記録が残っています。 船の上からですらそうなのですから、航空機の搭乗員が間違えるのは致し方ない事だと言えるでしょう。 軍上層部がそれを受け入れてしまったのは、さしずめ破綻した大企業の上層部が楽観的な数字を鵜呑みにして、都合よく考えてしまったように「信じた」というよりは「信じたかった」という意識が現れたものではないでしょうか。

  • tanuki4u
  • ベストアンサー率33% (2764/8360)
回答No.2

事実認識に関しては No1の方が詳しいです。 要は、戦果確認の技量が無くなっていた。 当時は陸軍と海軍とで空軍戦を戦うために、参謀部の兼任がなされていた。 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%80%AC%E5%B3%B6%E9%BE%8D%E4%B8%89 陸軍参謀として有名な瀬島龍三氏であるが、連合艦隊参謀も兼務している。 なので、共犯と言われている。 疑った参謀(だったかな)が東京の参謀部でなく(当時の連合艦隊参謀部は、現在の慶応大学日吉キャンパスの地下にあった)現地に行ったところ、どうもおかしいというので、その再調査を具申したが、どこかで握りつぶされたという事です。 そして、天皇から褒められたので、この成果は覆されず、観念上はあったことにされました。

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