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幕府の正立について

鎌倉幕府の成立は1192年ではなく1185年であると聞きました。 その理由として、征夷大将軍に任命された年ではなく 全国に支配権を及ぼした年を幕府の成立とするからだ、と聞きました。 だとすれば1590年に全国を統一した豊臣政権を 大阪幕府と呼んでもいいような気がするのですが、 なぜ、そのように呼ばないのでしょうか? よろしくお願いします。

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回答No.3

「幕府」というのは、原義は陣幕の内のことです。 中国では、孫子にもあるように古くから軍を統率して戦場にある将軍は、王よりその全権を委譲されており、場合によっては王の命令にも抗することができるという考え方がありました。 日本でも、その伝統を受けて、征夷大将軍に任命するときに節刀を与え、権威の委譲を表現しています。 よって、将軍の前線基地である陣は疑似朝廷ということになり、転じて幕府という行政機構が生まれるわけです。 さて、豊臣秀吉は征夷大将軍に任命されたくて足利義昭の養子にになろうとしますが、キッパリ断られ^^、公家の道をあゆまざるおえませんでした。 正一位関白太政大臣ですので、正二位以上(だったと思います^^;)になると政所という私的政治機構をもてましたので、彼の場合は政所政治というのが正解でしょう。

sig1999
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 やはり幕府を開くには征夷大将軍に任命されることが重要というわけですね。 幕府の語源から丁寧に教えていただき、とても参考になりました。

その他の回答 (3)

  • Tacosan
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回答No.4

「源氏でなければ征夷大将軍になれない」というのはただのガセだから無視することにしても, 秀吉は結局 (ある意味) 「公家として政治を動かす」道を選んだので「幕府」と呼ばれないんだと思います. ちなみに鎌倉幕府の成立時期は専門家の間でも割れているような気がする. 「幕府」を厳密な意味で取れば (征夷大将軍に任ぜられた) 1192年以外の選択肢はないのですが, 頼朝についていえば「徐々に権力を拡大していった」ので明確に「いつ」とは言いにくいんですね. でも, 江戸幕府だって「全国に支配権を及ぼした」のが 1603年か? という疑問はありますな. 逆に室町幕府については征夷大将軍に任ぜられた 1338年においても (こっちも建武式目の出た 1336年が有力ってあるなぁ) 「全国に支配権を及ぼした」とは言い難いような気がする.

sig1999
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 幕府の成立は「征夷大将軍に任命」されてから ということですね。 ありがとうございました。

  • tadagenji
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回答No.2

豊臣秀吉は平家の系統と本人が言っていたので、源氏系統でないと征夷大将軍になれません。 織田信長も藤原氏出身といっていることから、幕府はできなかったのです。 徳川家康も源氏出身は怪しいですが、早くからそう言ってました。

sig1999
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 朝鮮通信使の旅行記に「平秀吉」と「源家康」と記述があったことを思い出しました。 どうせ名乗るなら幕府を開ける源氏を名乗るほうが得ですよね(笑) ありがとうございました。

  • Heavyhand
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回答No.1

あくまで私見ですが。 結局は「幕府」の定義の問題だと思うんですが、鎌倉幕府にしろ室町幕府にしろ江戸幕府にしろ最終的には「征夷大将軍」という軍人を最高峰とする一種の軍事政権です。 それに対して豊臣政権ではトップに立った秀吉の官位は関白という貴族の位であり、その意味では平清盛あたりの平家政権と同じです。 (なお、最近の学説では平家政権を最初の武家による政権と解するそうです) そして、関白の地位を当時後継者だった甥の秀次に継承していることからしても、 秀吉は将軍位ではなく関白の位を受け継がせる形で政権を移譲していくつもりだったと考えられます。 したがって豊臣政権は軍事政権たる「幕府」とは異なった政治体制を目指していたと言え、 全国を統一した武家政権であろうと「幕府」とは呼ばれないのだと考えます。

sig1999
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 朝廷の中から政治をするか、朝廷とは独立して政治をするかが 豊臣政権と鎌倉幕府の違いですね。 ありがとうございました。

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