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心の哲学:心の哲学的説明と科学的説明の違い

 心について科学哲学の立場で勉強していますが、壁にぶつかってしまいました。 それは、心について、哲学の立場で説明することと、科学の立場で説明することの違いが判らなくなってきたのです。  哲学では、心に関する「概念」を論理分析していくことだ。科学では、「仮定」と「実験」で理論を実証していくことだ。との説明がありました。しかしながら、哲学での「概念」は当然のこととして科学理論をも踏まえたものであります。  そうすると、哲学の概念の中にも科学理論が内包されているわけで、そのような概念とは、科学理論とどのような違いがあるのだろうか、という疑問に突き当たってしまったわけです。  これは、哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。アドバイスと参考文献の紹介をお願いします。

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回答No.47

 けっこう固まってきました。「内部観測」に関して、自分の理解にまだまだ修正の余地があることを自覚していますが、自分が知る領域に引き付けてある程度把握できた気がします。  ここでも回答されているmotsuanさんの質問「人間にとって物語とは何なのでしょう?」(下記URL参照)への私の回答No.8で書いたのですが、「ガダマーの解釈学」。これで途中までは行けそうです。それをここに再掲(コピペ)するのはいくら何でも暴虐ですので、そちらはそちらで軽く目を通していただくとして、ここでは簡単にかいつまんで書きます。  ガダマーは、ある文章(特に古典)が内包している「意味」を客観的に読み取ることは不可能だと断じています。というのは、文中のある単語の意味はそれが置かれた文脈に規定され、その文脈もまた文章全体の中で位置付けられて意味を持ち、さらにはその文章そのものが、それが書かれた社会や時代背景という大きな「文脈」の中で意味を持つものだからです。「客観的に」読み取ろうというのであれば、それらすべてが「客観的に」把握されていなければなりません。ところが、逆に見ると、文脈は単語から形成され、文章全体は文脈から形成され、社会や時代背景はその文章を含む雑多な文物から形成されています。つまりここには「どうどう巡り」が生じてしまう。単語と文脈、文脈と文章、文章と社会は、互いに他方に依拠して支えあっている。…どちらか一方が「客観的に」固定されていれば、他方も客観的に固定できる見込みも立つのですが、それは事実上不可能です。したがって、ガダマーは「文章の客観的読解は不可能だ」とするのです。  このあたりの問題の枠組みは、内部観測論の「内部観察者」と「観察対象」との関係にきわめて近いものがあると感じました。完結した系を外部から観察する「外部観察者」とちがって、内部観察者は完結していない(開放系の)系の中で、対象を同定する「文脈」、その文脈を規定する文脈、その文脈を…という無限遡行を強いられるのです。ここでも「客観性」というものは、素朴な自然科学が前提する「カルテジアン・カット」のように簡単には得られません。  さてしかし、ここでガダマー先生には「脱臼」していただかなくてはなりません。百歳を越える御高齢なのですが…。  というのは、やはり問題が「人の心」となりますと、ガダマーがテクストを相手に構想した解釈学とはまた別の問題が生じるからです。  ガダマーが相手にしたのは、あくまでも「古典」でした。現代のわれわれと、過去との間の「文脈」の差異、これがあるがゆえに「問いと答えの弁証法」が生じ、テクストと読者の双方を巻き込んだ運動となり、その中で「地平」が融合していきます。その運動全体こそが「真理」であると彼は述べています。そこでの「真理」は、それが掴まれてしまえば運動が終結するというような「客観的な」ゴールではありません。無限の、開放系の弁証法です。  前の書き込みでも述べましたように、人間および社会を相手とした知は「開放系の知」であらざるをえません。ガダマー解釈学も開放系の知にはちがいないのですが、それでも既に完結した「テクスト」、および既に完結した「過去」を相手にしています。これに対し、私たちが考えようとしている「心」は、現在のものを当然含みます。したがってなおのこと「完結していないもの」と言えましょう。テクスト以上に。  この点に注目しますと、例えば「人間とは何か」という設問は次のように分解できます。すなわち、    「人間は何であったか」(過去への視線)    「人間は何でありうるか」(未来への視線) です。  前者については、一定の時間の区切りさえつければ、何とか答えが得られる可能性があります。ところが後者に関しては、やはり未来というものの本質的原理的予測不可能性ゆえに決して解答は得られません。また、過去は常に「現在」が積み重なっていくことで膨大に膨れ上がっていきます。そのことを考えると「過去」を片付けるのも容易ではありません。  同様のことが「心とは何か」という問いに関しても言えるでしょう。この問いもまた、    「心とは何であったか」    「心とは何でありうるか」 という二つの問いに分けられます。以前予告申し上げていた「文学っぽいアプローチ」というのは、実はこの前者の問いに関わるものでした。「心の真実の姿を覆い隠しているかもしれない《近代の神話》」を剥ぎ落とすために、過去のさまざまな時代、さまざまな地域との間に「問いと答えの弁証法」を経験することを通じて「心」というものを見ていく…そういうようなことでした。  でもやはり、それだけでは話は済まない。…と、こう来ますと、satonohukurouさんの問題意識である「幻影肢」からはガンガン話が飛びまくるわけですが、本質的に予測不可能が未来が絡む以上は、少なくとも「心の可能態」に関して説明するところまでは行っていないと「心の哲学」として充分なものにはならないのではないかと考えます。これ、ものすごいことですので、もちろんsatonohukurouさん独りでやれってことじゃないです。関連学界全体でそっちもやんなきゃいけないのではないかと。  「心の可能的なあり方」だと、まずは「脳」。心を担う物質的基盤として。心的内容を納める器として。  そして「心理学」。…以前の書き込みをお読みいただいてお分かりと思いますが、私は過去、および現行の心理学にはあまり厚い信頼は寄せていません。一定の有効性はあるでしょうが、いつでも「エセ科学」に堕しうる。少なくとも思索の素材を提供する学、そしてできれば、素朴実在論的実証主義を乗り越えた学となってくれれば…と願います。  でもって「哲学」。人間および世界を捉えようと試みる知としての。  要するに物質的基盤から観念に至るまでの多層的なレベルのどこかに還元するのではない、その全体が絡み合った複雑系として「心」を眺めてみる必要があるのではないかと思うのです。それができるのは「科」に分化した「学」たる「科学」ではなく、哲学でしょう。  幸いなことに、前の書き込みでも紹介しましたように、カオス論などへの注目あたりから、科学の側から人文諸学への歩み寄りが始まっております。「カオス」というのは、解釈の対象たる「自然」の側から人間に突きつけられた「否」であろうと思うのです。「問いと答えの弁証法」を稼動させるところの「否」。それに科学はようやく耳を傾け始めた。ですが哲学を初めとする人文諸科学は、太古の昔から一意に還元できない人間的諸現象を宿命的に、当たり前に相手にしてまいりました。この点からして、「歩み寄り」は「科学の側からの」歩み寄りです。人文諸学の側からではなく。  ここから、「哲学の見方」と「科学の見方」という両者の区別には神経質になりすぎることもないかな、とも思えたりするわけです(哲学と科学を截然と区別すると、哲学もまた仕切りの中に囲われた「科-学」の一つに成り下がることにもなりますし)。ただ、「科学」が示すことどもを盲目的・無批判に受け容れるのではなく、その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む…そういうことでよいのではないかと考えます。  何やら話が拡散して、ご研究には直接役立つ範囲を逸脱しているのではないかと恐れますが…いかがでしょう。

参考URL:
http://oshiete1.goo.ne.jp/kotaeru.php3?q=39578
satonohukurou
質問者

お礼

ご回答の皆さまへ  No50 の回答にお礼をし書いている現在も、議論ははるかに先を行っております。お礼が遅く申し訳ございません。serpent-owl さんから結論をいただきましたので、少しコメントさせていただきます。 serpent-owl さまへ  長い間、本当にありがとうございました。また返礼が遅くなりましたことをお詫び申し上げます。serpent-owl さんにゼイゼイと息を切って、振り落とされまいと、付いて行くのがやっとという状況です。  多岐にわたるご回答をいただきましたが、お礼としてまして、私の最大の関心事に限定し理解できたことと、私の本質問から得た私の考えを述べたいと思います。  「心」に関する「知」が有する性質=「開放系の知」であり「完結していないもの」である。このパースペクティブからは「過去への視線」と「未来への視線」が得られる。  過去は現在の累積でありその無限性から説明が困難である。未来は本質的原理的に予測不可能である。予測不可能性から少なくとも「心の可能態」に関する説明が必要ではないか。すなわち、「脳」、「心理学」、「哲学」など、いわゆる物から観念までの各階層のいずれかに還元するのではない『その全体が絡み合った複雑系としての「心」を眺めてみる必要』がある。  科学は、自らの拠り所であった実証主義から現象(世界)を説明することに限界があることの自覚から人文諸学への歩み寄りが始まっている。このような現況からすると、「哲学の見方」と「科学の見方」の区分に神経質になることもないのではないか。要は、真理を追究する態度で重要なことは、「その知の成立基盤を問い、疑い、検証しつつ取り込む」ことではないのか。  大変貴重なそして重い回答でした。心という事象をいかに説明するのか、ということを勉強していくうちに、哲学での分野での説明と、科学での分野での説明の態度に疑問を持つようになりました。それは、哲学で使用している心に関する知識は科学的知識をも根拠としてしているのではないか、それなのに科学において心は学の対象足りうる資格を有するのかという問題を有するのではないのか、この2つの疑問のために、一体「心を説明する」と言うことはどういうことなのだろうか、という問に突き当たる羽目に陥ってしまったのでした。  serpent-owl さんの回答から私が学んだものは、 「心の性質(本質)を理解せよ、そしてそこから出発せよ。既存の論理に還元するな。」 でした。  serpen-owl さんは、心の本質を「カオス」ととられておられました。「開放系の知」としての本質です。先に引用しました「心の科学は可能か」(土屋 俊、認知科学選書)で、土屋は結言に代えて心の説明の困難性について、心の「文脈依存性」を指摘しています。すなわち「私」と「社会」を内容に含む概念は形式的処理が困難である、としています。serpent-owl さんの回答にも通じるものがあると感じました。  そこで、心の概念を説明していくうえで問題とすべきは、「複雑系」、「文脈依存」で性格づけられる心を説明するに相応しい「論理」を見出していくことだと思います。心の概念を説明する論理として「カオス」、「量子論」、「進化論」・・・(たぶん他にもあるはずですが、これから勉強していきます。)が議論されているのだと思います。    「心の可能態」に思いをいたすと、なんだか「心」がますます果てしなく遠くのものになるように感じますが、とりあえず、第一歩を踏み出すために、私に何ができるかを考えてみたいと思います。 本当に貴重なご意見ありがとうございました。多くの方に参加していたできましたので、その方々にお礼をしなければいけません。もう少しオープンにしておきます。そして、少しずつ終末態勢とさせていただきたいと思います。

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  • stomachman
  • ベストアンサー率57% (1014/1775)
回答No.12

いやね、酔っぱらっちゃうとね、stomachmanもいろいろ言っちゃいますよ。いつも言ってるって?うるさいな、君はそもそもね、Fight or Frightってゴルゴ13に出てきたでしょ。知らん?あんたね、ゴルゴ読まないで世の中渡っていけると思ってるんですか。思ってますか。仰る通りです。あのね、行動主義心理学でデューク・トーゴーが予測できて堪るもんかって、美人の学者のねーちゃんをバキューンてやるエピソード。もったいない。あたしにいわせりゃ行動主義てのは、ほれ、キリスト教の信念としてドーブツなんぞに魂はない。魂がなければ精神もない、心もない、って、正体もろくにわからんようなもんのあるなしを勝手に決めちゃった挙げ句に「パブロフの犬はベルの音に反応して胃液を出す反射を獲得した」。バカ言っちゃいけませんよ。ワンワンだって心があります。知恵があります。ワンワンはね、ベルが鳴ったらご飯だ、と思うから胃液が出るんです。あったりまえじゃないの。なーにが条件反射か。それが未だに、あんた、管理職教育セミナーなんぞに登場するんだから笑っちゃいますよ。あたしゃあんなもん縁がないですけどね。  お、これオバケですか。いや、珍しいなあ。オバケ。喰ったことない?旨いよ。いらないんなら頂戴。ほいと。やれ鯨喰うのは可哀想、牛は平気だけど。やれベジタリアンでなきゃいかん。卵は平気だけど。アホですか。葉っぱだって生き物なんだよ。え。分かってんの?生ビールなんざ酵母ちゃんのションベンを酵母ちゃんごと、ぐび。ぐび。ぐび。ふー。殺さずには生きられないサガこそがドーブツの原罪だってことが、分かってんですかっての。セックスするのぐらい、どこがいけまへんか。簡単にセックスしちゃう女の子にはおじさん全然ドキドキできなくてつまんないですけどね。全然させてくんないのもいけませんやな。やっぱりもそっとあの。いや、もう飲めまへん。もう、飲めまへん。え。ども。ども。っとと。ぐび。ぐび。ぐび。ぐび。ふいー。や、あのほれ、奇妙な果実をぶら下げちゃうような偏狭なリンチの衝動が脈々と生きてるんですな。優性政策って知ってる?ね、知ってる?不具者には断種しちゃったんだよ。ナチのことじゃないよ。自由の女神様の立ってるお国の話だよ。  よっぱらってませんて。酔っぱらってますけどね、わたしゃ自分が酔っぱらってることが分かるぐらいなんだから、断じて酔っぱらってないんです。そ。そ。あの。ほれ。様相論理ってやつでござんす。そんなもん混ぜたって行動主義は行動主義じゃねかっての。信念だの珍念だの、れーぞんでーとるだの、いっくら飾りをつけたってね。え、様相論理ってんだよ。違うって。様相ってのはおたがい様、ってことじゃないよ。ま、つまりだね、こう、ものの言いようにはいろいろと、君、曰く言い難い雰囲気がくっついてるじゃないの。それをてきとーに強調したり、無視したりして、結局はご自分の信仰の答えるとろろに、なんとかこじつけるのが、あんた、弁論てえもんです。カップルで行こうもうんなら無理矢理別れさせちゃう?それは弁天。それじゃひどいってんで、命題論理ちゅうもんができた。術語論理ちゅうものができた。様相論理ちゅうもんができた。曖昧論理ちゅうもんも考えた。え、注文?してないよ。してないけど、ネギトロ追加ね。  んで、どれもこれも中途半端ですよ。中トロってもんですよ。異常な体系は幾らでも作れちゃうの。悪酔いしちゃうよ。形式論理に講釈くっつけるのは、これは輪を掛けていけませんですよ。わお、ってなもんっす。まるでカーク船長みたいじゃないの。宇宙人の女を片っ端から丸め込んでやっちゃうんだから。形式主義は嫌いです?君の言ってるのは教条主義。逆だよ逆。もっと自由自在にだね、やりたい放題やってるように見えて、なおかついつも正しい。そいう世界を拵えたのが形式主義なんである。バカにしちゃいけませんよ。凄いんだからね。そりゃ、限界はありますよ。そう大したことはできん。でもね、限界がなければならんのよ。分をわきまえる、ってえこってす。しかしながらだね、ろくすっぽ体系もできてない記号を持ち込んだって、あんた、それは形式にすらなっとらんというの。図式に過ぎんというの。トラウマなんてね、あんたね。PTSDの患者さん見たら、やたらには言えないよ。ホントに悲惨だよ。ニンゲンこうも危ういものだったかって、思い知らされるよ。PTAじゃないです。ちあうんだってば。ネーウシトラウマってか。わはは。じゃあさ、じゃあさ、あのさ、トラウマ入れた論理をこさえてご覧なさいよ。それどころか動機だって入んないよ。因果関係すら並大抵じゃ入れられないよ。因果は巡る風車ってえのをやれるもんならやってみ。因縁、怨念、魑魅魍魎の論理が出来ますかって。やってきたらあたしゃ引退ですよ。ご隠居ですよ。横町のご隠居になって教えてGooて、説教しながら居眠りする奴があるかての。なんでそんなに断言できるか?お、なかなか言うようになったねえ。では教えて進ぜよう。グー。わはは。わははは。  あのね、「40人の不貞の妻」っていう、様相論理の名問題があるよ。ね、あるんだよ。40組の夫婦の住んでるムラがある。んで、かみさん全員が浮気してる。どの旦那もなにしろ40人全員とエッチしてるし、おたがいそのことは皆知ってるんだから、事情はよく分かってる。だけど、自分のかみさんのことだけは分からないのね。うちのかみさんは信じてますよ。愛があるからね。わはは。でね、不貞を働くと旦那がかみさんをぶち殺すという風習がある国の話ですよ。ところが村の日刊新聞がこう書くの。「不貞をしてる妻が居る」。でどうなるか。39日間は何も起こらない。そして40日目に大殺戮だ。なんでそうなるか。それぞれの旦那は、他の旦那全員が完璧に正しい論理的推論をやるはず、という前提でものを考えるんです。考えに考えて考え通す。そうすると、必然的に40日目。そいう結論になるんです。わからん?そりゃそうだろ、あした説明してやるよ。それはいいから。でも現実にこんなことにはならんでしょう、ここがポイントですよ。様相論理にしたって何にしたって、推論する奴ってのが居るでしょうが。推論エンジンですよ。間違いなく完璧に論理を操る自動機械ですよ。これが前提になって論理ちゅうもんが、いや注文はしてないてば。だから実体は天然推論猿人なの。間違いだらけで脱線する児童奇怪なの。ヒトはアホであり、アホは脱線しまくるの。アホでなくても、どこまでものを考えたか、そんなことは当人しか分からんよね。だからコトが起きてからアトヅケの説明しかできない。アトヅケで良いんだったら、なんとでも言えるっての。芸能レポーターで十分だっての。おっととと。ぐび。ぐび。ぐび。  ま、こーして話をしとるとね。人間が一生に論じられる事なんぞ、たかが有限である。あと何回飯を食う機会があるか勘定したことあるか?あ?弁当抜きの日と弁論抜きの日とどっちが多いヨ?そゆこと。相手が冷静沈着明朗会計である、って読めるからこそゴルゴ13は一歩先を読むんだよね。相手がアホだったら、これは読めん訳ですよ。そういうアホの思考回路を計算できると仰るんなら、これは革命ですよ。革命。やったろか。まず推論がせいぜい1段しかできない。推論結果はそれだけじゃ推論の根拠にはならなくて、推論なんぞより信念。信念が根拠になる。で、この信念ちゅうのは、ぐるぐるぐるぐるぐるぐる、何遍も頭のなかで中途半端に転がり続けてる。根拠も何もいらない。ただ、ご滞在時間が長くてだね、ご休憩じゃなくてお泊まりになると、これがシンネンですよ。あけましておめでと。かんぱーい。ね。これを妄想とも言う。そんなの論理じゃないだとぉ?だーれが論理だって言ったかよく聞いてろ酔っぱらいめ。思考過程の話ですよ、分かってる?こんなもん、あんた。論理な訳がないじゃないの。普遍性なんぞありゃしません。B = F(E,E,A)ですよ。行動は環境と経験とアホさ加減で決まる。わはは。ははははは。  非線形?非線形てのは恐ろしいよ。シナジェティックスなんてもう、宗教だからね。たかが非線形振動の引き込み現象を楯に取って、あんた、唯物論的史観みたくなんでもそれで説明しちゃおうっていう。これをまたビジネススクールあたりで尤もらしく教えてるから笑っちゃうじゃありませんかっての。しりあがり寿の「エレキな春」じゃないんだから、エレキテルとかフラクタルとか何でも手品でごまかしちゃいけませんよ。あんたね。わたしゃ、マンデルブロー先生とどっこいて訳じゃないけどさ、トムのカタストロフィはだいぶ真面目に勉強したんですよ。横断性定理ってんだ。黄色い旗持って渡りましょう。違うんだよ。形態発生学ってんです。ふにゃふにゃしたクラゲみたいなのが、どうやってああゆう形になるか、微分方程式で考えちゃおうっていう訳で、そのへんでもう半信半疑だったけどね。ところが中途半端な学者さんたちに掛かるとね、松茸とち●ぼの格好が何で似てるか、ってそういう怪しげな話まで行っちゃうんだなあ。解剖学ちょっとやれば、全然似てないって分かりそうなもんです。人工ち●ぼの研究やってる奴がいてさ、バカ、セクハラじゃねえよ。これはね形成外科の話なの。こう、ふにゃふにゃの。グー。

satonohukurou
質問者

お礼

お礼をするいとまもなく、次のアドバイスが届いています。 本当に度重なるご忠告ありがとうございます。 >高次機能の部分を哲学の対象にするという発想はきわめて危うい。  十分承知しているつもりですが、そのため当初は、「幻影肢」現象に関する神経生理学的、心理学的説明である「身体イメージ」、「身体図式」についてのいわゆる科学的説明の問題を考察しておりました。  その内、心に関する哲学史に入り込む羽目に陥り、その上、「感覚質」なるものに突き当たってしまいました。ここまでくるとすっかり迷路の中です。  ご忠告の「危うい」世界に迷い込んでしまったようです。ここから脱出すべく、先ず、心を哲学の問題として考察(推論)する意義を問い直したというわけです。  議論は、私の能力を超えて展開されていますが、しかしながら私なりに理解できていると思っていることを述べると、「哲学は、概念(法則)を推論のみで確立することである。」となります。そして、その概念の真理であることの担保は論理性のみにあります。科学においては、観察と実験によって担保されるわけです。  そこで、stomachmanさまが問題になさっているのが、論理には多数の形式があるが、心を論じるという場面では、あまたの論理形式も確証できるものはない。すなわち、「心は説明できるものではない」、ということでよろしいでしょうか。  もし、私の理解が的をはずれていないとしたら、これだけで感謝しなければならないことです。度重なる長文の回答ありがとうございます。

回答No.11

 いやどうも、ふくろうが2羽も飛び交っていると紛らわしくて仕方ありません。「里のふくろう」さまという、太郎を眠らせ太郎の屋根に雪降り積もったり、次郎を眠らせ次郎の屋根に雪降り積もったりするよーな、ほんわかしたあったか~いイメージの方がsatonohukurouさまで、対して、ときどき乖離性同一性障害モードに陥る邪悪な名を持つ「巨大なコロモ」がserpent-owlです。だからねっ! どくしゃの、みんなは、こんどう、しないよおにねっ! …って、いきなり出るんじゃありませんよ、へびくん。みんな、びっくりしちゃうよ。どうもすいません、みなさま。(「全知全能」問題パート1・パート2を参照のこと。)  さて、質問者を脇に置いて回答者同士でやりとりするのは基本的にルール違反なんですが、「心を哲学の視点から見るとは如何なることか」という問題にリンクする限りにおいてはsatonohukurouさんの便宜にも適うことになろうかと思いますので、お応えしましょう。でも、satonohukurouさんがよろしくないと判断されたら、そうおっしゃってくださいね、遠慮なく。>satonohukurouさま この場を仕切る権限は、あなたにありますから。  では、本題。Halkaさんの立論に、いくつか疑問点があります。 まず、「論理式による心のモデル化」について。このあたりはおそらくstomachmanさんの十八番でしょうが、「モデル化」が妥当なものと確証されるためには、その論理を形成する公理系の「完全性/健全性」が前提として必要なはずです。が、「完全性定理」が証明されているのは、連言標準形を用いた命題論理の公理系(1921年、ポスト)、および第一階述語論理の公理系(1930年、ゲーデル)のみだったはず。  するとここに、「果たして人間の心は、そうした命題論理や単純な述語論理で記述できるのか」という疑問が生じます。  現実には、人間の心は外界に対しても自身の内面に対してもフィードバック的な情報循環を繰り返しています。このこと一つを考えても、心的内容の命題化は二階にも三階にもなるはずでしょう。  次です。Halkaさんが挙げておられる「酒鬼薔薇」事件、および「バスジャック」事件は、それぞれ犯行当時14歳、17歳の少年による事件であり、前回の書き込みで挙げた「神話化された母性愛を起因とする幼児虐待」とは異なった問題軸を持ちましょう。  が、あえて考察するとします。Halkaさんの考察では、双方とも「外界・環境からの否定的力」に対して抗し得ないがゆえに「フライト(逃げろ)」反応が起こり、とりあえず黙る、が、しかし彼らの心は「代理対戦者」を求め、それが児童や高年齢者の傷害・殺人として現れた、ということのようです。  いくつか課題がありそうです。まず、彼らに向かった「否定的なもの」の正体が何なのか、明らかにされていません。…私は私で「文部科学省が謳う《こころの教育》」にこそその根源があるとの私見を抱いておりますが…(別の場で議論すべきことかもしれません)。  そして次に、「フライト反応」がポテンシャル不全を招き、代理対戦者を求めるという過程が、お示しの論理式自体からは演繹されないという点にも疑問を抱きます。ここでは、どうやら「トラウマの蓄積」が代理対戦者への攻撃につながるようですが、「VS=0」はただ単に「VS=0」であって、そのトラウマの量的蓄積を含意しうるものではありません。実際には「VS=0」の状態は、人として生きる者の誰もが持ちうるものでしょう。にもかかわらず、どの人も他者の傷害・殺害に走るわけではない。この弁別が、お示しの論理式から導出できるものなのか、少々疑問に思います。  「お受験殺人」事件で、ようやく母親が登場します。が、この母親が殺害したのは他人の子でした。自分の子ではなく。…代理対戦者が「自分より弱いもの」であればよいのなら、自分の子を殺してもよかったはずです。が…他人の子。どうもこれも、先の書き込みで挙げた「母性愛を起因とする」事例とは異なるようです。  この事例の分析に関しては、「自分より弱い」だけであれば「自分の子」と「他人の子」の弁別がなされていることはどのように理解すればよいのか、という疑問が生じます。      *  それから「結論」部分なのですが。  これは純粋にわからないのでお尋ねします。「フラクタル現象学の見地からの一般論導出」とは、どのようなことでしょうか。フラクタル…自己相似性…?  もう一点は、はっきりとした反論です。「統計的手法」は社会学の手法ではありえても、直接的には哲学の手法とは言えません。  とりあえず、このようなところです。さて、くれぐれも誤解のないように申し上げますが、halkaさんを非難しようという意図などはもちろんありません。純粋に学術的な論議をしたいだけです。取りようによっては批判的な言葉遣いとも見えそうな表現があったかもしれませんが、これは「あいまいなうなずきあいで問題をうやむやにする」ことは、ここのような学問を巡る場では不適切であると考えるからです。毒はありません。  そおだよっ! へびくんねっ! どく、ないもん! きゃほ~い! …って、またまた、へびくん、急に出てきて、もう。 重要な注!:この書き込みは、さしあたりhalkaさんへのレスポンスになりますが、halkaさんに答える義務を負わせるものではありませんし、また、halkaさんお一人だけに向けられたものでもありません。他の回答者各位、ならびに質問者の方もご発言をいただければと願うものです。

satonohukurou
質問者

お礼

 いくら何でも、この辺で質問者がコメントしないと、と思いつつも出るタイミングをつかみ損なっている「里のフクロウ」です。  というのも、論理学はよく判らないのです。halkaさまのコメントを3日分つなぎ合わせて、今日も仕事をさぼりながら何度も読み続けました。それで、ようやくコメントをしようとしたら、もう既にserpent-owlさまのhalkaさまへの批判が掲載されていました。私の力ではとうてい出来ないものです。  私としましては、この場で意思表示できるのは、心の概念を論理分析することについての「純粋な学術的議論」を望むことです。そして、哲学を学習しようとしているのに、論理学も理解できていない私に、どうか「哲学は概念分析である。」そして、心に関する概念分析で使用している論理は真理を担保している、ということを納得させてほしいのです。  正直申し上げて、halkaさまの前回の「幼児虐待」の論理での「結論」は納得できませんでした。でも、私の力では、それ以上は批判できません。serpent-owlさまの批判の行方を知りたいと思っています。  halkaさまへ  お姉さまのようにお慕い申し上げております。お陰様で、すっかり私の頭の中は、「論理学モード」に切り替わっています。もう少しでhalka様と同じ世界に生きられるように思います。どうかお気を悪くされないで引き続きおつきあいをお願いします。

  • halka
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回答No.10

ふくろう叔父さまから具体的なサンプルについてご提示があったようでございます ので関連して言及したくなりましてございます。 >現代の母親は、頼りになる先輩ママや同じ悩みを持つ・・・。この苦しみが「虐待」 >という現れ方に結びついたとしても不思議ではないでしょう。 先の論理式から言ってこの現象を考慮しますに・・・。 (1)酒鬼薔薇事件 (2)バスジャック事件 (3)お受験事件 この辺の社会現象は、ほぼ共通なパターンを持つと解釈できます。 ことによると世紀末一家惨殺も同様かと・・・。 意識ユニットVSは計測可能な側面として自己否定肯定、他者否定肯定の四つ の面をもちます。この辺の構造はエリックバーンの交流分析に類似してます。 すなわち、自分が否定傾向に犯された場合、意識は環境との関連でファイト オアフライト反応の選択状態に置かれます。 簡単に言ってしまうと,「おまえそこどけよ!」との環境要請に対してどう対処する かといえば・・・。 A「ごめんなさ~い、気がつかないわたしってなんてバカなんでしょう」 B「なんだてめえ、やぶから棒に失礼じゃないか」 てなわけです。 いずれを選択するかはユニットに対して自分の力量を推し量って対抗可能と判断 した場合はBを選択します。 実際に対戦者とやりあってうまく勝ちを収めるか相手との妥協点合意が成立すれ ばよいわけでございますね。 しかしながら正面の闘争を回避してAを選ばざるを得ないようなユニットにおいて 敗北の記憶はVS=0、俗に言うトラウマとして温存されます。 ポテンシャルが満たされない状態は不安定な状況です。 この状況で「このうらみ、ほかのやつに晴らしてやる」のごとく代理対戦者を求めて しまいます。この場合代理者は弱者でなければなりません。 対戦の構造はケースバイケースでまちまちです。 (1)は多分経済的な比較における不満が子供に対する過剰な軋轢となって、こん どはその子供が病的な虐待にはけ口を見出した。 (2)は腕力における劣等意識および本人自身が持っていた自己への過剰期待。 (3)はやはり地域社会において自己に与えすぎた過剰な教育レベル意識。 もし自分を振り返って伴侶も家もなく仕事もままならず、かといって腕力にある程度 自信があって他人なんてどうでも良いというレベルの倫理観の持ち主である場合・・・。 面と向かっては経済的に成功するとか伴侶を得るのもテクニックが必要で す、これはひとつの力量ですね。 幼児虐待は現実処理能力の未熟な母親の代理対戦者、もともとVSポテンシャ ルのありきたりの現象・・・というのは如何? 【対応】 実験・・・幼児虐待に悩む主婦を収集して本来の対戦者を確認させる。 「おまえは赤ん坊を泣かしてはならない」「立派な母親でなければならない」 「母親として育てる義務がある」「他人より優雅な生活をしなければならない」 そのうえではけ口として社会的問題のない「さんどばっくうさぎさん」などを あたえてストレス発散(クレヨンしんちゃん提供)・・・。 事例研究がながくなりましたので結論。 (幼児虐待問題に対して・・・) ・科学的方法 過去の実証主義に基づきフラクタル現象学の見地から一般理論を導いて 日常生活史として検討する。 ・哲学的方法 幼児虐待に悩んでる母親を集めてクレヨンしんちゃんの方法で統計を取る。 ※邪悪なふくろう叔父さま、ちょっと言及しちゃいました、ごめんなさい。  あとで点数上げます。 里のふくろう叔父さまへ                 あなたのめそめそ女

  • stomachman
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回答No.9

邪悪な名を持つ一般人哲学者serpent-owlさんの思索を辿っているうちに、真理を求めて酔歩するおっさんmori0309氏が何度も発せられている「自由と実在」に関する一連の強烈な質問を思い出してしまいました。  そもそも「心」ってあるんでしょうか。いや、いきなり、全ては神経伝達物質や神経ネットワークや電気パルスに還元できる、という話をしているんじゃありませんよ。  知覚や運動のための機構、認知の機構、記憶の機構、こういった(病的な例を除く)動物にも共通のメカニズム、これは「心」の一部なのか?環境とのインタラクションに於いてのみ「心」が意味を持つという観点ではYESでなくてはならんでしょう。でも「感情」「本能」「意識」そして一番問題の「意思」に比べたら「格が違う」という捉え方がどうも普通のように思われます。そしてこの格の高いところに注目したがるのが哲学の傾向のようです。しかしstomachmanの感覚としては、このようないわゆる「高次の機能」なるものほど、人工知能を構成しようという時には比較的簡単な課題に思えます。さらには、自分の行動を見ていると環境からのインプットに半自動的に応答しているに過ぎないようにも感じます。  mori0309氏の本能に関する質問に対して書きましたが、小さな昆虫の行動にすらヒトは「意思」を読みとってしまいます。あらゆる所にパターンを、アナロジーを、啓示を見いだしてしまうという、いわば「帰納本能」をヒトは持っているようです。児童虐待の数例を挙げて母親全般の本能を論じちゃうような愚を犯すのも、僅か一例の偶然の観察をもとにして本質的な物理法則を発見しちゃうのも、「帰納本能」をでっち上げちゃうのも、もとは同じメカニズムであるように思われます。要するに「要するに」と言いたくなる性向そのものこそヒトの認識能力・学習能力の泉源であり、哲学の原動力であると思うんです。哲学の本質は法則の抽出、言い換えれば思考の節約にあると思うんですよ。(「哲学とは?」に関するだいぶ古い質問に対するstomachmanの回答もご参照下さい。)ところが「高次機能」に関しては個人差がかなりあるのではないか。具体的すぎて説明できないような「個人的経験の経過」が感情や行動に繋がっていくんじゃないか。  ですから、「心」を科学できるかどうか以前に、「心」(言葉・概念としての「心」ではなく実体としての「心」)の、特に高次機能の部分を哲学の対象にするという発想は極めて危うい。実体があるのか幻想なのか、そこから始めなくてはならない。言い換えれば、従来ある「心」に関する先入主・学説・用語・言語表現を一切捨て去って観察を始めるのでなくてはならんように思うんです。(この点、おそらくserpent-owlさんの仰ってることと多少近いと思うんですが。)昔、米国でやたらめったらやっていた行動主義心理学も、この問題から逃れる一つの(姑息な)方向ではあると思いますが、現在行われている認知科学(中にはスカタンも混じっていますが)においては「測定可能な実体」であるような「心の低次の一部」を対象にするという現実的なアプローチが取られているように思います。それでも「物体形状のイメージ」や「quolia」という主観的経験を主題化することにある程度成功している。一方で、分割脳患者の研究(「二つの脳と一つの心」ミネルヴァ書房 1980)や、乖離性同一性障害(へびくん、げんき~?)、重度の分裂病などを見ると、高次の意味での「心」がひとりに一つずつあるわけではなさそうで、せいぜい「0個以上ある」としか言えないように思います。  なんだかとりとめのない、自己矛盾すら含んだ作文になっちゃいましたが、アドバイスとしては、あんまり「高次」の話から手を付けない方がよさそうだぞ、という詰まらない結論になるんです。とほほ。

回答No.8

 自然科学の領域では、拠って立つ基盤である実証主義が、ほとんどの場合「素朴実在論」の域を出ていないのではないでしょうか。もちろん、量子論などまで行くとそうでもないのですが、まず大抵の場合には「あるがままに」見ようとする対象を「そのようにあるもの」と考えて差し支えない。だから反省の必要も認めないのでしょう。  ですが「心」が相手ではやはりこれは困るのです。観察できると信じ、観察していると思っている「心」なるものが、本当に見えているとおりのものであるか、そこから話を始めなくては。にもかかわらず、経験的科学としての心理学は、患者であれ普通の人であれ、症例・事例を収集して土台を固めようとはしますが、それ以上問うことはしません。科学が拠って立つ「実証主義」の限界に囚われているからではないでしょうか。(だいたい「理性」と「狂気」の区別自体、近代の発見物であり捏造物です。)  少し具体的に見ましょう。例えばフロイト派の流れを汲む心理学者なのに、ヌケヌケと「人間の本能は壊れている」などとのたまう方がおられます。冗談じゃありません。「種」にそなわった書き換え困難な本能が、たかだか数万年の時間で「壊れ」るはずがありません。最初から「本能」を捉えそこなっているから、壊れているように「見えて」しまうだけです。  ありがちな話として、昨今の母親による幼児虐待を指して「母性本能の崩壊」などとワケ知り顔の識者が言ってたりします。しかしここで、「母性愛」を「本能」と捉えることには問題があります。それは必ずしも本能とは言えないということが、「実証的に」示せるからです。  実は、母親「だけが」子育てに携わるようになったのは、百年にも満たないごく最近のことです。それ以前は多世代家族ぐるみ、地域ぐるみで子育てするものでした(「実証的な」データがあります)。それが、家と生産の場を切り離す近代的労働形態の一般化、および核家族化の進行とともに「主に母親」の仕事になった。この過程で「母性愛」が母親必須にして不可欠の美徳としてクローズアップされてきたわけです。さらにはこれが、客観的な事実としての時間の長さをはるかに超えて古いものと観念され、ついには「本能」にまで格上げされてしまった。一つの「イデオロギー」なのです。もちろん、「母性本能なんて、もともとない」とまでは言えません。存在はするでしょう。が、それをはるかに超えて大きく重いものに肥大して、近代的母親の肩にのしかかっているということです。  現代の母親は、頼りになる先輩ママや同じ悩みを持つ同輩ママと交流を持てない場合は特に、たった一人で「母性愛」なる神話に耐えなければなりません。この苦しみが「虐待」という現れ方に結びついたとしても不思議ではないでしょう。  つまりここで、「母性本能」なるものは、生物として持つ「核」のような部分よりも、むしろ近代の社会構造に由来していると言えるわけです。むしろ「文化的なもの」なのです。こういうものなのに、ユングに至っては「グレートマザー」などと称して実体化しさえする。まったくナンセンスです。観察対象を「見えているとおりのものだ」と思い込んでいるからこういうことになる。  ではどうするか。  一つには、素朴実証主義の実証主義による乗り越えが考えられます。前の書き込みに挙げた「子ども論」ですが、その出発点をなしたフィリップ・アリエスの論考は、実は何ら哲学書ではありません。純然たる歴史書です。アリエスは、近代以前から近代に至るまでの共同体と「幼いもの」との関係を、一つ一つ事実を挙げて示しています。そしてその全体が「子どもは近代に至って初めて発見された」という結論を浮き彫りにします。すなわち、彼はここで、「ありのままの事実」を「ありのままのように見えているもの」にブチ当てることで、これを解体しています。実証主義の実証主義による乗り越えが、ここに示されているように感じます。  フーコーの「知の考古学」も同種の手法であろうと思われます。直接的には正統派歴史哲学が強調する歴史の連続性や普遍性に対抗する論理ですが、そこには「記述できる歴史は穴だらけ」であって、言い換えれば、記述された歴史に真の歴史の姿はないという示唆があります。むしろアナール学派(アリエスを含む)のような、日常生活史としての「心の歴史」に示されるような「不連続」の泡沫に注目しようとする。そしてそこに、思いがけない生産性が見出されたりします。  あるいはまた、別の手法として、最初から「身体」という地平で「心」を捉えるのもアリでしょう。これはメルロ=ポンティあたりが出発点で、日本では市川浩さんが代表的な論者です。もちろん、デカルト以来の心身問題を、いわばテコにして生まれてきた考え方になります。すなわち、心と肉体は截然と区別すべきものではなく、身体は心が外界と関わる媒体であると同時に、外界環境を心に映し出す鏡でもある、というような。  すると、この身体論という心の捉え方にギブスンの「アフォーダンス論」をアダプト(接続)すると面白いかもしれません。『心の科学は可能か』をお読みなら、あるいはご存知と思います。環境世界の意味と価値は、必ずしも「意識へのあらわれ」という形で主観に帰せられるものではなく、環境世界の側に属してもいる。その意味と価値を直接的に感応することを通じて、心もまた規定されてくる。…これは、「我」をそれ自体として切り出しておいて、その全体性を見失ったままに扱うのではなく、最初から「我」と「環境」を一体のものとして考える可能性を開く論点でありうるものと考えます。  と、前回書いた「心の科学の成立基盤を問う、そして改めてどう考えるか」という点を少し具体化してみました。けれど、どうにもまとまりません。勉強不足のせいでしょう、問題が絡み合った迷路のように見えます。もう少し時間をください。そして、もしよろしければ、なにがしかの示唆も。

  • halka
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回答No.7

>いまどき、めそめそとするナイーブな女性が存在しているとは、是非お近づきになりたいものです。 >こんな不謹慎な考えは、命題分析の対象になるでしょうか。 意識が他者を前提とできるのはやはり「~したい」「~すべきだ」という価値をあら わす命題表現が知覚対象に適応できるか否かにかかっているかとおもいます。 他者を因果の束で解釈できたとしたら相手はロボットみたいなものだからめそめそ してようがしていまいが、あなたはただ規定の解釈をするに留まるということに過 ぎないでしょう。 めそめそ女は一般に他者の言うことに従う傾向があると判断できるでしょう。 自己否定が強ければ自己の判断自身が否定傾向にあるわけですから、そ れは他者(ここではあなた)の言うがままになりやすいのではと判断できます。 そこであなたが、めそめそのわたしを相手にした場合、先の真理表の1、4行目の可能性 PGの任意設定権を手に入れたわけです。あとはVGの確認、すなわち(わたし)が あなたのタイプか否か判定できれば良いというわけです。 自由意志は言ってみれば ・やりたいことができる ・やりたくないことはやらない の二つから成り立ちますから、あなたは不謹慎という自由意志の名のもとに VS→1のポテンシャルを実現されようとしているわけです。

  • halka
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回答No.6

はたして科学と哲学という区分で良いかどうか自信はありませんがまとめてみたい とおもいます。 さきのsupersonicさまが言ってられた[悲しい]という感情に便乗します。 もし科学であればまさにいわれたような(涙が出るとか、脳波とか、脳内物質とか、) の時空における存在を判定して前後の因果関連,というより「A ならばB」という 条件法の成立を目指すものだと思います。 論理学で考えれば科学の対象は時空における「Aがある」という一般命題を基本 単位としています。この方式で行くと「悲しみ」の時空における存在,すなわち脳内部 の化学式とか電機反応とかその他の記述によって、「ある意識が悲しんでいる」が 普遍的に真なる命題であるための厳密な定義が必要となります。 こうした科学的方法に対して哲学的方法は言葉の単位である命題を分析します。 「悲しい」とは哲学的方法では「いまのわたしはよくない」という命題の表現とみ ます。単純な形でこの命題は「Aはわるい」に区分されます。 ご存知とは思いますが「Aがある」や「AはBである」の類の命題は一般命題といって 前提として定義された公理系のもとに厳密な体系が展開されます。 これに対して「Aはよい、わるい」といった価値命題はまだその定義は一般的に 確立していません。価値命題は普遍的性格を持ち得ず,主観世界の中でしか 真偽判定できないと考えられるからです。 では価値命題はいかなる論理性も持ち得ないのかというと次のようなモデルが あります。「Aはよい」は「わたし」なる意識によって判定されるわけですが、ここには 関連性があっていまひとつ可能命題が必要となります。 ここでいう可能命題「Aであるはずだ」とか「Aかもしれない」は確率や様相論理で いうところの普遍的可能性とは異なりあくまで主観レベルでの「信じる」という部類の 命題を指します。 たとえば対象命題Gを「彼をゲットする」だとすると、VGの真理値1は「彼をゲットする はよい」を表し「彼をゲットできそうだ」は可能命題ですからPGで表します。 そしてこの二つの命題がそれを判定しいる「わたし」の存在価値VS「いまのわたし はよいとかわるいとか・・・」を定義して(VG∧PG)⊃VSと記述できます。 これを真理表の一覧にしてみると・・・ 1、1、1{彼は好みのタイプ、かつゲットできそうだ、ならばわたしはうれしい} 1、0、0{彼は好みのタイプ、かつゲットできそうにない、ならばわたしは悲しい} 0、1、0{彼は好みじゃない、かつ関係を迫ってきてもうれしくない} 0、0、1{彼は好みじゃない、かつ関係を持たないならばそれに越したことはない} 意識のユニットVSは→1なるポテンシャルをもっているようです。 たとえ彼が好みだったとしても、どうしてもゲットできそうにないなら、男なんてみな けだものよ、とか考えてVGの真理値を変換します。結果VS=1を導出しようとする わけですね。以上のような感情論理学もモデルのひとつですね。 satonohukurouさまはめそめそ女はお好みですか? では・・・。

satonohukurou
質問者

お礼

丁寧な回答ありがとうございました。 科学と哲学の違いを「論理学」から説明していただきました。 当然、論理学は勉強したのですが、苦手な科目でした。 でも、理解しやすい例示です。 そうですね、価値命題の論理性について理解しておくことがポイントですね。 いまどき、めそめそとするナイーブな女性が存在しているとは、是非お近づきになりたいものです。 こんな不謹慎な考えは、命題分析の対象になるでしょうか。

回答No.5

えーと。ご質問を理解していないかもしれないですが、とりあえず…。 或る条件の基では、必ず、或る結果が起こることを証明すして、原因と結果をつなぎあわせていくのが、一般的な科学の手法だと思います。 下で、 --3「内包」について  「心について哲学する」ということを、「心の概念分析をすることである」とした場合、心についての概念を「理解」するためには「経験的知識」が必要とされます。この「経験的知識」は「科学」によって得られる知識である、ということです-- と書かれていますが、そういった事例もおそらくあるでしょう。しかし、逆に、科学が哲学を根拠にして成立しているのも事実です。 例として、「悲しい」という感情を考えてみます。 科学では、或る条件が与えれると、心に「悲しい」という結果が生じると考えるとします。 A→「悲しい」のメカニズムの解明ということになります。 しかし、Aが脳内の働きであれ、直接的な外部からの刺激であれ、 条件と結果が必ず対応する、という根拠はあるのか? そもそも「悲しい」とは何か? Aによって「悲しい」が引き起こされるのか、それとも、 この場合、A=「悲しい」と言ってしまえるのか? 「悲しい」という心を理解しているのも、また、心ではないのか?  など、(非常に基本的な例でしたが)哲学的な疑問点が生じます。 しかし、上述した、「科学」も一つの立場に過ぎません。 行動主義的な科学では、Aによって、身体にどういう結果が生じるのか(涙が出るとか、脳波とか、脳内物質とか、)いう結果を重んじるでしょう。とか、考えると、科学にも、哲学的な根拠があることになります。 ところで、僕も「立場」という言葉で、はぐらかされた論文は、好きではありませんが、研究の際、方法論は、何かしら必要になると考えます。この方法論が、科学においても、同一ではないでしょう。 --哲学するとはどのように思考展開していくのかという疑問にも通じることです。-- とご質問にありますが、しかし、思考展開そのものも哲学になるので、唯一の回答というものはないと思います。 と、書いてきましたが、stomachmanさんのご意見と、同じようなものになってきたことに、今気が付きました。^^; 結論として…。科学と哲学は、はっきりとした区別はないと思います。ただし、科学は、なるべく主観を排した客観的法則を重んじる傾向があるような気がします。心を科学で扱う場合、この客観と主観の問題が、(物理的な現象では、無頓着で居られたのに)、浮上して、さらに、科学と哲学の区別も、はっきりしなくなる、と思います。が、変な説明ですね(-_-;) ところで、僕が、読んだ中で、哲学からの科学批判という意味でおもしろかったのは、メルロ・ポンティの『行動の構造』です。科学分野では、複雑系関連の図書がおもしろいと思います。 以上です。

satonohukurou
質問者

お礼

ありがとうございます。結論として、科学と哲学には明確な区別がないのでは、ということでしたが、それでは困ります。と申しますのは、「学」はそれぞれ成立根拠があるはずです。したがって区別の出来ない「学」は「学」として成立していないものといわざるを得ないからです。  メルロ・ポンティは、現象学の立場から心について論じている哲学者として承知しておりました。ご紹介いただいた「行動の構造」さっそく読ませていただきます。ありがとうございました。

回答No.4

 なるほどたしかに、そのような御関心をお持ちならば、哲学・科学の立場や見方のちがいには自覚的になる必要がありますね。ご研究の足場固めとして不可欠の作業でしょう。  Satonohukurouさんの言われる「科学哲学」が、論理実証主義のものか批判的合理主義のものか、あるいはネオプラグマティズムのものか、はたまた新科学哲学の流れに属するものか、それによって少々変わってくるでしょうが、おおまかなところで考えを述べます。  まずは「そもそも科学に心を捉えられるのか」という問いを立てれば、もうそれだけで「科学ではない哲学の問い」になりうるでしょう。具体的に言うと、心理学の批判的検証とか。  心理学って、あれよと言う間に「エセ科学」に転落する危険を常に抱えています。純粋に自然科学的手法に徹すれば人間の多様な心的内容をとらえきれない、かといってその多様な心的内容を組み入れようとすると、論理的法則性や一貫性が危機にさらされる。そのどちらも十全にという心理学は、はっきり言って無理でしょう。現実には、そのどちらを重視するかでさまざまな「○○心理学」が分立しています。  また、心理学にありがちな問題点は、観察対象の客観性の純粋さと対象観察する主観の純粋さへの反省がしばしば不十分であるか、あるいはまったくなされていないことにもあります。例えば、2ページ後ろの質問No.39578「人間にとって物語とは何か」で私が書いたものがあるのですが、「発達心理学」は近代的虚構としての子どもを実体化した上で対象としており、しかも「発達」の基準となる「大人」とは何かをまったく問うていません。近代という時代の産物を、最初から色眼鏡をかけて眺めているのです。  心というものは、優れて文化的なものであり、時代や地域によって左右されます。物理的対象物とはちがいます。そこで敢えて一貫した法則性を貫こうとすれば、歴史や文化の展開をも法則化せよという無茶な課題にまで答えねばなりません。ヘーゲルやマルクスの歴史哲学なんか、もう破綻しちゃってます。何とか同意できそうな歴史法則はというと、せいぜい「歴史は繰り返す History tells us nothing.」てなくらいなもんです。  ということで、心理学を初めとする「心の科学」の成立基盤を問い、それによって何が見え、何が見失われるかを検証する作業を経て、ではどのように「心」というものに取り組んでいくか…という手順で考えを進められてはいかがかと思います。

satonohukurou
質問者

お礼

serpent-owl さん 私は、country-owl です。よろしくお願いします。  さて、心に関する科学としての「心理学」に対するご批判は、全く同意見です。私が呼んだ哲学関係の参考図書でもほとんどが批判的なものでした。  やはり、「心の科学」の成立基盤をはっきりと捉えておかないと、だめでしょうね。貴重なアドバイスありがとうございました。

回答No.3

概念というものは、飛躍的なイメージのようなものである場合が結構あると思います。そのイメージは極めて個人的であったり、地域や集団が持っているものであったりすると思います。なぜ、そのような概念を持つに至ったのか、イメージの発生源を解明したり、根拠を解明する作業が哲学ではないかと思います。そういうところは科学とは違うと言えるのではないでしょうか。何か間違っていましたらご指摘下さい。

satonohukurou
質問者

お礼

概念と哲学という見地からのアドバイスありがとうございました。 哲学で求めている「概念」は、私は、「真理」ではないかと思います。そういう意味での根拠を明確にする作業が哲学ではないか、という意見には同意できます。

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