平家物語の祇王の一部分の解釈について
仏御前はかみすがたよりはじめて、みめかたちうつくしく、声よく節も上手でありければ、なじかはまひもそんずべき。心もをよばずまひすましたりければ、入道相国まひにめで給ひて、仏に心をうつされけり。仏御前「こはさればなに事さぶらふぞや。もとよりわらははすいさんのものにて、いだされまいらせさぶらひしを、祇王御前の申しやうによつてこそ、めしかへされてもさぶらふに、〔かやうにめしをかれなば、妓王御前の思ひ給はん心のうちはづかしうさぶらふ。〕はやはやいとまをたふでいださせおはしませ」と申ければ、入道「すべてその儀あるまじ。但祇王があるをはゞかるか。その儀ならばぎわうをこそいださめ」とぞの給ひける。仏御前「それ又いかでかさる御事さぶらふべき。諸共にめしをかれんだにも、心うふさぶらふべきに、まして祇王ごぜんを出させ給ひて、わらはを一人めしをかれなば、ぎわうごぜんの心のうち、はづかしうさぶらふべし。をのづから後迄わすれぬ御事ならば、めされて又はまいるとも、けふは暇をたまはらむ」とぞ申ける。入道「なんでう其儀あるまじ。祇王とうとう罷出よ」と、お使かさねて三どまでこそたてられけれ。
という部分の中の
〔かやうにめしをかれなば、妓王御前の思ひ給はん心のうちはづかしうさぶらふ。〕
と
わらはを一人めしをかれなば、ぎわうごぜんの心のうち、はづかしうさぶらふべし。
は仏御前が自分を恥ずかしく思う気持ちだそうなのですが
なぜ祇王御前が恥ずかしく思うだろうという解釈にならないのでしょうか?
よろしくお願いします。
お礼
その者を知ったところで何の足しにもならないという事で。