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文学的表現 2題
小説では、常識からかけ離れた表現が許される場合があるのかも知れませんが、わたしにはどうも納得できないときがあります。 1.「顔をそむけて涙をぬぐう」 誰かと会話をしているとき、感情が昂ぶってきて涙が出ることは、よくあります。 そういうときの状況を正確に言うと、相手と対面したままで面(顔)を伏せ、左または右の手を上げて、指(またはハンカチで)目頭を押さえる(または涙を拭く)のが普通です。 つまり、「面を伏せて涙をぬぐう」は、実際にあり得る的確な表現です。 (ついでに言うと、顔と手の両方を同時に動かすのは、この両者が最速で合体するために行うためであり、極めて合理的な行動です。また顔を伏せるのは相手に見られたくないという意識、および失礼ではあるが、切羽詰まった場合であるから、この程度のことは許されるであろう、という意識も働いている) しかし、「顔をそむける」というのはどんな姿勢なのでしょうか? 顔を右(または左に)振るのでしょうか? もし、そうであれば、会話中に相手から顔を逸らすことになり、これは相手に対して(特に相手が目上の場合)大変失礼なことではないでしょうか? 「天を仰いで慨嘆する(または涙をぬぐう)」という表現もあり得ると思います。 ただし、これは一人のときか、あるいは同僚程度の人が傍にいる場合であり、目上の人がいるときに(対面したままで)こういう仕草をすればやはり失礼でしょう。 本日の、五木寛之氏の新聞連載小説に使用されていました。 強く違和感を持ったのでお尋ねします。 「顔をそむけて涙をぬぐう」という仕草は現実にあり得るでしょうか。 2.「情(じょう)に掉させば流される」 いうまでもなく、漱石の草枕の一文です。 棹は長い竹の棒のことです。 舟を操るときに使います。 特に川舟の場合、川底は(海と違って)浅いので、棹が川底に届きます。 そのため、川舟はその行動のほとんどを棹で操作することができます。 ところで、川舟の行動には3つのパターンがあります。 をの一つは、上流から下流に向かって進むことです。 しかし、(流れが緩やかなところなら)下流から上流に向かって、進むこともあります。 (これができなければ元のところに戻ることができません) また、流れが淀んだところ(池や湖)でも行動します。 これらの行動すべてに棹が使われます。 つまり、棹を使用する、すなわち「掉さす」は必ずしも、上流から下流に向かって進む場合だけではない、という点にご留意ください。 こういう視点から「情に掉させば流される」という表現を客観的に考察してみます。 先ず、上流から下流に向かって”掉さす”ときのことだろうかと考えてみます。 「情」を「流れ」と置き換えます。 そうすると「流れに掉させば流される」は、下流に向かって掉さすのだから、流されるのは当たり前のこと(意思どおりの行動)であり、取り立てて言うほどのことでもない、ことになります。 次に、下流から上流に向かって”掉さす”ときのことだろうかと考えてみます。 そうすると、上記文章は「流れに逆らうと押し流されてしまう」ということになり、むしろこの方が説得力があります。 世間では、このように解釈している人の方が圧倒的に多く、これに「誤用」という烙印を押されているそうですが、論理的に考えると、むしろその方が妥当なのではないかという気がしてきて、漱石先生自身、そのつもりで書かれたのではないかとさえ思っています。 ご諸兄方のご解説をお願いいたします。
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1.顔を背ける≒目を逸らす >「顔をそむけて涙をぬぐう」という仕草は現実にあり得るか< 涙を見られたくないとき、さりげなく顔をそむけることはあり得ると 思います。逆に、涙したように見せかける、高度な裏技もあります。 勤務中の上司に対する作法として妥当か、という設問が不自然なのは、 おそらく「そむける」の語意を、誤解されているからでしょう。 むしろ、まじまじと相手の顔を注視するほうが無作法なのです。 ── そ‐む・ける【背ける】[動カ下一][文]そむ・く[カ下二] 《「背(そ)向ける」の意》1 後ろやわきの方へ向かせる。視線や顔 をそらす。「気まずさに顔を―・ける」「目を―・ける」── 大辞泉 五木寛之は、やや生硬な文章表現に人気があり、緻密な日本語による (泉鏡花や舟橋聖一の流れを汲む)作家ではありません。 五木ファンには心地よくても、論理的に甘いのが弱点です。 2.掉さす=棹を鎖す >流れに逆らうと押し流され……「情」を「流れ」と置き換えます< このような空想と曲釈では、せっかくの探求心が萎えてしまいます。 文脈に逆らわず、素直に読みくだすのが、文学の王道です。 惹句「智に働けば角が立つ」は、棹で岩を突くさまを喩えています。 対句「情に掉させば流される」とは、水の流れに棹を鎖したのでは、 舟を操ることができない、と結んでいるのです。 夏目漱石は、広くて深い川を渡る情景ではなく、狭くて浅い急流を、 きわどく下っていく光景を、人生に喩えているのです。 (京の嵐山の保津川下りで、舟を上げるのは、もっぱらトラックです) ── さ・す【鎖す】[動サ五(四)]《「差す」と同語源》門や戸な どを閉める。錠をおろす。閉ざす。また、容器の栓をぴったり閉じる。 「戸を―・す」[可能] させる。── 大辞泉 3.アフォリズム vs スノビズム ── 「鹿よりも、けんかの方がよっぽどおもしろかった」と吉左衛門 は金兵衛に言って見せて笑った。── 島崎藤村《夜明け前 序の章》 http://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1504_14585.html この「言って見せて笑った」という一節は、いかにも持ってまわった 小説的表現です。 どうして「言って笑った」や「言って見せた」ではないのでしょうか。 わたしの高校時代の教師の分析によると、ここに作者の「気取り」と 「照れかくし」が同居しているのだそうです。 わたしは、こういう論評そのものが空しく、虚ろに思えてなりません。 ひとくちに“文学的表現”といっても、情緒的感情に訴えるか、写実 的描写を伝えるかによって、真逆の“文学的趣向”に分かれます。 すべての文学が、交互に繰りかえし迷ってきたところです。 ── 松本清張も、将来の小説について「警察の供述調書のように書か れるだろう」と述べています。 http://oshiete1.goo.ne.jp/qa3804618.html (No.3)
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1.「顔をそむけて涙をぬぐう」 この表現が小説の前後の状況の中で浮いていると感じられたのだったら明らかに作者の不首尾だと思います。仰る内容だけでは私には判断できませんが。 ただ、この表現自体が論理的かどうかということはまた別の問題で、私自身では特に違和感は持ちません。そういった状況もありうるとは思います。確かに生硬な表現だとは思いますが。 2.「情(じょう)に掉させば流される」 喩えて言えば俳句のような、省略と比喩表現の果ての洗練された文章だと思います。これだけをただ単純に論理的に分析しても余り意味のある結論は出ないのではないでしょうか。文学的表現と質問者様がおっしゃっておられることでご理解されておられるのだろうとは思いますが。
お礼
丁寧なご回答有難うございました。
- hakobulu
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1.「顔をそむけて涙をぬぐう」 >現実にあり得るでしょうか。 :と問われれば、ある、むしろ、よくある、というのが答えになるでしょう。 涙を流すというのは感情が高ぶった結果ですが、これは、自我(意志)が感情に席捲された状態ということが言えると思います。 この場合、「席捲された程度」によって、涙に伴なう仕草も自ずと違ってくるということでしょう。 「面を伏せて涙をぬぐう」の場合は、相手に対して完全に気を許した、または完全に心を開いた、あるいは完全に打ちのめされた、といったような「強い席捲のされ方」を自我が蒙っているはずです。 対して、 「顔をそむけて涙をぬぐう」の場合、自我の若干の抵抗がまだ残っている状態ということが言えるように思います。 つまり、涙を流しながらも、だからといって相手に対して完全に気を許したり、心を開いたり、ましてや打ちのめされたりしているわけではない、という場合です。 「面を伏せる」は、ある意味では服従の表現でしょう。 「顔をそむける」は、服従に対する拒否表現。 どちらの感覚と共に涙を流すのか、によって仕草が異なってくるのだろうと思われます。 2.「情(じょう)に掉させば流される」 「情」とは感情のことでしょうから、「人の心から湧き出で常に流れている」という意味で、上流から下流へ、と考えてよいのではないかと思います。 ここで、 >下流に向かって掉さすのだから、流されるのは当たり前のこと(意思どおりの行動)であり :とおっしゃっていますが、 「情」が「流れ」とした場合、この流れは「他人の感情の流れ」でしょう。 そこに「棹をさす」というのは、その流れに乗って加速する、あるいはその流れを操作する、ということで、つまり、「相手の感情に同感しすぎる」という状態をあらわしています。 「相手の感情に同感する」ことを「流れに任せる」として、 「相手の感情に同感しすぎる」ということを「流れに掉さす」と表現したのでしょう。 「つい他人へ同感しすぎて強い思い入れを抱いてしまうと、自分もその相手の感情に巻き込まれてしまう」 といったような意味になると思われます。 「流される=自己の感情が制御しづらくなる」ということでしょう。 「>流れに逆らうと押し流されてしまう」というご見解についても、たしかに「人の世は住みにくい」要素のひとつとしてあるわけですが、これに関しては、後に続く、 「意地を通(とお)せば窮屈(きゅうくつ)だ。」 の中で同じような意図が示されているように思います。
お礼
ご回答有難うございました。
- bakansky
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「顔をそむけて涙をぬぐう」ということは、あり得ることだと思います。 人前で涙を見せるのは恥であるという精神があって、退席するのがかなわぬとあらば、せめて相手の視線だけでも避ける、という姿勢でしょう。 ちょうど、人前であくびをするのは慎みたいが、我慢できなければ手で口を覆ってあくびするということにも通じるかもしれません。 「掉させば流される」は、面白いご考察だと思います。 私の理解では、流れに竿を入れると手に圧力を覚える。それを「流される」と表現したのだと思っていました (手を放せば、もちろん竿は「流されて」行ってしまいます)。 (世間の)流れに乗っていれば何も悩まなくて済む。けれど、その流れに己の意志のようなものを対置させると、途端に圧力を覚える。 流れ vs 竿 という構図で受け止めていました。 しかし、解釈は人それぞれでよいのだろうと思います。
お礼
ご回答有難うございました。 やはり、草枕の「情に掉させば・・・」は、流れに逆らう、の意とご解釈されたのですね。 有難うございました。
お礼
わたしは、工学系の人間で、論理ひとすじに生きてきました。 しかし、こういうお話を聞くと、つくづく文学の奥の深さを感じます。 >── 松本清張も、将来の小説について・・・警察調書のように そうなって欲しくないですね。 今後ともよろしくお願いいたします。