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戦前の鉄道切符で意味不明のところがあります。
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大阪市電では、大正3(1914)年から昭和20(1945)年まで、系統番号をかなで表示していました。よって、「い・ほ・へ・ね・臨」「な・に・く」は全て系統番号の一種です。大阪市電は、創業時の一時期を除いて均一運賃制なので、これは乗換券ですね。 ちなみに、「い」「へ」は大阪駅前と阿倍野橋(=天王寺駅前)を通る循環路線だったので、甲・乙とあるのは右回り・左回りの事と思われます。下の切符には3つの赤い数字が印字されていますが、左上→右上→下の順に「年・月・日」のようで、おそらく「昭和2(1927)年2月7日」の事でしょう。券面の右下に小さく「上本町」とありますが、上本町車庫(今里運輸事務所の開設後は同所の「出張所」となる)は昭和4(1929)年に閉鎖されているので、矛盾はしません。一方、上の切符は左端が切れているので、いつの年代か確認できません(でも戦時色の匂いが‥)。 なお、下記の文献に収録されている当時の「大阪市電気軌道乗車料条例」によれば、第9条に ●乗換券ヲ交付スル場合ニハ乗換ノ時間及停留場並ニ行先ヲ指定ス ●指定時間内ニ指定ノ停留場ニ於テ乗換ヲ為サザル時又ハ指定ノ行先ヲ変更シタル時ハ其ノ乗換券ヲ無効トス とあるので、市電の乗り換えには「時間制限」があり(但し何分以内かは書かれていない)、右下の「時計」は、その乗り換え時間を表示したものと言えます。 参考文献:「大阪市交通局75年史」(1980年刊行)
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- tetsu3M
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#4です。 その後「奉送」について調べましたところをお伝えします。 昭和天皇は昭和4年5月29日に新艦那智にて八丈にご発航され、大島・紀州を廻り6月4日に大阪に行幸され、6月8日に神戸から還幸されました。 この切符はその行幸の記念として、「奉送」が加刷されています。 よって上の写真の切符は昭和4年6月7日発行ものということになります。 あと追記としまして、切符にある周囲の数字は時刻を示しており、乗換えの場合の乗車有効時限を示しています。
- tetsu3M
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まず、これは大阪市電の戦前の切符です。古い話のことなので、長老の弁をも借りて回答します。 当時は車掌が乗務しており、車内で切符を発売していました。これらはその車内発売券です。 写真の上の切符はこれに示されている市電の路線図から判断しますと、昭和6年までの6月7日発売のものです。下の切符は昭和2年2月7日発売のものです。 (都島守口線は昭和6年10月16日に開通しましたが、上の切符の発行段階ではまだ都島守口線が開通していません。「奉送」と加刷されているのを詳しく調べれば解るかと思えます。) >「いへほね臨」「なにく」は何を表していますか? 市電の開通以来、運転系統名は「い」「ろ」「は」……と平仮名で表示されていました。この乗車券の平仮名も運転系統名です。「臨」は臨時系統です。これは昭和19年6月まで続き、その後番号制に改められました。 ちなみに、「い甲」は番号制になると「1甲」に改訂されました。 あと、い乙→1乙、ほ→3、へ甲→4甲、へ乙→4乙、ね→8(一部)などです。 >その下の「のりかへ」「のりかへなし」の数字の1~12は何を表していますか? 昭和2~6年の時代においては料金が6銭の均一性で、乗換も可能でした。 乗車し行き先を告げると車掌がこの切符を発行します。片道乗り切りも乗換えも同じ切符で、乗換えの有無や行き先をパンチしていました。 周囲の数字は時刻を示しています。定かではありませんが、乗換えの場合乗車券の発行時刻から1~2時間位後のところにパンチを入れていたそうです。
- tasogare32
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二枚とも戦前の大阪市電の乗り換え切符です。 ひらかなは間違いなく路線系統です。今手許に資料が見つかりませんので正確には申せませんが、昭和の一桁代、少なくとも日中戦争が始まる頃までは、大阪市電は系統を表すのに番号でなく、「いろは」を使っていました。「臨」は勿論「臨時」です。 時計回りの数字はNo.1の方がお書きのように時間です。乗り換え切符の不正使用を防ぐために最初の電車下車時の大体の時刻をパンチしておきます。 一枚目の切符は明らかに天王寺車庫所属の電車が発行したものです。 右下隅にちいさく天王寺とありますね。「ほ」「い」「ね」「へ」は天王寺車庫が管轄する系統で、当然これにもパンチが入ります。そして「ね」「へ」の下に小さく「甲」「乙」の文字がありますが、これは「大阪駅前」と「阿倍野橋」を結ぶ路線には堺筋、四つ橋筋、(後に上本町筋)と循環する系統があり、それの外回り内回りを表す記号ではなかったかと推測します。 太線が当該車庫の縄張り路線ですが、これを見ておわかりのように天王寺車庫の場合今でも地下鉄が満員になる中心部を南北に走る路線が多く、いわばエリート車庫ともいうべき存在でした。 二枚目の切符は「上本町車庫」所属のものです。こちらは後に今里車庫が出来て早くになくなりました。
- kuma-gorou
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