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いわゆる現代美術のどこがいいのか分かりません
銀座にある現代美術専門の画廊には数度いったことがあり、そのときはそれなりに、やはり存在感のあるものだなと思います。 ただ大きな展覧会場などにいくと、いわゆる抽象画や(わざとらしくとしか私には思えないのですが)デフォルメされた絵のコーナーは素通りか、まちがって見てしまったときなど(笑)、おもわず目を背けてしまうとういうのが正直なところです。 現代のアメリカでいえば、たとえばワイエスなどの絵や、日本でいえば福井良之助の絵などは、すなおにいいものだと思います。 で、たとえばステラやポロックの絵(?)を、正直いって(!)どうしても「いい」とは思えません。ポロックが一心不乱に絵の具をまき散らすのは、本人は真剣に絵の道を探求しているのかもしれませんが、それを見て「すばらしい」という気持ちが分かりません。ピカソもみていいと思ったことは一度もありません。絵の前に長く立っていようとは思いません。親が我が子の落書きを見て素晴らしいと思うというほうがかえって分かります。 現代美術の理屈は何となくわかります。絵が分かりにくくなってきたのも歴史の必然なのかもしれません。でも、です。同業者や大学の美術関係の先生から、いくら現代美術は素晴らしいと解説されても、それは所詮内輪(業界?)の評価というやつでしかないんでないの?と思ってしまいます。 「それは、おまえさんが、絵をたんにぶりょうの慰めにしか思えない弛んだ精神をもつからだ」とおっしゃるかもしれません。 でもです、どうも、分かりません。建物をラップしてどこがいいのでしょう。 物をして物に語らしめる、自己目的としての存在、それは何も芸術のお世話にならずとも、ふだんの茶碗や投げ出された靴において出会うことができます。 以上は愛好家にとっては不愉快な言い方でしょうが、そこで、どう素晴らしいとお思いなのか率直なところをお聞かせ願えないでしょうか。
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私は現代美術家です。30年近く現代美術にかかわってきています。mesenfantsさんの気持ちはよく分かります。ポロックの絵画が何がいいのか分からない・よく分かります。要はポロックが言わんとしようとしている意味・内容がmesenfantsの中にないということだけです。自分の心の中にないものを感じろということ自体が無理なだけで、それ以上なにもありません。だから、いいな~と思う作品を見ていれば良いということです。ちなみに私はポロックの気持ちがよく分かります。実際ポロックと同じアルコール依存症だからです。30年近く現代美術にかかわってきていても、分からない作家はたくさんいます。自分に必要なものだけチョイスして楽しんでいればいいのです。無理して理解しようなどする必要がないと思います。食べ物の好き嫌いと同じようなものだと思います。どうしても理解したいのならば、その作家の作品の写真でも部屋に張っておき、始終見れる状態にしておけば、いつか分かるようになるかもしれません。でも無理する必要はないと思います。でも正直現代美術が理解できたほうが知的にリッチな生活は送れると思います。好きな現代美術家の作品を徹底的に見て、もしかしたら違う現代美術の作家が増えるかもしれません。まあとにかく、いいな~と思う作家の作品を見ていれば良いのではないかと思います。好きであることが一番だと思います。好きな食べ物はラーメン、嫌いな食べ物は豆腐・これで良いと思います。参考にならなくてすみません。
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現代絵画、抽象画は、脳の論理思考の、絵画だとおもいます。だから理解するためには、脳の思考が必要です。現代社会は、脳の時代です。脳の分身の言葉、複製のバソコンなどで、自然に対して脳が優勢です。この脳の時代の、社会を表現してるのが、現代芸術です。脳は、自然と対立してるので、現代芸術は、自然のリズムから分離してるのが特徴です。不自然、不協和音で、脳を刺激して、自我意識の世界が膨張しています。ではなぜ脳が、悪いかと言うと、不調和世界の代表で、ストレスの源だからです。脳が不調和だと言う事は、仏教でも、キリスト教でも、中国の老子でも、教えています。他方自然は、調和世界の代表で、人の心を癒し、人を育て、社会を調和へ導きます。だから昔の日本人は、生活に、脳を休めて、情緒を多くする方法を、考案してきました。だから伝統文化、絵画も脳を休めて、自然の情緒、心の癒しを、目的にしています。だから今、現代人に必要なのは、脳を休めて、情緒を多くする芸術文化です。だから日本の伝統文化こそ、人類を癒し、救います。
お礼
再度のご教授を賜り恐れ入ります。 まえにも申しましたが、養老先生の唯脳論と同型のものと理解します。 養老先生はいわゆる理系(論理)の人ですが、「唯脳論」は(科学的な)「仮説」として提唱しているわけではないと思います。 仮説であるにはあまりに大ざっぱすぎます。まだ「脳」の機能じたいが科学的に解明されてもいないのに、人間的な社会的文化的事象をその未解明の「脳」という概念で説明するというのは可笑しな話です。もしかして脳には、回答者さまのいう「不調和」を「調和」に変える機能があるかもしれません(仮説として)。そういう脳を進化と呼ぶか退化と呼ぶかは別にして。そもそも「心の癒し」とは、脳の隠れた働きがあるからこそ、わたしたちの内とも表ともいえないどこかに記載されるものである、のかもしれませんよ。 いってみれば「唯脳論」は反駁不可能です(カール・ポパー)。べつ反論しようとも思いません。すべてはおそらく「唯脳論」で説明できるでしょう。 唯脳論は、いまはやりの、理性から感性への変換説やら、アフォーダンス論やら、風景論やら、が不思議に同じような(エコロジー的な)論調で広まりつつありますが、この動きと軌を一にしています。別に異論はありません。(こんな甘ちゃんな世の動きに異を唱える現代美術がありそうです……) 現代美術にたいする回答者さまのスタンスにもさして異論はありません。それはそうだろうなあと思います。またそうではない説明もまたあるだろうなと思います。 本投稿のもともとの趣旨は、だれか現代美術の最良の美質を明晰なことばで説明してくれないか、だったのです。 残念ながらそういう言葉には巡り会えませんでしたが、みなさまのご意見には深く感謝しております。それをバネに先へ進めそうです(本心です)。何年かかるか分かりませんが、自分なりに納得のいく答えを探求してみます。 ありがとうございました。
No8です。 かなり投げやりな回答で失礼しました。ただ批評家がズバッと言わないのは 伝統(?)なのかな・・・、なんてね。 ただ、制作している本人は心底楽しんでいるだろうし、そういう創造する 行為が性分で止められないのだということは付け加えておきたいですねぇ。 だから理屈で逃げてるだけなのかもしれませんし、それもまあ一つの そのひとの生き方なのかなと。 (基本人の役には立たないから算数みたいにキチっとした答えはない 上に出す気もない。) どこがイイ!のかが知りたかったら同じことをしてみるのが一番かも しれません。 思いのほか・・・楽しい・・・のかもしれませんしね。(勝手な使命感燃やしてる 人とかもいますし) しかし、私達がその魅力に気づかなくてはいけないことはないのだと 思います。 統合失調症患者のリハビリやアル中の手慰みや薬物患者の幻覚に 見えたら見えたでそれはそれが真実なんだと思います。 良さなんてのは「おっ!なんかやってんなw」とか「よっぽど ラップで包みたかったのねぇ~、気の毒に・・・。」 という行為そのものがまあ良さなんじゃないでしょうか。 それ以外は蛇足だとおもいますが。 それともう一つ、作品には母国語のように感じる作品と、え?何語? と感じる作品があろうかと思います。 理解不能な作品は特に訳し方(飾ってある場所や寸評など)によって 感じが異なることはあるのではと思います。たとえが下手ですんまへん。
お礼
重ねての一文深謝いたします。 文字どおりお世話になり、かたじけなく存じます。 実作者のかたが見たら、あきれた言いぐさの数々につきましては、この場を借りてお詫び申し上げます。 「なんか、やっているな」というのが、いつわらずの言葉なんだと思われます。それはそれでたいへんな褒め言葉です。それであとは絶句しておれば、あたしなんぞが出る幕もないんです。 知ったかぶりの、とんちきが、とんちきどうしでしか分からない(どうせ同語反復でしかない)言葉を作品に浴びせてご満悦なのは、百害あって一利なしという思いが片隅にあったのも事実です。 以前テレビで、津軽三味線の「竹山二代目」(だったと思う)の女流三味線弾きが、そのプライベートな襲名披露をかねて、関西だったかのお座敷で、おもだった聞き上手の年寄りの前で演奏する場面がありました。(面がまえからして半端じゃない、目つきのそうとう怪しげな、どこか谷崎潤一郎風情の)その年寄りたちは、演奏後みな渋い顔で、演奏が気に入らないらしく、「まだまだでんな、てんでお話になってまへん」とのことでした(かすかな記憶によれば)。それは奏者がいちばんよく分かっていることで、名人といわれる人の響きに近づくには気の遠くなるような時間と修練が不可避なのを、はたながら、まざまざと教えられたことがあります。 こんな時代ですから、ひとりの作家を理解するだけであっぷあっぷなのに、あの作家はこうで、この作家はああで、としたり顔に解説するお偉い先生の頭のなかはどうなっているのでしょう(はっきりいって何も分かっちゃいないに決まっています)。ああ、また愚痴になってきました。ただ、わたしとしては、安易な評価の言葉はげんに慎みたいと思っている次第です。ほんとうの本物の分析言語が登場するのは21世紀の半ばになるのかもしれません。 そろそろお開きの時間になってきました。今年はお気に入りの作家の版画を二点購入し充足した時間を得ています。絵(版画)とは不思議なものですね。 ありがとうございました。
お返事ありがとうございます。お礼文読ませていただきました。 なんか作品の批判っていうより関係者(制作者や批評家)が嫌いだから 理解できない、したくないという感じですね。 まあどうだっていいのですが、良いという感想を持ってる人は それなりに理解ある師に出会っていて、そうでない人は最悪な出会いを してるもんですから。そればっかりは運不運なので、どうしようもない ことなのだから私の感想はどうしたもんかなぁ・・・です。 日本に生まれちゃったことで触れる機会がまま少ないとか、 先入観があるとかいろんな要素がありますんで。DIYで丸太小屋 作る国とは感覚もちがうでしょうし。 長い目で見てやったらどうでしょうかね?
お礼
貴重なアドバイスありがとうございます。 けっきょく、ただ「いい作品」には、ただ「いい」と同語反復的にいうだけしかないのでしょう。まだそれを表現する言葉を見いだせていないのかもしれません。いわゆる専門化の解説でこれだなと思えるものに出会ったことがないものですから。「なんだ、けっきょく、逃げまわっているだけじゃないか」とつい愚痴ってしまうのです。 アンソニー・カロのテーブル・スカルプチャーなんて写真で見ても、かなり「やばい」(ほめことばです)と思いますが、たとえば、駒場の日本民芸館にある黒田辰秋の木工の存在感と比べてどうなんだと思う自分が一方にいるわけです(へんな文体で失礼)。 ぶっちゃけ、「やばいから、あれ、見てみ」みたいな感想でも、なんでも、「長い目でみてやったら」というのでない、傍観者のものではない観想の言葉が聞けたらとおもって投稿した次第です。 ポロックをアル中の絵と喝破なさった回答者さまがいらっしゃいました。おもわず、そうかと納得した次第です。それが永続する美であるかどうかはこちらの問題なのでしょう。 たしかに、米国で大きく咲いた美の運動ですから、日本ではいまいち実感がともなわないということもあるでしょう。それも伝統美の国・日本に暮らす者にとっては、ひときわ異様に見えるのかもしれません。 関係者が嫌いだから、とおっしゃるのは恥ずかしながら図星のようです。こんご反省します。 いろいろ、ありがとうごさいました。
- s_end
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回答No.4です。 お礼コメントありがとうございました。拝見させていただきました。 >芸術余剰論として受け取りました。「酒」の味は大人になって(食う心配がなくなって)から、わかるもの。分かる絵が底辺に十分あって、分からない絵が風流人のために少量流通しているというイメージでしょうか。 ちょっとこの辺りから、私が言わんとすることと解釈が違う方向へ向かったようなので、勝手なお世話ながら、もう一度説明させていただきます。多分、米と酒に喩えて説明したのが悪かったと思うので・・・。 「ヘンテコ芸術」というのはですね、食べ物に喩えれば「シュールストレミング」「キャビック」のような超強烈な発酵食品なんですよ。 「シュールストレミング」というのはスウェーデンの缶詰でいわしの缶詰を缶詰内でどんどん発酵させて、発酵ガスでパンパンに膨れ上がったころが食べごろ、という食物です。その昔、フジテレビの名物番組”なるほど!ザ・ワールド”で紹介してフジテレビスタジオで開封したところ、あまりの臭いにしばらくスタジオが使用不能になったといういわく付の缶詰です。 「キャビック」というのはエスキモーの発酵食品でアザラシを狩り腹を割き内臓を取り出して、その腹の中に海鳥を詰め込んで地中に埋めて発酵させた食品です。埋めて数年経過した後に掘り出して、アザラシの腹から発酵してどろどろになった海鳥を取り出して、海鳥の肛門に口をつけてどろどろになった内臓を、ジュルジュルと吸い込んで食べる(飲む?)というホラー映画も真っ青のおぞましい発酵食品です。 このように地球上にはおおよそ常人では理解しがたい強烈な発酵食品が存在しますが、そのおいしさを知っている人々にとっては、これ以上ない”乙な食べ物”(”乙”であり、あくまでも主食ではない)となります。しかし知らない人は 「あんな食物、人間の食べ物ではない。」 「腐ったものを食う奴の気が知れない」 「あんなもの美味いわけがない」 と、批判することでしょう。 「ヘンテコ芸術」を理解できない人たちが「ヘンテコ芸術」の製作者、評価者を指して 「あんな作品は芸術ではない」 「あんな作品を評価する人の気が知れない」 「理解できないのに理解した振りして評価しているに違いない」 と非難する言葉は、まさに発酵食品愛好者に対する 「あんな食物、人間の食べ物ではない。」 「腐ったものを食う奴の気が知れない」 「あんなもの美味いわけがない。グルメぶって”美味しい”と言ってるだけである。」 という非難と同じなのです。 しかしながら発酵食品愛好者も「キャビック」「シュールストレミング」ばかりを主食にしているわけではありません。彼らだって普通の穀物や肉や魚も食べます。 「ヘンテコ芸術」愛好者だって、人前に出るときはネクタイ・スーツですし、家だって普通の家で、玄関には普通の絵画や奥様が活けた普通の活花が飾ってあることでしょう。 (ごくまれに、服装も、自宅の外観・内装までも「ヘンテコ芸術」にしてしまう楳図かずお氏のような”筋金入り”の方もいらっしゃいますが) 食べ物の中のごく一部が超強烈発酵食品だから、生活の中の芸術・デザインのごく一部が「ヘンテコ芸術」だからアクセントになってちょうど良いんです。 「シュールストレミング」「キャビック」で想像できなければ「納豆嫌いな大阪人」を想像してください。 「納豆みたいに腐ったモン、人間の食い物違うわい!」 「納豆食う奴の気が知れんわい!」 「大阪にはもっと仰山うまいモンありまっせ! 何が悲しゅうて納豆みたいな腐った豆、食わなあかんねん!」 「そんなに納豆好きなら、一日三食、一年365日、納豆食っとれ! アホ! ボケ! カス!」 それを聞いて納豆好きな人たちは思うでしょう。 (ほーら出た、大阪人の大阪至上主義が。 ま、別に納豆嫌いなら無理に好きになってくれなくてもいいけど。 頼んで食べてもらう理由もないし。それに一日三食も納豆食うわけねーだろ!) ほら、「ヘンテコ芸術」を非難している人たちに似ていません? 結局「食わず嫌い」ってことなんですが、別に無理して食べることはないです。だって主食ではないですから。 エスキモーの中にも、シュールストレミング嫌いな人は居るでしょうし、茨城出身者にも納豆嫌いは居るはずです。しかし、それで世の中はうまく回っています。 ただ、理解できるようになると、食べ物の幅、鑑賞の幅は広がってくると思うのです。 >でも、やはり、やりきれないんですよ、これが。 >たんに趣味の次元だからというのではなく、そこに絵の真理があってほしいという願望がそう思わせるのかもしれません。 評価される「ヘンテコ芸術」にも真理はあると思いますよ。超強烈発酵食品の例で言えば、 「発酵しているが、決して腐っているわけではない。 発酵と腐敗は似て非なるものであるが、両者は決して同じではない。 発酵する前には得られなかった”醍醐味”がある。」 ということです。ただ、超強烈発酵食品を理解できない人から見れば 「どう見ても腐ってる。あんなものを食う奴は頭がおかしい」 ってことになるわけですが、もし腐っているなら超強烈発酵食品は市場で流通しません。 芸術で喩えれば 「真理のない芸術ならば誰にも評価されないし、美術館・画廊に飾られることはない。 この作品には真理があるし、それは常識的な技法では生まれ得なかった産物である。 しかし技法が非常識であるからといって芸術作品として破綻はしていない。」 ってことです。幼稚園児の絵や、素人のピカソの真似絵やチンパンジーの描いた絵は、どんなにピカソそっくりでも美術館に飾られることはありません。真理がないからです。ただし美術館にある「ヘンテコ芸術」のどこら辺に真理があるのか、見極めるのに時間がかかるでしょうけど。 とりあえず、あしたの朝、納豆を食べてみては如何でしょうか?(笑) 最後に、私は「ヘンテコ芸術」の真理は理解していませんが、 「仮に食べ物で喩えれば酒や超強烈発酵食品のようなものなんだなあ、と解釈している」 ということをオチにさせていただきます。 ただ、この理屈で自分自身を納得させてからは「ヘンテコ芸術」をあまりヘンテコとは思わず、 「まあ、ああいうのもアリかな? 芸術だし。」 ぐらいに思えるようになりました。
お礼
重ねてのご回答に恐縮しております。 s-endさまのおっしゃること全面的に首肯いたします(理解したものと仮定して)。 「ヘンテコ」といわれ、現代美術の作家はさて、怒るか、名誉と思うか、ちょっと心配です。 芸術珍味説と承りました。 ―珍味はたまに食すから乙なのであって、三食珍味じゃたまりませんよ、と。 ―珍味を「衣食住」という日常から判断しているところに質問者の悲劇と喜劇がある、もっと余裕のある、大人の目で現代美術を眺めてあげなさいよ、と。 ―納豆の味の上中下の評価は、あなた、納豆を食べているということが大前提じゃないですか、と。 ―納豆を食べる人(A)が「この納豆はまずい」と言うことは(仮に)許されるとします。このとき、(その納豆をおいしく食べる)Bが嫌な顔をして「新納豆」という範疇をつくるとします(結果として「まずい」という語は封じられる)。このときAは自分の食べない「新納豆」に評価を下せないということになり、以下同様となり、世の中には「まずい」という語はなくなり「わからない(評価できない)」だけになってしまうような心配がちょっとあります。 それにしても回答者さまの結語にもありますように、わたしも現代美術を「ヘンテコ」とは思ってなく(いや、思っているか、やはり)、いわば芸術鑑賞の規準になにか明確なものを求めていたのだと思います。 評価などはのちの世の人が決めるものです。……ですが、もう21世紀ですから、もうちょっと「かちっ」とした何かがあってもいいのでは。 そろそろ、これはいい、あれはやはりあだ花だった、という結論が出てもですね、としつこくなってきましたのでこの辺で失礼します。 小窓のようなところに書き込んでいますので論旨みだれたままの点もお詫びいたします。 ありがとうございました。
- neue_haas
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私も現代美術と呼ばれている作品を見ると 同じような事を感じます。 たとえば、 アインシュタインの相対性理論とポロック、 ヴィトゲンシュタインの論理哲学論考とステラ、 そんなふうに、同じ時代の一人の人間の 一つの表現として並べてみたときに、 ポロックやステラの作品が色あせて感じます。 安井曾太郎や、福井亮之助の作品は アインシュタインの定理と並べても そんな風には感じません。 現代美術が、概念の操作や知的活動の象徴化に その軸足があるというなら、 数学者や哲学者の方が遥かに本質的だと感じます。 現代美術作家のほとんどが自分の作品では 生活するだけの収入を得る事が出来ません。 ほとんどの場合、社会的な立場も高くはない。 それは、美術館システムや世間の民度といった問題ではなく それだけのインパクトが 現代美術には無かったからだと思います。 その一方で、 質問者さんのあげられた作家は、 どれもかなり古い方々です。 今現在、現代美術作家として活動している人たちの中に 質問者さんと同じ疑問を持っている人は かなりたくさんいるのでは? 現代美術の素晴らしいところは サロンや画壇、パトロンの趣味や 文化的な情報格差やタブーといった制約から 比較的開放されていて、 個人としてギャラリーや美術館というメディアを使って 自分の表現を発表することが、 社会的に許されていることだと思います。 現代美術は世の中の動きにあわせて 変化していくことができるし、 そういった変化する運動を 現代美術と呼ぶのではないでしょうか。 しかし、見る側が現代美術は つまらないと思い込んでいるために なかなか変化できない。 そういう見方もあると思います。 私は、これまでの現代美術よりも これからの現代美術に期待したいと思っています。 観客の側にそういう意識の人が増えれば 現代美術もそのように変わっていくのではないでしょうか。
お礼
貴重なご意見ありがとうございます。 同じような印象をもつとのこと、要注意です(笑)。 アインシュタインやウィトゲンシュタインとポロックやフランク・ステラを比べるのはかわいそうです……(どちらにとって?) もう二十数年まえ、ステラの絵の値段が下がったときいて、内心そりゃそうだろう、それがまともというものだなどと、罰当たりなことを考えていた自分を懺悔します(笑)。池袋にあった美術館はだいぶステラの絵を買い込んでいたのではないかしら(お気の毒に)。当時(バブルのころ)「ステラ」という語の響きには今では考えられない重々しさがあったのです。ステラを買って自宅の壁にかけておく金持ちが憎たらしかっただけかもしれません。 昨年、箱根の彫刻の森美術館をはじめて訪ねましたが、現代作家のものほど楽しめたのは意外なことでした。山あいに、無造作に置かれた金属の塊は、それは半端じゃない迫力に満ちていましたが、それをどう説明したものかとなると自分の非力さがいやになります。 世の美術の専門化といわれる人は、あまりにも美術ばかで(すみません、いい意味でです)、哲学や科学(光学)などろくすっぽ知りもしないのに、生かじりした知識で帳尻を合わしているだけだから(だれとは言いませんが)、こちらの素朴な懐疑がいつまでも晴れないのです。時代の流れがこうで、美術の流れもこうで、なんて話は聞き飽きました(笑)、そんな安っぽい口上で、あなた、客がつくほど世の中甘かないっての(寅さんの口調で)。 美術史家でほんとうに哲学(論理学)や集合論が分かっているなあと思えるような人は寡聞にして知りません。愚痴になってきてすみません。 こうしたことと現代美術がほんとうに同時代のものというならば、です。 球面上の三角形を無限に大きくしていくと内角の和が零に近づいていくように、なにか知覚を超えるものへの感覚(センス)を研ぎ澄ますことが求められているのかもしれません。 「4個の球を2個と2個に分け、それをふたたび寄せ集め、ふたたび分け、等する人は、われわれに何を見せているのか。かれはある相貌を、またこの相貌の典型的な変化を、見せているのだ」(ウィトゲンシュタイン『数学の基礎』第1部78節)。
- kouun-takamura
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現代美術といいましても色々あります。 ワイエスさんの絵なんて、人物や建物が描かれていて写実的に見えるのですが、メインのもの意外は凄く抽象的に単純化されていたりもします。 抽象的な現代美術についてですが、ピカソなどの現実にあるものを抽象化したものと、ポロックのようなパフォーマンスも含むもの、あるいは現実の何をモデルにしたものでもない抽象芸術。こういうものは分けて考えたほうがわかりやすいです。 19世紀の終わりくらいに写真技術が実用的になり、絵画の役割が変わってきたというか、宙ぶらりんになっちゃいました。 このころから、それまでの西洋絵画の写実表現ではない、新しい表現を模索するようになります。 そして、心理学や科学や民俗学や哲学などと連動して芸術が動いていくことになります。単純に綺麗とか本物そっくりとか、そういう基準ではなくなってきます。 モネやルノアールの絵はどう思いますか?見たものを抽象化して描いています。 スーラは色を並べて置けば人間の目(脳)の中で混色されるという科学的な知識を利用して絵を描きました。 ゴッホやゴーギャンの絵はどうですか? セザンヌの絵は眼を背けますか? 幼稚園や小学校低学年の子供の絵の展示は見たことありますか? 現実にはありえない形なんだけど、迫力あったり元気さが伝わる絵がありますよね。スケルトン描法といって建物を透かして中が見えるように描いたり、展開描法といって箱を展開したようにテープルに座る人を上から見た視点で描いたりするのは、幼児の絵の特長です。また、大事なものを大きくはっきりと、興味ないものは小さかったり描かなかったり。 こういう人間の原始的なモノの理解の仕方に注目していくのがピカソの時代の画家さんです。ピカソはアフリカの原始的な雰囲気の美術や幼児の作品などに影響を受けています。 最初からそういう抽象画だったわけではなく、写実的なものからだんだん抽象的になり、時代ごとにさまざまな描き方をするのがピカソの特徴です。 20世紀になってきますと、絵に対して疑問を提示するという運動も起こってきます。 ピカソの時代の作家の思想を継承しつつも、それを乗り越えようとしていくのです。 心理学の無意識の概念も絵画に大きな影響を与えます。 美しさを否定する動きもありました。 そんなこんなで、思想運動みたいなことになっちゃう現代美術は、作品を見ただけでは理解できないこ難しいモノになっちゃいます。 mesenfantsさんのパソコン画面の壁紙はどういうものを使っていますか? 最初に設定されていた風景のままですか? パソコンの壁紙の中には、抽象的なものが沢山あります。 単純な模様が繰り返されるものや、画面全体を色や線が大きな動きで変化しているものなどです。 こういうデザインとか模様として観ると、いままで拒否感を持っていた絵も違った目で見られるかもしれません。 >建物をラップしてどこがいいのでしょう 私は本物を見たことが無いのですが、本物見るとたぶん凄いんだと思います。 普段見慣れているはずのものが、布で覆うという単純な行為を経ることにより、まったく別物に見える。布で覆われた途端にそれは建物ではなく、白い大きい何か、になっちゃうわけです。 風景そのものに手を加える作業ともいえます。 あと、単純に“巨大”ということに人間は感動します。 冷静に考えると、仏様を大きくして何が面白いんだ良いのだ、と思っちゃうわけですが、奈良の大仏を目の前にするとやはりあの迫力はすごいです。大きいというだけで、モノに別の意味が加わるのです。 先に、美術は哲学と結びついたと書きました。 現代美術の重要なテーマで、既成概念を問い直すというテーマがあります。 普段の思い込みや、常識を、一度立ち止まって考え直してみるということです。 自分の子供が描いた絵だって、立派な額縁に入れて、有名な美術館に展示し、10億円という値を表示すれば、その絵の実際の価値ではなく、その作り上げられた価値を信じ込んでしまう人が多く出るでしょう。 こういう皮肉めいた行為も現代美術の世界には多くあります。(便器を美術館に展示したり) 建物をラップするような大きなプロジェクトを伴う現代美術は、業界内の思想遊びから脱却するべく、市民を巻き込んでお祭り的に楽しんでしまおうという動きの現れです。 現代美術といっても、いろいろな種類があるので、見方もひとつではありません。 最近の現代美術は小手先の奇異な目新しさに頼りすぎのような気もしますが、20世紀の現代美術は、われわれの身近なデザインの世界やマスコミの映像表現などに大きな影響を与えていると思います。 長文乱文しつれいしました。
お礼
真摯なお言葉に感謝いたします。 よくよく熟慮反省すべきご指摘について、こんご時間をかけて理解すべく努めます。 ここは質問者として、できうるかぎり正直な気持ちを少し述べてお礼にかえます。 わたしの目は、たぶん狭すぎるのかもしれません。どこかで不寛容であることが美徳であるかのように錯覚しているかも。 モネやルノワールについて、正直に申しますと、感動しません(という割には常設コーナーで何度みたことか)。 「睡蓮」も「そんなものか」というのが正直な感想です。広重の版画のまえは素通りできないのに……。睡蓮には色彩の探求はあっても(日本にあるものはちょっと色あせているようですが)、そこに人間がいないからだというふうに自己説得しております。「日傘の女」に惹かれるのは色彩論ではなく、そこに人間の肉体が存在するからこそのなのでしょう。やはり、みたいものしか見ることはできないのか。 ピカソやモディリアーニはアフリカの「民芸品」に影響された時期があって、というふうに言われますが、私はつい「そんな解説をなぜしなくはいけないのか、解説されねば分からない半人前の作品なのか、それくらいならいっそアフリカの仮面を見ればいいじゃないか」とひねくれたことを考えてしまいます。当時の当地での「衝撃性」はすっかり忘れて。(ピカソが憎くて言ってるのではなく、ひとつの典型としてです) ステラを見る→根津にある光琳の「かきつばた」のほうがずっと気が利いてらあなどとぞろへそ曲がりな(島国根性丸出しな)考えが頭をもたげてきます。絵(写実)から離れ、抽象画にかぎりなく近づいた写真に魅力を覚えるのは不思議です。 いや、ステラやポロックやモリス・ルイスやモリツキーやアンソンー・カロの「すごさ」は、わたしの視野にはけっして入らないようなところにあるはずなんです。それが何か、その糸口が見つかればと思っての質問だったのでした。それをもっと過激で根底的で説得力あふるる仕方で理解したかったのでしょう。絵や視覚(の絶対性)の解体期にあって、これは見ることの再構築であるというふうなお話を期待しているだけかもしれませんが。 「五感の形成はこれまでの全世界史の労作である」とはマルクスの大げさな言いぐさですが、見るという単純な行ないをもう少し自己分析してみます。 ありがとうございました。
- s_end
- ベストアンサー率41% (176/425)
個人的な解釈ではありますが、参考意見として回答させていただきます。 貴殿が疑問に思われること、私も以前は同様に思っておりました。 「ピカソのあの落書きみたいな絵のどこが良いんだ? 正確なデッサン画のほうが良いじゃないか」 「北野武の映画のどこが面白いんだ? 大衆娯楽映画のほうが老若男女に受けるじゃないか」 「奇妙奇天烈な服ばかり発表するファッションショーのどこが優れたデザインなんだ? イトーヨーカドーで売ってる服のほうが余程実用的で魅力的じゃないか」 とね。 「前衛的な芸術作品」とは、その前段階の実用重視の芸術を経た上でそれらを飛び越えて生まれた芸術なのだと思います。作者も、鑑賞者もそれを理解したうえで製作、鑑賞することが必要だと思います。 まったく別のものにたとえてみましょう。 人間が農作物を作ります。米、麦、芋、果実などです。 これらは生のまま、あるいは簡単な煮炊きをすれば、子供からお年寄りまで誰でも食せる食物になります。 ところが、これらを発酵させると酒に変わります。米は清酒に、麦は焼酎、あるいはビールに、果実は果実酒(ワインなど)になります。 するとまったく別次元の食物になります。空腹を満たすための食物ではなく、酩酊という特殊な快楽を満たすための特殊な食物に大変身します。 しかし残念なことに、この発酵という過程を経た食物はそれを受け付ける(消化できる)人を選びます。子供には与えられません。また大人でも受け付けない人が出てきます。しかしながらそのデメリットを考慮してもなお余りある「酩酊」という快楽に魅力があるために、人は酒を作ることをやめません。 ただしもうひとつ、大事な点があります。発酵と腐敗は似て非なるものです。闇雲に微生物を発生させても失敗すれば腐敗になります。もうこうなるとどんな人も食べることができません。 また、いくら酩酊に魅力があるからといって、作られた作物を全てそれにまわすことはできません。あくまで主食として確保した以上に余剰作物があった場合のみ、酒を造ることができます。農水省が 「今年は収穫した米で全部酒を造ってしまったから、向こう一年、ご飯はありません。国民の皆様、お酒で我慢してください。」 なんて発表したら困りますからね。 ヨーグルト、味噌、納豆、塩辛などの発酵食品も同様のことです。発酵させるとそれまでの食物とまったく別次元の食物に大変身するのです。 ヘンテコ芸術作品もこれと同じことです。 緻密なデッサン画や大衆娯楽映画や実用おしゃれ服は老若男女の誰でも楽しめます。 それに対して前衛的な芸術は鑑賞できる人を選びます。しかしそれはあくまでその前段階の芸術を理解、製作、鑑賞できる能力を持った上でのことです。また全ての芸術作品が前衛的な芸術に置き換わることはありえないでしょう。身の回りのありとあらゆるデザインが前衛的なものに置き換わったら疲れてしまいます。(ま、職場のOLの制服が、「おっぱい見えそうな前衛的なデザイン」になったらウレシイでしょうが) 食べ物が全て発酵食品や酒になっても空腹を満たすことはできないでしょう。酩酊という快楽は、あくまで満腹という快楽が満たされた上で求めるものですから。 また幼稚園の子供がピカソと同じような落書きをしてもそれは(親以外の人には)芸術にはなりえませんし、芸術を学んでいない一般人がいきなりピカソの絵を真似ても同じです。前述の例に当てれば発酵でなくただの腐敗です。 動物番組で動物園のゾウやチンパンジーが絵を描く芸を紹介していましたが、あれだって人間の絵以上の値が付くことはないでしょう。デッサンも理解していない動物の描いた絵には「動物の芸」以上の価値はないのですから。 「前衛的な芸術のどこが面白いのか? わかるように説明して!」といわれても言われたほうもおそらく困ると思います。だからといって理解もできていないのに評価しているとは思いません。まあ、無理に説明しようとするなら 「子供のころ試しに飲んでみた酒はマズかった。しかし大人になった今は、こんなに美味いものはない、と思えるようになった。 どこがどう美味いと聞かれても難しいのだが・・・ まあ、君も飲んでいるうちに美味いと思えるようになるよ。」 といったところでしょうか? しかしながら誰も彼もが芸術品を投機対象にしていたバブル期の成金親父なら、子供の落書きを「ピカソの未発表作品です」といわれたら億の金を出すかもしれません。まあ、それは理解して金を出しているのではなくただだまされている、ってことですね。 もうひとつ別なたとえをするなら、 「深夜にTV放送している放送コードぎりぎりのお笑い番組はとても面白い。しかし家族でTVを見ているゴールデンタイムにそんな放送をされると困ってしまう。ゴールデンタイムには家族で楽しめる”安全なお笑い番組”を、深夜にはコアなお笑いファンだけが楽しめる”きわどいお笑い番組”を流してもらいたい」 というようなものでしょうか?
お礼
長文のご回答ありがとうございます。 いろいろな例をあげてくださって恐縮です。 北野たけし監督も最新ファッションショーも私にとってはため息のでるほど素晴らしいですが(笑)、テレビのお笑い番組で笑ったことはほとんどありません。へたな芸人がひたすら笑いをとろうと涙ぐましい努力が見えてかえってしらけてしまいます。毒まむしと談志師匠と陳平くらいですかね、笑えるのは。高田純次は、本物になるには、もう少し修行が必要でしょう。(かってなこといってすみません) 芸術余剰論として受け取りました。「酒」の味は大人になって(食う心配がなくなって)から、わかるもの。分かる絵が底辺に十分あって、分からない絵が風流人のために少量流通しているというイメージでしょうか。 ふと「飢えた子供にとって文学は可能か」というサルトルの文句を思い出しました。おもえば、ずいぶん高慢な問いで、ほとんどナンセンスといってもいいかもしれません。ほんとうに真面目に考えてこんなこといっていたんでしょうかね。「飢えた子には食糧でしょう」に。 「飢えた子」にとって現代美術が可能か、わたしの問いも、これに近いものがあったのかもしれない。わかるひとにはわかる。それでいいではないか。何をお嘆きなさる。そうもおもいます。 でも、やはり、やりきれないんですよ、これが。 たんに趣味の次元だからというのではなく、そこに絵の真理があってほしいという願望がそう思わせるのかもしれません。
だれにでも素晴らしくあらねばならないことはないんじゃないですかねぇ・・・。 たとえば・・・書道ですが、全然読めないように崩して書いてる書もあります が、学があると読めますし、やっている人はよしあしがわかるそうです。 (私は学がないので漢詩なんてあんまり知らないし、崩されても読めません) でも私達日本人(東洋人って言ったほうが良いか)なんかは書に関して たいして知識はなくっても、どこがいいんだ?なんてそんないわない でしょ?権威あるものだしその道の人はそれなりに尊敬されてますよね。 古い書には何百万って値段付くし。 海外だと書道はアクションペインティングみたいにとらえられている ようですよ。書く(描く?)という行為と表現することと意味を内包 して融合しているかららしいですが。 でもなんの予備知識もなかったらなんだコレ?っていうんじゃない でしょうか。コレが何万ドル?アタマオカシイダロ・・・って思われて いるかも。 現代美術はいつの頃からかタブロー上のものよりもその後ろにある 情報のほうが重要になってきていますね。絵に驚嘆するというより 情報を味わっているようなそんな様な感じです。 つまりヲタク的な世界なんだと思いますよ。全部とは言わないですけ どね。フランスでヲタク文化が受け入れられているなのはなんか皮肉 ですねぇ。ヲタを前面に出してある現代作家もいたっけ。 ただピカソやブラックやファン・グリスのキュビズムやポロックの 良さはなんとなくですがわたしは感じることは出来ます。 まさに書の勢いだとか墨の色だとか滲みのなかの要素に似ています。 抽象とはそういう要素を探す楽しさはありますね。 意味や具体的な形がわからなくても私達は良さを感じようとしている はずですなんです。カーテンや壁紙やTシャツの柄を吟味している感覚 や、いい形の石ころを選ぶのが出来るのはまさにそれ。 (そういえば、ポロックと書道とインディアンの砂絵を比較して いた解説していた批評があったような・・・。) でもわからないで一向に構わないと思いますねぇ美術ヲタクがまた意味 わかんねえことほざいてるなぁw なくらいで全然かまわないと私は思います。
お礼
ありがとうごさいます。 さいごのお言葉には正直感銘を受けました。 書のよさには、別に文句はありません(笑)。石川先生の「エクリチュール」理論は全面的に同意いたします(笑)。ほんと、敷居の高いウナックの「井上有一」展にわざわざいったこともありますから(スノッブ根性からだったかもしれませんが)。 「背後の情報」っていうやつが何なのよ、です。 絵は所詮売れてなんぼのものなんでしょうけど、それを知的に分かるだの分からないだのいってるほうが野暮なのかもしれません。 でも、ご存じのとおり、いくら偉い先生の絵でもつまらない絵は高い値がつかないのも現実です。もすこし吟味できないものですか。くだらない絵はくだらないと。 「美術ヲタクがまた意味わかんねえことほざいてるなぁ」 これでいい、とは名言ですね。ほんと、めにあまります、そういう言説が多い、多すぎです。それをありがたがる言説も。なんで作家のやりたい放題を「分かってあげなくてはならないの」です。「分かる必要もないのだ」という視点をもつ美術本はなぜないのか、というのが私のそもそもの疑念だったんです。
芸術や娯楽は、脳を刺激して、テンションを上げる物と、脳を休ませて、心を癒す物に、分類できる見たいです。脳を刺激するものは、現代絵画、現代音楽のように、不調和、不協和音を強調します。これは脳の自我意識の、欲求に答えてるので、自我が強くなります。だから自然を排除して、人工的な物になります。理由は、脳と自我と、自然は、対立してるからです。他方、脳を休ませて、心を癒す物は、自然の無我意識の欲求に答えています。調和、協和音が強調されます。自然の情緒が多くなり、心が癒され、無我を体験出来ます。日本の伝統絵画、文化のすべてがこれです。
お礼
ありがとうございます。 「脳と自我」との切り口には恐れ入りました。 養老先生の唯脳論を思い出しました。 この理論でいけば、「脳の自我意識」が「自然」と化している人には「現代絵画(音楽)」こそが(「テンションを上げる」どころか)「癒し」であり「無我」の境地であるということになりそうですね。 そこまで人の脳は「(脳自体のもつい)身体性」を還元しうるものでしょうか。 わたしが現代美術から逃げだしたいと思ったわけが少しわかるような気もします。
お礼
率直なご意見ありがとうございます。 愚直な質問でほんとうに恐縮です。 自分のなかにないものは、感じとりようがないとは、まことに厳しい真理で、おっしゃるとおりです。 (怒られやしないかと心配でしたが、そこはこの場のいいところ、図々しくも本音を言わせていただきました)。 いや、あの、ポロックの(いくつか)は、表面に漂うあのなんとも言えない「叙情」とも「エレジー」ともいえない感じは(複製からも)わかるのです。それがかけがえのないことであることも。でも、わたしはどうも考えが俗で、何と比較して、何が規準で、「素晴らしい」のか、「そんなに、騒ぎ立てるほどのものなのか」、「よさ」の度合いが分からないのだと思います。そこで「公共美術館が税金で買う価値はあるのか」などとけちなことまで考えてしまいます。 もうひとつ言わせていただければ、やはり、絵としての普遍性が狭いというか、絵としての生命の時間が短いというか、(それのどこが悪いのかとおしかりを受けてしまいそうですが)、現物の前に立つということにぞっとするものがあるというか。 ピカソに戦争画があります。あそこに戦争の悲惨さが描かれているとはとうてい思えません。絵でそんな振る舞いをするのはそもそもおかしかなことです。ピカソはただ描きたくて描いただけなのかもしれません。それがどう利用されどう理解されていくかには頓着なく。あの絵を見て戦争はよくないんだという感想をもつひとは、ふだん何を考えているんだと言いたい。ピカソはどんなつもりであんな絵を描いたんでしょう。そうとう大ざっぱな感覚のひとだとうことは分かります。また愚痴になってきました。