• ベストアンサー

「無」の境地

こんにちは。 「無」の境地に至ってしまうと「感動」することもなくなってしまうのでしょうか? もしそうならばとても悲しく・不幸なことのような気が致します。 悟りを開くと悪いことだけでなく、良いことも失われてしまうような気が致します。

質問者が選んだベストアンサー

  • ベストアンサー
  • mmky
  • ベストアンサー率28% (681/2420)
回答No.2

>>悲しんだりすることが無くならないのなら悟る意味が無いような気が致します. 迷って悲しんでいるあなたを背負って悲しんでいる仏がいるということなんです。あなたの悲しみは仏の悲しみ。あなたの喜びは仏の喜び・・なんです。その仏の心の一部である私を発見することが悟りということなんですね。 だから、無は本当の悟りではないですね。無というのは何にも無いということですからね。無を何かあるという意味の空と置き換えて真空という段階がありますが、その心境は寂静ですから感動などはないのですね。その先に真空妙有という悟りがあり、ここは喜びだけの世界だけですね。それを更に超えると仏の悟り、全てのものを背負った仏の心が見えてくるのですね。いろんな段階がありますが、本当の悟りとはあなた自身が仏の一部であるということに気づくことですから、あなた自身に喜びも悲しみもあるのですから当然、悟りたるものにも喜びも悲しみもあるのですね。 ちょっと難しいかもしれませんので、例を挙げれば、あなたが子供の親になれば、子の喜びや悲しみは親の喜びでありまた悲しみでもあることがわかるでしょう。あなたは誰かの子であり同時に誰かの親にもなれる。と同じことで子供がさかのぼって最初の親の気持ちを理解することが悟りと思えば良いと思いますよ。 悟りの道は万人に開かれてますからね。

Falenopsis
質問者

お礼

ひとえに悟りと言ってもいろいろあるのですね。 丁寧なご回答、ありがとうございました。

その他の回答 (4)

  • reki4649
  • ベストアンサー率21% (116/539)
回答No.5

ちょっと乱暴な言い方ですが 仏教などの無とか空は「何も無い」ではなく「何も欠ける所が無い」状態だと 考えるとわかりやすいです。 感動とはジグソーパズルのピースが一つ一つがはまっていく状態と考えれば すべてがはまりきって絵が完成した状態が悟りです。 満足の最上級ですから悲しみも不幸もありません。 悲しみは何かが欠けている と思うから悲しく不幸なのです。 感動や幸福は欠けた物が得られた と思うから幸福なのです。 全部最初から持っていると気づけば悲しみも感動もありません。 飢えるから食べ物を食べたときに感動する。 飢えれば飢えるほど食べたときの感動は大きい。 (空腹は最高の調味料といいます) でも、飢えなければ 常に満足感の中で暮らす人は感動も無い代わりに 飢えと言う悲しみもなくなる。 安定したニュートラルな状態が続きます。 うまくいえませんでしたが私の現在の理解ではこういう風に考えています。

Falenopsis
質問者

お礼

食べたときに感動したいので、少しお腹を空かせておきます。 ご回答、ありがとうございました。

noname#117439
noname#117439
回答No.4

以前わたしが備忘録として描いた作文です。 そのまま使い回しですがご容赦ください。 私は頭を真っ白にして何も考えない状態になれる特技があります。 呼吸を意識して止めるのと同じように、考えるのをやめることができるんです。 この特技があると、心がまっさらで白紙の状態から、偏見や先入観の類もなく裁判官が判決を下すような公平さで、バランスよく判断したり考えたりできます。 したがって自分で言うのもなんですが知恵者です。 宗教的に「無」とされる悟りの境地の、何らかの片鱗が判る訳ですが、自然体のままで頭が真っ白な無心の状態を継続させると、自らが存在するただそれだけのことに喜びと安らぎを感じるような心地よさがこみ上げてきます。 「無」といいながらも我は「有る」なんです。 そのような存在する無の感覚とは、仏教を少し調べてみまして、お釈迦様の言ったらしい言葉を解釈するならば、無いものについては無いとはっきりと理解して、探すのをやめる、求めるのおやめる、実はあるのではないかと疑うのおやめる、そのような感じの無の確定により、むしろ自らの存在が浮き彫りになる感覚なり考え方を、お釈迦様が当時のインドの宗教文化に基づいて、当時のインド社会に判りやすいような言い回しで、まづは、無を知りなさいと、思考過程を説明したのが御釈迦様の教えであるように考えます。 したがって仏教の本来の姿は信仰で無く哲学です。

Falenopsis
質問者

お礼

哲学ってむずかしいですね。 哲学って「答え」出ましたでしょうか? ありがとうございました。

noname#100496
noname#100496
回答No.3

無というのは、宇宙のチャンネルの切り替えの事です。宇宙は、不調和世界の脳の自我と、調和世界の自然の心、神の心の無我で出来ています。悟りは、脳が休むので、脳の立場から見ると無になりますが、替わりに、自然の心、神の心と交流するので、心が癒され、天国に入るような楽しい気持ちになり、子供のように無我になるので、いろんな事に興味がわき、人生が楽しくなります。脳の自我の自己表現なんか不調和世界ですからストレスばかりです。あなたも脳を休めて脳を無にして、不調和世界から調和世界へ、チャンネルを切り替える事です。2012年は、人類は脳を自我を分離して、調和世界へ帰ります。

Falenopsis
質問者

お礼

アドバイス、ありがとうございます。 「2012年」すぐですね。

回答No.1

感動はしますよ。 感動したり喜んだり悲しんだりする自己はなくなりません。 ただその自己に対する執着がなくなるので、 自分に振り回されることはなくなります。

Falenopsis
質問者

お礼

悲しんだりすることが無くならないのなら悟る意味が無いような気が致します。 お早い回答、ありがとうございました。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう