柄谷行人の「埴谷雄高とカント」とは?

このQ&Aのポイント
  • 柄谷行人が埴谷雄高とカントについて論じています。
  • 埴谷雄高が共産主義を放棄しながらもその意義を保持したということです。
  • 構成的理念と統整的理念の相違を理解することが重要です。
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柄谷行人の「埴谷雄高とカント」について

http://www.criticalspace.org/special/karatani/gunzo9704.html 上のURLで柄谷が言っている、 「埴谷雄高がカントに出会ったのは、転向においてである。転向とは共産主義という理念を放棄することだ。しかし、その意味では、埴谷は転向したと同時に、転向しなかった。つまり、彼は共産主義を構成的理念として放棄したが、統整的理念として保持したのである。」 とはどういうことでしょうか? 全文を読んでみてもイマイチ構成的理念と統整的理念の相違と意味が分かりません。 この二つの理念の意味を分かりやすく示した上で、転向したと同時に転向しなかった、の意味を教えていただけないでしょうか?

noname#3752
noname#3752

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  • neil_2112
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回答No.1

「構成的理念」の構成とは、世界を構成する、というニュアンスです。構築という言葉を使ってもよいでしょう。つまり、それを基盤的な信条や論理としてまるまる一つの世界が新しく構想され得るような理念を「構成的理念」と呼んでいるわけです。 仮に世界を家に譬えれば、その中では誰もが平等かつ自由に暮らせるような運営システムも含めて大きな家を新たに建てようと考える、その構想の原動力となるような理念のことだ、といってもいいでしょう。 柄谷氏も本文で批判しているように、このような構成的理念は現実との接点を失ったロマン主義に陥りやすい点が問題視されます。そのような家を建てるとすれば、どこにどうやって建てるのか、そのコストはどう捻出するのか、そもそも運営は可能なのか…といった現実の具体的な問題よりも、「みんなが住み良い家を作るべし」という理念が先行し、さらにはその理念のためには犠牲も厭わない、といった顛倒が生まれてしまいがちです。 柄谷氏は、埴谷雄高がこのような「構成的理念」である共産主義を放棄した(転向した)ことは、本質的に重要ではないと考えていて、逆にむしろ彼がそうしたことによって、「統整的理念」としての共産主義は保持した、と考えているのです。 わかりにくいところですが、まず統整的理念というのは、同じパラグラフに説明されているように、「実現されることはない」もので、「絶えず現在あるものを批判しそこに導く」機能を果たすものだとされます。先の譬えで言えば、現実を無視した設計図や運営方針を掲げるのでなく、現実を常に軌道修正して理念に至らせようとする飽くなき営みがそれにあたるということでしょう。こちらの場合に人を動かす動因となるのは「理想」ではなく人々の中の「倫理」といったものになります。 当該文章だけでははっきりしないのですが、柄谷氏の含意は、このような「統整的理念」の立場こそが本来の共産主義に合致するものであり、表面的には「転向」として道徳的に指弾された立場の埴谷の態度も、逆に正当なものだとさえ言い得る、ということにあると思います。別の言葉で言えば、埴谷はいわゆるマルクス“主義”は捨てたが、マルクスの理念は保持したのだ、と言いたいのでしょう。 このことと、そのきっかけにカントが語られていることは少し補足する必要があります。 まず、この「統整的理念」が「超越論的仮象」とも記されていることがヒントになります。「超越論的」というのはカントの言葉で、柄谷氏の理解では、その意味は「超越的」とは全く違う意味であることが強調されています。 「超越的」というのはある現実をメタレベルに立って眺める傍観者的な態度のことを指します。いわゆるマルクス主義として理解されたものがこの立場で、現実の外に立って理想を掲げ「資本家が悪い」などと非難の声を上げ、現実の改変を迫るものでした。言うまでもなくその根本にあったのは、歴史が封建制や資本主義を経て社会主義さらに共産主義へと向かうことを歴史の必然、として見る考え方です。 一方の「超越論的」というのは逆に、そのような態度が不可能あるいは不当であるとする立場です。要するに、自分がものを考える際に暗黙かつ無意識に前提としている条件そのものを考えよう、とする哲学的な立場を超越論的と呼んでいるのです。 実際にマルクスが追求しようとしたのは、超越的立場に立つことではありません。むしろ逆に、たとえ個々の資本家が道徳的に善くふるまったとしても資本の担い手である限りにおいて彼らがある立場や行動を強制されてしまうような、そういった関係構造を把握しようとする(=超越論的立場に立つ)ことだったのです(実際に「資本論」の序文で彼は「資本家や土地所有者といった人々も社会的にはやはり関係の所産である」と書いています)。 要するに柄谷氏の理解では、いわゆるマルクス主義として理解されたものは「超越的」立場であり、真のマルクス的なものは「超越論的」な立場にある、と考えるわけで、当然、本来のマルクスの立場はカントと極めて親和性が高いということになります。 例えば柄谷氏は「倫理21」という著作の中で、マルクス本来のコミュニズムはカントの延長として出たもので、そのことは20世紀始めの新カント派はそれを自覚していたが、ロシア革命の成功やレーニン主義の覇権のためにすっかりそれが一掃されてしまった、ということを書いています。 現実にカントは、具体的には独立した小生産者たちの連合する社会を構想していたようです。一方でマルクスが考えたコミュニズムは「自由で平等な生産者の連合社会」で、これは自由な所有者の集合体でしたから、カントのそれとさほど変わりません。 マルクス主義で言えば私有財産の廃棄、国有化、となるわけですが、マルクスの考えでは「個体的所有の再建」であり、その狙いはむしろ国家を廃棄することにウェイトがありました。この消費・生産共同組合のアソシエーションが世界的に拡大して国家に取って代わるのがマルクスのコミュニズムの理想であったわけで、彼本来の観点に立てば旧ソ連のような社会は共産主義ではなくて、単に国家資本主義であったに過ぎない、ということになります。 カントは「他者を手段としてのみならず、同時に目的として扱え」と言ったのですが、柄谷氏にしてみればこれの現実的な形態が、マルクスの考えた賃労働(労働力商品)の廃棄であった、と考え得るのだと思います。 結局、埴谷の転向は、一般的解釈においてはまさに転向なのだが、彼はカント‐マルクスとつながる思想の系譜を正しく理解したのであり、その意味ではむしろ転向していないと言うべきだ、ということになるのでしょう。 ※努力したつもりですが、あまり読みやすくなりませんでした(笑)。参考として主に「倫理21」、補助的に「言葉と悲劇」を参照しました。

noname#3752
質問者

お礼

まず、この質問にこれほどまでに丁寧かつ平明に記してくださったことに感激しています。 私は高校のときに日本近代文学に親しい先生の選択を取っていた縁で浅田、柄谷を入り口とした諸哲学に興味を持ってきましたが、しっかりと触れたことは今までありませんでした。今、少し時間があるのでこの際興味のあるところに触れてみることにした次第で、その一環で質問させていただきました。 今の私にできうる限りの注意をもって読ませていただきましたが、私の知識不足によって咀嚼し切れていないかもしれません。以下に私の読み取ったことを記しておきます。 ・マルクスの本当の狙いは「ソ連」ではなく、カントが先に論じていたような「既にある現実関係」を見つめなおすことを通して「具体性」を伴った 自由で平等な生産者の連合社会を構想することであった。 ・それはとりもなおさず盲目的な理想主義(すなわち歴史上でマルクス主義として理解されたもの)とは一線を画すものである。 ・埴谷はそうした理想(つまり具体性を伴わない机上の理想論であるマルクス主義であり、ロマン主義的なもの)を「想像的なもの」「文学」とみなした上において京都学派と異なり、それを捨て去ること(見かけ上の転向)は確かに行ったが、カント、マルクスが示した真にマルクス的なもの(つまり統制的理念であり超越論的な立場)は保持し続けた。 ・・・というようなことでよろしいでしょうか(汗 書いてるうちにまた分からなくなってきてます。ああ(笑 ここまでしてくださって本当に感謝です。 それでもし暇だったらでよいのですが、私が上で誤って読み取っているところと、「統制的理念」をわかりやすく教えていただけないでしょうか?ああ!あつかましいですね。すいません。 構成的理念、つまり「超越的」がメタ的で現実から乖離した論であることはバッチシ納得いったのですが、 頂いた回答の七番目のパラグラフの >たとえ個々の資本家が道徳的に善くふるまったとしても~ がよく飲み込めておらず後一歩で納得できていないのです・・・。もしよろしかったらでいいのでまたご教授願えないでしょうか。 回答ありがとうございました。

その他の回答 (1)

  • neil_2112
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回答No.2

超越的というのを現実から乖離したと言ってしまうと多少違うニュアンスになるかも知れません。現代思想の言い方のほうがよければ、形而上的といってもいいと思います。自分が属している構造とかシステムだとか歴史とか、そういった一切のものを超越して、全てを一望できるような自由な主体(主観)を想定する態度です。この態度は「普遍」という理念をもたらします。 この主体(主観)を否定したのが構造主義だとされますが、構造主義的な認識からは当然、主体が消えてしまいますし、また倫理も生まれてきません。なぜなら、私たちは自分の存在や意味を(カッコつきの)「歴史」「人間」といったいわゆる「普遍」の中に位置づけたい欲求を持っているもので、往々にしてそこに倫理の(つまり行動につながる)エネルギーの生まれる源泉があるからです。 しかし、超越的な倫理は裏返りやすいもので、ちょうどマルクス“主義”では「人間」や「歴史」という言い方が構成的理念化されて、大変抑圧的な働きをしたわけです。構成的理念はだから、背中合わせになったプラス・マイナスの両方のエネルギーの源泉である、という風に理解できるかもしれません。 柄谷氏は、この双方の危険性にマルクスは自覚的であって、その考え方を表すために「統整的理念」という言葉を用いたのだと思います。統整的理念は、言わば裏返らない倫理を求めることであり、形而上学を実践的なもの、着実なものとして回復しようとする営みだったと言えるのではないでしょうか。 (このあたりがわかりにくいのは、柄谷氏の理解では、マルクスにとってコミュニズムが倫理的問題であったとされることに関係しています。経済的平等や豊かさ、失業問題の解決は福祉国家や社会民主主義でも可能なことで、必ずしもコミュニズムに要請されることではない、社会構造の変革は倫理的な要請にもとづくものである、という認識です。 柄谷氏によればここにおいてマルクスはカントと急接近することになるのですが、氏の解釈するカントの「自由」や「道徳法則」は高尚であるだけでなくなかなか独特なもので、残念ながら正確な理解はわたしの能力の及ぶところではありません) いずれにしても、統整的理念とは(つきつめれば個人の「自由」の次元からもたらされる理念であるとされるのですが)、資本主義を個々人の内なる「倫理」によって、急進的ではなく漸進的に社会を動かす動因となるものである、という風にひとまず理解できるのではないでしょうか。 尚、先の回答に「資本論」序文の例を挙げたことで混乱させたのかも知れませんが、これは、資本家といえども関係の所産として存在するという認識を彼が持っていたということの例として挙げたつもりでした。つまり、現実の問題は歴史的な必然なのだから単に資本家が悪いといって彼らを糾弾して済む問題ではないし、逆にまた個々人の資本家の道徳というレベルにその解消を期待できるものでもない、ということをマルクスが自覚していたことを示すために挙げたものです。

noname#3752
質問者

お礼

>現代思想の言い方のほうがよければ、形而上的といってもいいと思います。 あ、なるほど、形而上から俯瞰するようなニュアンスですね。納得しました。 >「普遍」の中に位置づけたい欲求を持っているもので、往々にしてそこに倫理の(つまり行動につながる)エネルギーの生まれる源泉があるからです。 はい。そしてその倫理は行動のエネルギーの源泉であると同時に、裏返って国家的な「主義」になってしまうと抑圧的になりかえってよくない方向へ行ってしまう可能性もある・・・と。よって構造主義がその批判として現れた、と。わかりました。 >氏の解釈するカントの「自由」や「道徳法則」は高尚であるだけでなくなかなか独特なもの そうですよね。「統整的」という言葉がまず独特ですものね(^^; >資本主義を個々人の内なる「倫理」によって、急進的ではなく漸進的に社会を動かす動因となるものである 漸進的、という言葉でだいぶ明瞭になった気がします。確かに裏返る倫理が変革のうねりになった コミュニズムは急進的で、失敗した。 おかげさまで質問する前に比べて大分イメージがつかめました。 neil_2112さん、この度は二度にわたって非常に丁寧に教えていただき本当にありがとうございました。 非常に興味深かったです。

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