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私とは

queenmsの回答

  • queenms
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回答No.1

教科書にこんなのがのってました 物質の塊としての身体、わたしたちはこれを、もっとも具体的な身体として考えるくせになっているようだが、改めてよく考えてみれば、そういう物質体としての「具体的」な身体をわたしたちはきわめて不完全にしか知覚できない。身体の表面についてはその一部しかじかに見ることはできないし、その一部は触れることもできない。身体の内部はこれは、カメラかなんかの媒体を通してデジタル画像としては見ることもできるだろうが、じかにそれを見たり触れたりすることはまったく不可能だろう。いや、もっと怖い事実がある。他人がわたしをわたしとして認めてくれるときのその顔、それをわたしたちは終生、じかに見ることはできない。自分の顔というのは、それに逐一反応する他人の表情を介して、想像ないしは解釈するしかないものである。だから、自分で見ながら制御することのできない顔をむきだしにしておくのは、きわめて無防備なことだ。それを恐れて、わたしたちは、表情を繕い、化粧をし、たえず鏡を覗き込んで自分の顔を微調整する。・・・・ ・・・・わたしと身体との関係が、わたしが抱く身体のイメージや観念をとおして、もつれたり、かたよったり、硬直したりするのは、身体がわたしにとっては、知覚される物質体であるよりもむしろ、想像されるひとつの<像>であるからだろう。そしてその<像>としてしか近づけないみずからの身体的な存在が、皮膚で包まれた物質体としての身体をあふれでたり、めり込んだりしているからだろう。 自分がそれであるところの身体が自分から遠くへだてられているということ、身体とのぎくしゃくとした関係のすべてはそういうわたしたちの存在条件に因る。――「各人はそれぞれおのれ自身にもっとも遠い者である」(ニーチェ) 鷲田清一「身体、この遠きもの」より。 ちょっと質問者さんのとは答えがずれているかもしれません;; でもこれ読んで私結構「たしかに~」っておもいました。

torash
質問者

お礼

これが初めての質問でまだ、ここのサイトのやり方がわからないのですが…丁寧なご回答ありがとうございました。