他人はどこまで優秀か?
『優秀』という言葉は便宜上つかってるだけで、もともと話題性のない私が話題性を
提供するためにつかった言葉でしかありません。つまり、特に意味はありません。
『自分よりなにかができる他人』
↑具体的にはこれを問題にしてます。
この問題を心理カテで質問すると知能研究や個体差の話に終始
されることが予想されることからそれを回避するために哲学カテにきました。け
というのは、『差異』というのは論理的には無限に小さくなって
しまうからです。
見る人によって『似てる・似てない』がありますよね。
つまり、『類似性』というのは相対的な概念で、何と何が似ているか
という基準に、絶対的・客観的なものがあるわけではない。
そこで、『相対的に観察者が似ていると思い、それを多くの人が似ていると思うのなら、
それは似ていると言っていいだろう』という方法論もあるあるにはある
んですが、
私が問題にしたいのは、『自分よりなにかができる他人』、つまりその『他人』
を問題にしたい。さらに、『なにかができる』という部分を『能力』に
置き換えておきます。
自分よりなにかがデキナイ他人の能力は把握できるが、(※例えば、小学校の教師が生徒の能力を把握できてる感覚など。)
逆に、自分よりなにかがデキル他人の能力は把握できない。(※生徒が教師の能力を把握できないなど。)
他人の能力を把握できているというここでの意味は、あの人ならここからここまでは理解してるだろう
けど、この先からはわかってないだろうというおおまかな検討をつけることが
できるという意味です。
しかし逆に、生徒が教師のそうした面を把握するなどできない。
一般的に、『わからないことはその道の専門家に聞けばいい』と我々は知ってるが、
その専門家が所有してるであろう知識が、どこからどこまでわかっていて、どこから先はこの人は
わからないだろう、という具体的な検討を素人が判断するなど困難です。
こうした事情から、デキが違う他人というものに幻想を抱きがちなのではないかと
危惧してるわけです。(※東大生は頭がいい、学者は専門分野に詳しすぎる、例はたくさんある)
そうした幻想は、権威者の発言を盲信したり鵜呑みにすることに結びつく可能性もありえますし、
自分に他人を評価・批判したりするはどの能力がなければ、
結局は他人に頼るしかない。つまり、主体性がない。
この事態を主体的に打開する智恵は哲学にありますか?