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命より大切なものはあるか

日比野 暉彦(@bragelonne)の回答

回答No.53

 No.45&42&39&31&22&9&6の bragelonne です。  ★ 聖霊のバプテスマを授かった信者が異言を吐くのを何度となく目撃しています。取り憑かれているようにも見え、なんのこったかわかりません。  ☆ 信仰は 無根拠ですから そのひとの内面において 何が起こっているのか 分からないとしなければならないようです。自分の中においても 何が起こっているのか 分からない場合があります。  ――って 何だか 説教師のごとくになってきたのですが ひととおり 行き着くところまで 行ってみます。  ▲ (コリント前書14:2-3) ~~~~~~~~~~~~~~  異言を語る者は 人間に向かってではなく 神に向かって語っているので だれにもわかりません。かれは霊によって神秘を語っているのです。しかし 預言する者は 人間に向かって語っているので 人を向上させ 励まし 慰めます。・・・  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ いづれにしましても 《神秘思想》というのは まだ なくならないように思われます。《観想=テオーリア》から 《理論=テオリ(セオリー)》が得られるように思われるからです。神秘思想を預言する・つまり解釈するという場合が あるかに思われます。  ところが このように個人の主観をあつかっている場合は 異言のごとく 分かりがたいものでも まだ いいのですが この信仰が すでに二人集まったところで 互いの考え方や行動の 或る種の仕方で 規範などになった場合は どうなるのか。集団となり 組織をつくるまでに至るなら どうか。そのように個人の信仰を 複数の人間が寄り集まったところで 宗教として持った場合 その  ★ 彼らの自家撞着をいかに指摘すれば慌てふためくのでしょうか?  ☆ 異言や観想や神秘思想は ということは みなもととしての信仰とはという意味ですが これらは あくまで ひとりの人の主観内面における出来事だといわねばならないと まづは あらためて 思います。  仮りに宣教や伝道をとおして 信仰が つたわったという場合でも それは 人間のことばという仮りの表現に すでにその人の自然本性にそなわった信仰としての心が反応したのであって 宣教者の人間としての力が それを 起こしたのではないと考えます。  もし 人間としての力が 信じることを起こしたとすれば それは 伝える人と伝えられる人との両者の関係において 起こった出来事だと考えられます。どちらか一方によって 起こったとは考えないということです。  伝える人とて 自分から その非思考を受け容れるように 信仰を編み出したわけではなく 代理としてのことば(聖書など)やそもそも世界のありさまに 反応し呼応して こころが動き始めたのだと捉えます。  のちのアブラハムであるアブラムのばあいも ふるさとを去って 行けという仮りの言葉に反応し従っただけなのですから。外から来たにしても それと 中のこころとが呼応したゆえに 信じるは 起こったのだと考えられます。(この意味で 霊によるバプテスマが 普遍的な出来事なのだと思います)。  この信仰が 外に出かけたとすれば どうなるか。それは 自殺行為です。  外に出る場合も 次の条件において あり得ることはあり得ます。信仰の内容を 仮りに ことばで外化する・つまり 表現する・そしてそれは 疎外することにもなるけれども 仮りの表現だという条件が ついている。この条件が 自殺行為でないことを 担保している。  この表現行為という 信仰の仮象を しかしながら 信仰の成否・当否・可不可などを判断する基準とすることは 出来ない。  主観内面に起こる信仰は いわば絶対的に 自由である。良心・信教の自由として 公理とされている。  言いかえると 教義に照らし 組織の規則に照らし 果ては 組織の責任ある地位に就いている者の判断に照らして ひとの信仰のあり方を いかなる形においても 権限にもとづき処分をともなったようなかたちで 批判するのは 人間沙汰ではない。こう考えられます。   * 信仰者の集まりとしては 研究会や広く文化活動あるいは 生活協同組合のような活動として 考えられるかも知れません。でも けっきょくは 信仰の階層などは あり得ないということが まったくふつうのことであるようになると思われます。

pokoperopo
質問者

お礼

やはり信仰は主観的現象にすぎないのでしょうね。確かに異言を吐くのをこの目で見ているのですが、それはおそらくまじないの一種で、私がどっぷり漬かったせいなのかもしれませんね。ありがとうございました。

pokoperopo
質問者

補足

前にも触れましたが日本のキリスト教会では、初詣や焼香を容認することが多いようです。これは妥協して信仰の姦淫を犯すくらいなら殉教さえ勧める聖書の教えに矛盾していませんか?この質問の趣旨と大きな関連があると思います。よろしくお答え願います。

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