• 締切済み

ユダに同情するのは現代特有の考えか

wisemensayの回答

回答No.2

 私の記憶では、新約聖書のマタイができたのが、イエスの死後約50年後で最後のヨハネが完成するまでは、原始キリスト教の時代だったはずです。キリスト教の三位一体の概念が確立したのは、第1ニケア会議だったころなので、それ以前は、ユダについての「裏切り者」としての烙印は押されていなかったと思います。確か、ヨハネでは、ユダについて、厳しいことが書かれていますが、マタイあたりでは、そうではなかった記憶があります。  むしろ、ユダが「裏切り者」とされたのは、中世でしょう。 太宰や遠藤周作のキリスト教理解は、バチカンとはかなりかけ離れています。そのことは、遠藤周作がその著の中で、日本人にあったキリスト教をつくるためと何度も明らかにしています。  近代になり、「神は死んだ」の言のとおり、キリスト教の勢力は落ちてきました。そのような時代になったからこそ、ユダの捉え方に多様性が出てきたと考えています。

bonobonono
質問者

お礼

回答ありがとうございます。 聖書の成り立ちについてはほぼ何も知らないので、ためになります。 中世にユダが「裏切り者」とされたのは、聖書の研究が進んだのではなく、裏切りの代名詞として一般的に使われるようになったということでしょうか? 遠藤周作が「身の丈に合うように」キリスト教を解釈していたのは分かっています。例に挙げた映画と類似点が多かったので、(それに恥ずかしながらこのような主題の他の小説をあまり知らないので)例に出しました。

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