• ベストアンサー
※ ChatGPTを利用し、要約された質問です(原文:形而下の世界での経験を通じて形而上のものごとを知ることは可能ですか?)

形而下の世界での経験を通じて形而上のものごとを知ることは可能ですか?

lightlifeの回答

回答No.6

  形而上学は存在とか絶対者についての学問でり、生の根本構造についての学問です。それは生きている存在なので、我々の生としての精神の経験を還元しながら把握していくことになります。形而上学には原理があります。善のイデア(プラトン)、現実態(アリストテレス)、モナド(ライプニッツ)、自然の合目的性(カント)、自然と理性の同一性(シェリング)、弁証法(ヘーゲル)など、それらは生の原理であり、魂の原理です。違った表現を用いていますが、同一のリアリティーに根差し、共有集合をもっています。つまり我々自身の精神の基本構造に基づいて、目的論的に運動する生の構造を反省的言語で模倣しようとします。   私たちは生きている間にいろいろな経験をしますが、生の目的論的運動の視点から見ると、実はある一定の普遍的な経験をしています。ある一定の運動の中で、善悪の極性の中でのいい経験だったり、嫌な経験だったりします。形而上学はそのような生の経験を自覚化する過程で、いい経験に近づけるヒントを与えてくれるものなのです。そして、生を統合させるような根本的自覚が入ると、絶対者との一体化に近づくわけです。哲学はそれを把握する主体の活用の仕方で生きてくるものです。 ただ現在までの形而上学はまだまだ不完全で、漠然としてしか捉えられないので、もう一歩論理的にならないと実用困難な面があります。形而上学を学ぶ人は生の全体性の統合の相を把握するようにアプローチするとよいでしょう。

参考URL:
http://d.hatena.ne.jp/mk6/

関連するQ&A

  • 哲学の問題です。 有機体論と実証主義です。

    問1 有機体論の特徴として次のうち正しいものを2つ選べ。 (1) 全体は部分の総和でしかない。 (2) 部分の存在が全体に依存するという側面をもつのが有機体である。 (3) ライプニッツはモナドを生きた点として考えた。 (4) ライプニッツは近代科学の原則に従ってモナドも物質的な点と考えた。 (5) 自然界の表面の形は真理ではない。 問2 実証主義の考え方として正しいものを2つ選べ。 (1) コントは、哲学において探求された形而上学的真理は経験科学の相対的な知識にとって代わられるとした。 (2) コントは、実証主義的科学は形而上学的知識に勝てないと言った。 (3) マッハは、時間や空間すら、人間の要素的感覚同士の関数的関係でしかないと言った。 (4) マッハは、われわれの経験は超越論的自我に支えられていると言った。 (5) マッハは、実証主義的科学によって、不動の自然認識が可能となると考えた。 よろしくお願いいたします。

  • 資本主義と社旗主義・右翼と左翼

    頭がこんがらがってきました。どうか私のどこが間違っているのかご指摘ください。 社会主義は左翼だそうですが、私は社会主義者ではありません。じゃあ右翼なのかといえばそうでもありません。保守的に物事を考えても何も変わらないので進歩主義だと思ってました。でも私は資本主義者です。そもそも進歩していくから資本主義だと思ってたのですが私の理屈だと矛盾します。 私は何がまちがっているのか、どうかお助けください・・・

  • 脳の2次元と3次元の処理は同じらしい?/観測とは?

    と、どこかで見かけました。 本当なのでしょうか? 本当ならば、かなり重要だと思うのですが。。。 (カテゴリ脳どこかわからないので、ここで聞いてみます) 本当ならば、アニメーション・漫画・ゲームで、遊んでいる、体感している、5感で。 そんな時に、「実際の現実世界での体感と同じことを経験している」 ということになりますよね? ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ あと、もう1つの質問が、「5感で体感する」というか・・・・・・・・・・ 量子論で、「観測することで物体が現れる」という猫理論?wがありますが、シュレディンガーの猫。 それで、「観測する」って、何ですか???・・・・・ 単純に、目で見るとかあるとは思いますが・・・・・・・・・・・・・・脳で想像する?は違うか。 観測というと・・・5感で、見る・聞く・触る・匂いを嗅ぐ・・・あともう1つ忘れた・・・などを全て駆使して、 人は、「観測している」 のでしょうか? 何かこれって、不思議です。私の幻覚体験とも関係ありそうですが・・・。 よろしくお願いします。

  • 素粒子と明在系と暗在系とパラレルワールドについて

    はじめまして。 最近、物理系の雑学の本を読んでいます。 物理に関する知識が全くないので、何がどう関連しているのかわかりません。 簡単な言葉でご説明を頂けることを望んでおります。 物質の基本構造を明らかにするために、物質をどんどん細分化していくと、その構成要素として素粒子の世界に到達するそうですね? それで、物質は3種の素粒子(陽子、中性子、電子)とそれに作用する4つの力(電磁力、強い力、弱い力、重力)によって成り立っているそうですが、この素粒子について、 実証派は「波または粒子」 実在派は「波と粒子」 いずれにしても素粒子は、波の性質と粒子としての性質を持ち合わせているそうですが、 粒子ということは、実体があるということなんでしょうか? 波ということは、実体がないということなんでしょうか? フォン・ノイマンが「人間の意識が観測した瞬間に波束が収縮する」というような、量子力学の観測問題への見解の一つを述べられたようですが。。。 何らかの物理量の周期的変化が媒体を伝わるときに表われる現象が波だと思っていたのですが、物理量ということはエネルギーと解釈して良いのでしょうか? 水面に石を投じた時、石の落ちた一点を中心に、波形が全体へと一様に伝わっていくものなのかと思っていましたが、波束が収縮するということは、何らかの条件があった時には、波が特異的に集まる(?)ということなのでしょうか? それが、計測方法を変えると粒子が飛んできたように一点に集まって見えてしまうということなんでしょうか? 電子を一個ずつ打ちだして二つのスリットを通し、その先でどの場所に電子が到達したかを検出する実験で。。。 測定器を使って観測しない時は、上のスリットを通った世界と下のスリットを通った世界が同時に存在し、干渉しあう。 測定器を使って観測すると、上のスリットを通って上の測定器に痕跡を残した世界と、下のスリットを通ったので上の測定器に痕跡を残さなかった世界のどちらか一つだけが選択されるそうですが、 この選択された世界が明在系ということでしょうか? 選択されなかった世界が暗在系ということでしょうか? そして、これが、複数の世界が干渉し合いながら存在し、同時進行しているというパラレルワールドなんでしょうか? 話が前後してしまいますが、 波と波動では、定義というか言葉の意味が変わってしまうのでしょうか? 今読んでいる量子論と超弦理論の雑学本には、波という言葉は見かけますが、波動という言葉は見かけません。 でも、波動関数という言葉はあります。 時々、耳にする「波動」という言葉は、物理の教科書にでてくる「波」とは違うものなのでしょうか? 見当違いの質問をしていましたら申し訳ありません。 わかったようで、わからないのです。 なんとも不思議な世界を垣間みてしまったように感じています。 宜しくお願い致します。

  • 信仰するとは固定観念を鵜呑みすること=哲学ではない?

    学問は出来あがった取り決め、公理主義、 同じ性質の規制主義で 反証可能性を有するというものである(仮説)。 宗教が例えば「因果応酬」という概念で 悪意を持って報いることを推奨するのであるなら いつまでも原因が連鎖する結果になるように思います。 哲学が現象が成立するための根拠を探ったり 原因を推測することで解決しようとする姿勢と 宗教教義は逆するのではないかと疑問なのです。 哲学は永遠に推論であるのですよね? つまり知識や理論に執着しないという姿勢だと思います。 無学故の間違いならご指摘下さい。 厳正とされる科学でさえ 既に確立した理論法則の変更をしてきたのですから 宗教も色々ですが、 「固定観念」ではないという証明が出来るのでしょうか? 「固定観念」だから(都合も)良いのでしょうか?

  • 世界は私を中心に回っている。

    世界は私を中心に回っている。 このヨタ話とは、学問カテゴリーでの投稿です。 ネットで人ったネタに下記の文言を興味深くコピペしましたが、研究のためとはいえ、無断転載することをお許しください。 ーーーーーーーーーーーーーーー ポパーに話を戻そう。彼が強調した「反証可能性」という概念は、万人が心に銘記すべきものである。20世紀で最も重要な概念といえるかも知れない。 彼がいうには、科学は反証される可能性を残していなくては科学ではない。地球が太陽の周りを回っているというのは永遠の真理ではなく、今のところ正しいとされているだけのもので、いつかそれが反証される可能性があるからこそ、これを科学と呼ぶことができるというのである。 これを初めて耳にした時、なんでそんなことを言うのかと思ったが、今になってこれはすごい発見だったと思う。多くの人にとって科学とは真実として出来上がっているものなのに、ポパーは科学で重要なのは真実ではなく、真実と思われていることを虚偽として証明する可能性をもつことだと言っているのである。 ーーーーーーーーーー 転載終わり、人によってさまざまな感慨がある事でしょう。 この文中に出ている、地球は太陽の周りを廻っているという常識への挑戦に「それはある」と考えました。 あえて天動説の論考を再開するというのは、観測手法と、観測の立脚点とが絡み、宇宙に対する解明に新たな着想にもなるのですよ。 研究者というのは、どの分野でも変人で、趣味人の類ですから、地球中心主義とでもいう観点から太陽系のモデルを天動説で再計算するという暇つぶしをすると、可能性として研究の目的に面白いこともあるかもしれません。 私が思いつくのは、天体観測単位に関してです。 現在は「光年」という単位が基準だけども、重力の作用とか宇宙に探査機を飛ばすよりも詳細に成果が出ている地球の構造とかを加味して、天文単位に「物理的な測量単位」的な側面をもたらす成果が何か出るかもしれません。 一般から見れば、そんな役に立ちそうもない事を、趣味と暇つぶしで熱心に取り組む変人を研究者と言います。 今回はそんなことを考えて、ネタとして掲示板に投稿しました。 研究や論考のために役に立たない助言をしてください。

  • 《量子力学》人間が観測するまで、粒子はどこにあるの?

    《量子力学》人間が観測するまで、粒子はどこにあるの? wikiより この粒子の位置を正確に測ろうとするほど対象の運動量が正確に測れなくなり、運動量を正確に測ろうとすれば逆に位置があいまいになってしまい、両者の値を同時に完全に正確に測る事は絶対に出来ない。なぜなら、位置をより正確に観測する為にはより正確に「見る」必要があるが、極微の世界でより正確に見る為には、波長の短い光が必要であり、波長の短い光はエネルギーが大きいので観測対象へ与える影響が大きくなる為、観測対象の運動量へ影響を与えてしまうからである。ただし、この種の議論は前述の証明とは異なる種類のものであることには注意されたい。前述の証明は、量子論の性質そのものから導かれる物であり(量子力学の数学的基礎も参照)、測定器の誤差、あるいは測定による反作用とは区別して考えなければならない[1]。これに関する議論は量子測定理論も参照されたい。 もし、粒子の位置と運動量にまったく影響のでない観測方法が確立されたとしても、 それでも、粒子の位置と運動量を同時に正確に測ることは不可能なのでしょうか。 そもそも、人間に観測されていないときの粒子は、どんな状態であるのか、わからない、かつ予測できないのでしょうか。 当方、物理は高校でやったのみです。 よろしくお願いいたします。

  • 懐疑論

      Wikipediaの懐疑主義の項目では、 「懐疑主義ないし懐疑論は、古代から近世にかけて、真の認識をもたらさない破壊的な思想として論難されることが多かった。これは、懐疑主義が、懐疑の結果、普遍性・客観性のある新たな原理・認識が得られなかった場合、判断停止に陥り、不可知論と結びつき、伝統的形而上学の保持する神や存在の確かさをも疑うようになったためである。」 という説明がされているが、本当に、普遍性のある原理を得られないと直ちに判断停止に陥ることになるか?   「~という信念が正しいということを正当化することができるか」、「~という信念が誤っているということを正当化することができるか」という問い(「~」は同一の対象)を行い、その結果双方ともに失敗した場合、「~という信念が正しいということ、ならびに誤っているということを正当化することはできない」という結論が得られるが、ここでは「その信念を正当化することができない」という「理論」が打ち立てられるだけで、だから「実践」においては各人のかってであるということになる。   つまり、かってな判断はできるし、そもそも生きるという選択をした場合にはそうするほかないんだから判断停止になるとは思われない(なかには判断停止する人もいるかもしれないが)。

  • ほにゃらか形而左右学 世界

    ところで 世界とは幾つあるのでしょうか。 ○○○は、○○○○○は、○○○は・・・ 以下、余韻。

  • 不確定性原理と決定論(ラプラスの悪魔)について

     不確定性原理と、決定論についてまとめてみました。  ですが、根っからの文系の僕が、無い頭を動かして自分なりにまとめたことです。  ですから、自分でもこれで合っているのかが分からないのです。    もし間違って理解していたら嫌なので、もしよろしければ僕のまとめのおかしな部分の修正や、抜けているところの補完をしていただけないでしょうか?  指摘だけでも結構です。 (以下まとめ)  不確定性原理においては、電子を正確には観測する事は出来ない。なぜなら、観測という行為でその結果が変わってしまうからである。  しかし、それは人間が観測できる術を持っていないだけであり、もし物理的に干渉しないで電子の位置と運動量を知る事が出来て、かつ無限の計算力がある『存在』がいれば未来が分かると考えたのがラプラスの悪魔の概念。そして、その概念が正しいならば決定論が正しいとも証明できる。逆もまた然り。  しかし、量子物理学的には考えると『そもそも電子の位置と運動量も決まってはいない。つまり観測されるまでは〝不確定〟である』となる。  人間で例えると、自分と会っている時(観測中)には善良な人間でも、会っていないときには悪人かもしれないだろ? という事。  そして、それを裏付けるのが『二重スリットの実験』である。  二重スリットに実験における結果では明らかな矛盾が出来上がってしまった。それを矛盾無く説明すると『そもそも観測前にはそこには確率が満ちているだけで何も無い』という事になる。  つまり二重スリットの実験によって、この世界は確率が含まれているという『証拠』が出来てしまった。 という事は、この世界は確率によって満ちているから、未来は不確定であるはずだ。  すなわち、未来が不確定なのだから、決定論は否定され、それに伴いラプラスの悪魔も否定されるものである。  ***   以上です。あってますかね……?(汗)  回答お待ちしています!