• 締切済み

資本原理主義

現在の日本は資本原理主義というか、人間の根本的な生きるための活動をせずに、間接的な活動である経済活動がおもな人間の活動になっていると思うんですが、これはなぜでしょうか。   他のアジアの国へ行った感触だと、金銭的には貧しいですが、それがなぜかと言うと、まず人々が日本人ほど経済発展を望んでないように思えるんです。 もちろん楽してお金持ちになれるならそのほうがいいけど、家族全員が会社で働いてまでお金はいらないや、畑で食べ物は採れるし、今の生活は楽チンだし、家族がいるし、という風に。 金を稼ぐというより、直接的に生きているというか。 体を動かして働いて、土から食べ物をとって、それ以外に必要な物、薬や電気代を稼ぐため少人数が働くといった感じで。  日本は体を動かさずにお金を稼いで食品を買い、運動不足解消のためフィットネスクラブに通い、ダイエットをしたり、病院へいったり、人間と生きることの間にお金がある感じがするんですよ。  これはなんででしょうか。 日本の昔は知りませんが、比較的長いことアジアのそういう地域で暮らしてみると、とても楽に効率よく生きられる事がわかったんですが、(もちろんとても大変な面もあります。)大多数のひとびと(途上国の人達)はその状態にある意味満足しているのでいわゆる発展が遂げられないわけですが、なぜ日本だけはアジアの中で、唯一これほどあせって経済発展を遂げたんでしょうか。 私も実際貧しいといわれる国で暮らすと楽で、満足感もあり、それを日本のように変えなければ!! って気にならなかったので。 なにが先人を経済発展に駆り立てたのでしょう。     理由を考えてみたんですが、    徳川が作った経済至上主義、中央集権の基礎に西洋の個人主義や技術が加わり、経済発展が加速した。  戦争で世代間で文化の断絶があり、(戦後のアメリカ式な義務教育や空襲で街ごと焼き払われ、生活様式を変えざるを得なかったなど)古来の価値観や生活様式が失われ、物質主義になった。  どうなんでしょうか。 うまく説明できる方いたらお願いします。  

みんなの回答

  • tooma37
  • ベストアンサー率25% (96/374)
回答No.4

>徳川が作った経済至上主義 >実際は武家よりも商人の方が権力をにぎっていたという面もあると思います。 >徳川の時代には農法の改革など、近代の合理主義の基礎ができたのではと思います  “徳川(幕府)が作った経済至上主義”と“商人が比較的大きな権力を有していた”や“農法改革が農民に与えた影響は大きい”では大分違った主張になっていますよ。  農業に関しては門外漢なのでなんともいえませんが、それが合理主義の萌芽につながったというのは些か疑問ですね。私は農村の出身ですが、備中ぐわや千歯こきなどよりも遥かに優れた文明の利器を使用しながらも、合理主義とは程遠い思考法を持った農夫を何人も見てきました。 >戦前は中国語や儒教なども学んでいたのではないですか?   漢文ならまだしも中国語ですか?日本の小学生が四声を学校で学んでいたと言うのは初耳です。よろしければソースを教えていただけますでしょうか?  儒教に関しては修身の時間に時の政府が自身の都合のよい部分を抜き出したものを学んでいたのであり、これが正確に古来の価値観の伝承を行っていたとは甚だ疑わしいものと認識しています。  また、何故戦前に学んでいた中国語や儒教が廃止されると、それが“アメリカ式の義務教育”になるのか説明していただいてもよろしいでしょうか?   >たとえば医学にしても  医学は義務教育ではありません。義務教育の全国民の価値観に対する影響の話ではありませんでしたか? >全国でも60の街が焼き払われたと聞きます。  私の認識とは大分違った惨状ですね、ソースを頂いてもよろしいですか?ちなみに私がどこかの文献で読み知った情報では比較的大規模の被害を受けた都市は80程度で建造物の3割ほどが消失または損壊したとしていました(焼き払われたとは程遠いですね)。経済や社会的な観点からみれば甚大な被害ではありますが、それによって過去の生活様式や価値観の伝承が不可能になる程の損害とは到底思えないのですが質問者様はどのように考えられますか? >どこの都市が焼かれたかすべて言えますか?   これはちょっと…(苦笑)  “これが言えないんなら、あなたの言うことは間違いです”とか仰りたいのなら何も申し上げることはありませんね。

noname#112369
質問者

補足

 性格がイージーゴーイングなもので、文章の構成や言いたいことの前後関係、表現選びでずいぶんこっちの考えと違ってつたわるもんだなあと。。。 空襲の被害も役場など焼き払われていたのでうちの都市でどれほどが犠牲になったかわかりませんが、写真で見る限りは、市内が一面焼け野が原でした。 でも市内中心部の見渡す限り、たとえば繁華街、県庁などずいぶん広い範囲でも市全体で言うと、三割なのかもしれませんね。  中国語ではなくて漢文ですね。 音源も今ほど豊富でなかったでしょうし、四音を学ぶ機会はすくなかったでしょうね。 この辺の言葉選びは私の性格のいいかげんさですね。   医学以前の義務教育、小学、中学の理科、生物に関しても、同じことがいえると思うのですが。 医学が義務教育だとは思ってません。  言葉の概念のとらえ方から範囲までいちいち説明しながらだとあんまりにも長くなりますし、議論の場ではないという前提もあるようなので、失礼します。    

  • passward
  • ベストアンサー率18% (31/171)
回答No.3

基本的に、怠惰?な生活をするのは熱帯系。 遊んでいても(自生植物が沢山あり)食うのが困らないので アクセクしてまで富を得る必要性がありあません。 逆に、寒帯系(エスキモー等)は 一生懸命働かなければ、すぐに餓死するので 他に費やす労力が存在しません。 勤勉性を求めるなら、中庸の温帯系。 4大文明発祥等、経済発達の殆どがこの地域で行なわれています。 特に日本では台風など自然災害が多く、集団生活が発達しているので 江戸時代でも文盲率が1割を切り(中国や韓国の9割は当然として)欧米をも凌駕する勉強大国です。 アリの生活しか出来なかったので(備蓄が増えて)豊かになっても キリギリスの生活は出来ないと言う事ですね。

noname#112369
質問者

お礼

う~ん。。。 一般論としてはそうなんですけど、アジアの中には日本のような気候の国もたくさんありますよ。。。  大陸は力が外向きに働くので拡張主義になり、島国は内向きに働いて高度成長のような上向きになるのかな~~ とかも思ったり。。。

  • tooma37
  • ベストアンサー率25% (96/374)
回答No.2

 日本固有の道徳教育と大量生産、そしてマスメディアの3つが大きな要因と言えると思います。  明治維新以降日本では義務教育が実施され、この義務教育における道徳教育のモデルは朱子学的な徳川武士であり、政府は国民全体に高い勤勉性を求めました。まずこれが日本人の今に至るワーカホッリク的な傾向が形作られました。  そして戦後の経済発展に伴って様々な商品が大量生産され国民の間にも流通するようになりました。これにより“ただ勤勉に働く”が“勤勉に働きその果実として便利な物や贅沢な物を求める”ライフスタイルが誕生します。  最後にその誕生したライフスタイルをマスメディアが国中に伝播する事で日本に物質主義は深く根付きました。  物質主義に大量生産とマスメディアが大きな関わりを持つことはどの国でも言えると思いますが。日本人の場合は持ち前の勤勉性が物質主義化に拍車を掛けたと言えると考えます。 >徳川が作った経済至上主義  余り一般的な歴史認識ではないですね。確かに江戸時代には長期間の平和や技術革新を源泉とする経済発展がありましたが徳川幕府が主体的に“経済至上主義”なる考え方を推し進めていったというのはついぞ聞いた事がありません。むしろ徳川幕府は朱子学などの儒教思想を奨励しており物質主義を卑しむ傾向すらありました。 >西洋の個人主義や技術が加わり  戦前に日本に個人主義が広まったという考え方も余り一般的ではないですね、質問者様はどこで上記の様な知識を培われたのでしょう? >戦後のアメリカ式な義務教育  戦後の義務教育も歴史認識などの部分を除いては長いこと日本的な制度が採用されていました。 >空襲で街ごと焼き払われ  日本全体でみれば街ごと空襲で焼き払われた地域は極小です。  

noname#112369
質問者

お礼

はい。マスメディアの権力はほんとに大きいと思います。   江戸時代、三百年も戦争のない時代が続いたので、実際は武家よりも商人の方が権力をにぎっていたという面もあると思います。  今のような経済発展ではなくても、徳川の時代には農法の改革など、近代の合理主義の基礎ができたのではと思います。政治という観点だけでなく、当時は人民ほぼ農民だったわけですから、こういった農業の改革が人心に与えた影響は大きいとも思います。  以前は大地が与えてくれるものをとるのが農民でしたが、徳川の時代には耕作機を使って、深く耕し、多く収穫するという、大地をコントロールする農法へと変わりました。  個人主義が戦後に入ってきたというのはわかっています。 徳川の時代に培われた合理主義の上に、戦後西洋の思想が多く流入し、そして現在にいたるのか?という意味です。 同時に起こったとは思っていません。  教育ですが、戦前は中国語や儒教なども学んでいたのではないですか? たとえば医学にしても、日本では西洋医学のみが主流で、以前は主流だった漢方がほとんど受け継がれていず、東洋医学、漢方を専門的に学ぶ場はどこにもありません。 逆に西洋医学を学べば、理論を知らずに漢方薬を処方でき、結果肝炎治療などの際に薬害が起きる始末です。  それ以前に、今は大多数の人が東洋医学を神がかり的なものという認識でしか見ていません。 制度は日本的でも、理系の学科も教育内容はすべて西洋式だったと思われますが。  具体例としては昔は「胃」は消化機能すべてをさすような意味の言葉でしたが、現在では西洋の解剖学的な胃を指しますよね。  空襲ですが、極少とはどれほどでしょうか? 私の実家の地方都市でも祖母の話では町が壊滅したといっていましたが。写真もあります。 全国でも60の街が焼き払われたと聞きます。 どこの都市が焼かれたかすべて言えますか? 当時の被害はあまり取り上げられませんから、あまりご存知ないのではと思います。 私ももちろんその時の状況は知りませんが、もしあなたの知っている焼き払われた都市の中に、私の街が入っていなければ、やはりご存知ないと思うのですが。            

  • cse_ri2
  • ベストアンサー率25% (830/3286)
回答No.1

質問者の方には、幕末の庶民の暮らしについて調べてみることをオススメします。 まさに、質問者の方のいうアジアの国々のような暮らしを、当時の庶民はしていました。 じゃあ、日本はなぜ明治維新を経て、そのような国から資本主義国家を目指したのか。 その理由は、19世紀の世界が帝国主義で動いていたからです。 その当時はずばり弱肉強食の論理で世界が動いており、質問者の方が渇望しているアジアの国々は、近代兵器で武装した欧米諸国の軍隊に征服され植民地となり、20世紀後半になって独立を取り戻すまで半奴隷的な生活を強いられました。 幕末の日本は、鎖国をしながらも世界の動きについては情報を入手していました。 特に隣国の大国である中国が、アヘン戦争でイギリスに敗北し、上海に住む中国人がヨーロッパ人から奴隷のように扱われるのを目撃し、このままでは自分たちが同じような目に遭うということを自覚したのです。 その後、開国・倒幕・明治新政府成立・富国強兵と国の流れが進みますが、その根底にあるのは帝国主義で世界を席巻していた欧米諸国から、独立を守るためであったのです。 以後、資本主義による経済発展うまみを知った日本は、途中で敗戦も経験しますが、一貫して経済では資本主義、政治では議会制民主主義の道を歩みました。

noname#112369
質問者

お礼

 現在の経済発展と、それを維持しなければいけないという強迫観念は列強への恐怖心でしょうか。TVなどを見ると世の中の誰もかれもがアメリカや近隣の国々を心から信用し切っているようにおもえて心配なのですが、実はそういう危機感をもって経済発展を望んでいる人の方が大多数何でしょうか。。。 

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