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奇蹟の言い広めの禁止について

kigurumiの回答

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回答No.3

キリスト教は、プラトン主義と言われます。 どうしてか。 紀元前427年 - 紀元前347年の人です。 イエスがいたとされた時代より、ずっと前の人で、ギリシャにいた哲学者です。 いいことをすれば、「いい人だ」と他人から善い評価を受けてしまいますよね。 善い行いをするのは、善い人だと評判を得るためにやるのか、本当に善い人だから善い行いをするのか、善い行いをすれば毎回褒められる(徳を得る)と、本当にその人が善人だったからなのかわからないですよね。 そこれ、プラトンは考えた。 <その人から全ての徳(善い評判)を奪ってみても、善人だったら、その人は本質も善人だったということになる> と。 善いことをしても褒められず、評価されない。それでも善いことをし続けるか? 今までの善い評判を奪い、つまり 紫の衣を剥ぎ取り、鞭打ち、十字架にかけても、その人が最後まで善人だったら、その人は評判を得たいから善いことをしていたわけじゃないとわかる。 と。 そうプラトンは考えた。 新約聖書の元となる小説を書いた人は、プラトン哲学に影響を受け、それで旧約の話も交え、ユダヤとヘレニズム文化を融合させる物語を作ったのかもしれない。 ユダヤ人は古くからディアスポラして、各地に住んでいたわけですが、ギリシャ方面だけでも本国ユデアの8倍ものユダヤ人が住んでいたそうです。 生まれがギリシャでギリシャの文化で育った、ユダヤ人が本国の8倍以上もギリシャだけでもいたので、プラトン哲学の精通しているユダヤ教聖職者もいたんでしょうね。 新約聖書の内容は、旧約に精通していないと書けない内容なので、一般のユダヤ教徒が書いたのではなく、ギリシャに住むユダヤ教の祭祀か律法学者 あるいはラビが書いたのだと思えます。 今のように誰でも聖書が手に入るという時代ではなかったので、細かなところまで知っているってことは、作家はそれらのどれかの地位だったと伺えます。 話は戻って、小説の中では、イエスは多くの障害者を完治させていきます。 その当時 障害を持った人は神から呪われているとされたので、障害が消えたってことは、信仰を深くしたことで、神は呪いを解いたってことですね。 もし、信仰が深くなくても癒されるとしたら、信仰すること自体価値が無い。 となる。 ここがポイント。 例えば「私は無くした手をイエスによって、再生させてもらった。え? 信仰なんてありませんよ。 誰だってお願いすれば、やってもらえます」と言えば、信仰することになんら価値は無いわけです。 聖書作家が言いたいことは、「信仰が深くあれば、無くなった手すら生える」 みたいなこと。 だから今でも障害を持った人は、奇蹟が起こったという地に巡礼で行くわけです。 巡礼したところで、無くなった手が生えたなど一例もありませんが。 信仰が無いから神の呪いは解けない・・・・。なわけないですね。  あくまでも小説内でのみ可能なことですから。 まあ 巡礼して一心に祈れば無くなった手が生えてくるという期待を胸に、いつかはと巡礼を夢に描いて生きるってのも、希望に満ちた人生だと思います。 で聖書作家が言いたいことは、<信仰が深かったから効果があった>ってこと。 いくらイエスが強い魔法使いでも、魔法をかけられる側に信仰が無ければ、無効。 なにも変化しない ってこと。 だから、奇跡的なことが起こったら、「イエスって人が魔法で治してくれた」と言いふらさず、黙って自分がいかに信仰深かったかを示す。 治った体を祭祀に見せれば、祭祀は「信仰があなたを救った」 と言ってくれるわけです。 (上記で書いたプラトンの義人の証明理論が、ここで使われているわけです。) こういう物語があります。 マリアの両親は子供ができませんでした。 そこで、子供を授けてくださいと神にお願いしようと神殿を訪れたら、祭祀に「子供がいないということは、お前たちは神に呪われるからだ。 神から呪われたものは、神殿に入ることは許されない」と追っ払われた。 信仰が深くなく穢れたものが神殿に入ると神の住まいが汚されるってわけです。 それで二人は信仰が浅いから子供に恵まれないと知り、必死で信仰を深くしたところ、マリア誕生。 というわけで、奇蹟は信仰が深くない人には起きないってことです。 「イエスってすごいマジシャンがいて あっという間に治療してくれる」となると、信仰が無くても治るって勘違いされ、 信仰が深かったがゆえに、奇蹟が起こった って重要なことが伝わらないじゃないですか。 徳を得た つまり病気を治してもらうために信仰する とかだと、真の信仰じゃないじゃないですか。 条件つき信仰だから。 神がすばらしいからじなく、自分が利益を得るために信仰をするのだから。 神中心ではなく自分中心だから。 なんで、2回だけイエスがやったといわず、信仰により回復したことをみんなに見せろって言ったのかは。。。。 全部に対して、「私が治療したのではなく、自分の信仰によって癒されたことを みんなに見せなさいと言った」って重複しちゃうと、。。。 文章作成能力が下手な作家ってなるじゃないですか。 たとえ、作家が毎回書いたとしても、編集者が重複した部分をカットしたんじゃないかと。 文章に書かれていなくても、行間に同じことがある と読者が読み取れる部分は、カットされる。 そういうことじゃないかな と思います。 だから 2回だけ他人に言うなと言ったわけじゃないと思います。

noname#74446
質問者

お礼

主の戒め、福音記者の意図、ともに 信仰の必要性をメッセージに含ませる意味だったのでしょうか。 ご回答ありがとうございました。

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