• ベストアンサー

奇蹟の言い広めの禁止について

noname#71713の回答

noname#71713
noname#71713
回答No.2

聖書は持っていませんので推測になりますが。 神秘行を行う立場として言わせて頂けば、聖典には顕教的側面と秘教的側面があります。 その二つに限って他言を禁じたなら、それの秘教的側面が密儀だからではないでしょうか。 もし本当に他言無用の内密な内容であるなら、そもそも聖典に記されているはずがありません。 『この技術を用いることは許可されるが、その用法を他人に教えてはならない。』 そういう意味だと思いますね。

noname#74446
質問者

お礼

参考ご意見ありがとうございました。

関連するQ&A

  • 十字架に磔にされたキリストの言葉の正しさと奇蹟

    十字架に磔にされたイエス・キリストの七つの言葉は、正しいのに。 何故、聖書には余計な「キリストの復活」という奇蹟が記述されたのですか? 1>「父よ、彼らを赦して下さい。なぜなら、彼らは何をしているのかわからないからです。」(ルカの福音書23章34節) 2>「アーメン、あなたに言います。あなたは今日私と共にパラダイスにいます」(ルカの福音書23章43節) 3>「ギュナイ、そこにあなたの子がいます」「そこに、あなたの母が」(ヨハネの福音書19章26節-27節) 4>「エロイ・エロイ・レマ・サバクタニ(わが神、わが神、どうして私を見捨てられたのですか。)」(マルコの福音書15章34節)「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」(マタイの福音書27章46節) 5>「私は渇いている(ディフォー)」(ヨハネの福音書19章28節) 6>「終わった(テテレスタイ)」(ヨハネの福音書19章30節) 7>「父よ、私の霊をあなたの手にまかせます」(ルカの福音書23章46節) 私は、十字架に磔にされ死を迎えるイエス・キリストに仏性が働いていたと思うのです。 このことから、イエス・キリストは、人が神の使途であると信じることは、他人から批判されて、罪となると云う事を示しました。 同時に、自らの信仰は人間の幸福の源であると云う事も示しました。 「キリストの復活」の記述は、キリストの言葉の正しさを台無しにしています。 イエス・キリストが示した、自らの信仰による幸福と自由を無にしています。 聖書の奇蹟は、強固な組織を作って、功利主義を導くために記述されたのですか?

  • 「求めよ、さらば与えられん」

    「求めよ、さらば与えられん」と言う言葉と イエス・キリスト 「人にしてもらいたいと思うことは何でも、 あなたがたも人にしなさい」 (『マタイによる福音書』7章12節, 『ルカによる福音書』6章31節) と言うのは同じ意味ですか?

  • 新約聖書で

    最近キリスト教に興味を持ったのですが、ルカによる福音書8章22節~25節の「嵐が静まる」という部分で、聖書は何を伝えたかったと思いますか? ただ、イエスは凄い人だと言いたかったのでしょうか?恐らく「ねらい」となるものがあると思うのですが・・・

  • ラザロと金持ちのたとえ話について

    ルカによる福音書16章19~31節にイエスが話されたラザロとお金持ちのたとえ話が記されていますが、ラザロには名前がついているのにお金持ちには、名前が付けられていません。どうしてだと思いますか?

  • なぜキリストは盲目者に「このことを誰にも告げてはならない」と言われたのでしょうか

    私はクリスチャンではありませんが、聖書に興味を持ち、少しずつ読書をしています。 その中で気になる点がありました。マルコによる福音書7章36節で、イエスが病人を癒された際に 「このことを話してはいけない」 と言われます。 しかし、当時イエスが自らの奇跡を広めようと行動していたのは明らかであると思います。なぜ、実際に自分が行っていることと矛盾したことを言われたのでしょうか。 クリスチャンの方で詳しい方がいらっしゃれば教えていただけないでしょうか。よろしくお願いいたします。

  • ベルゼブル論争が理解できません。

    以前、この箇所(ルカの福音書 11:19)を質問させていただきました。 ご丁寧な回答を複数いただいたのですが、理解力が無く、いまだに理解できません。 イエス様がベルゼブルの力で悪霊を追い出しているのであれば、パリサイ人の仲間の悪霊払いは、なおのことベルゼブルの力を借りて悪霊を追い出していることになる。ここまではわかります。 それがなぜ、イエスがさばくまでもなく、悪霊払いの人がパリサイ人をさばくことになってしまうのでしょうか? どなたか教えていただけませんか?

  • パッション  聖書に詳しい方教えてください!

    こんにちは、レポート課題で新約聖書に関する映画を 見なくてはならなくて、パッションを見ました。 それで、見た映画を考察しなくてはならないんです。 ”この映画は新約聖書のどこの部分が描かれている”など書かなくてはいけません。 それでネットで調べたんですが、この映画は 新約聖書の福音書を題材にしたのは わかったんですが、どこの章を題材にしてるなどは 詳しくのってませんでした。 一応、レビューした方が、 この映画はマタイによる福音書26章36節-27章56節、 マルコによる福音書14章32節-15章41節、 ルカによる福音書22章39節-23章49節、 ヨハネによる福音書18章1節-19章30節、の部分が描かれているのかな? と書いてあったんですが、あっているのかがわかりません。 聖書に詳しい方、教えてください。

  • ルカの章

    ルカの章22章10節で イエス殺人計画とありますが、 なぜイエスを殺したのでしょうか??

  • ルカによる福音書たとえ話について。

    聖書ルカによる福音書15章にある三つのたとえ話について質問します。このたとえ話を通して、イエスが告げようとしていることは何ですか?どれだけ長くなっても構いませんので、細かく説明して頂けると嬉しいです。

  • ルカ伝5-39について

    ルカによる福音書 5章39節 「また、古いぶどう酒を飲めば、だれも新しいものを欲しがらない。 『古いものの方がよい』と言うのである。」(新共同訳) 共観福音書の上記箇所の意図するところがイマイチ分かりません。 36節からの一連のたとえ話は私の中では 新しいぶどう酒=イエス・キリストの伝える福音=新しい約束(古いぶどう酒は律法?) 新しい革袋=福音を受け入れる側(人)の意識 と解釈しています。福音を受け入れるには今までの(古い)肉に囚われた意識を脱して 新しい(霊の)意識が必要となる、というような感じです。 ですがそうなると39節の意味がよく分からなくなるのでこの解釈は間違い?とも考えたりして困っています。 詳しい方や神父・牧師から説教を聞いたことがある方がいらしたらご教授願います。