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奇蹟の言い広めの禁止について

noname#80116の回答

noname#80116
noname#80116
回答No.1

 マタイ福音のほうに 《ルカ6章6ー11節 手の萎えた人をいやす》の並行記事があって そのあとに この場合にも このマタイでは 《他言するな》と言ったとあります。しかも その理由まで 書いています。  ▲ (マタイ福音12:15~21) ~~~~~~~~~  イエスは皆の病気をいやして、御自分のことを言いふらさないようにと戒められた。  それは、預言者イザヤを通して言われていたことが実現するためであった。    見よ、わたしの選んだ僕。わたしの心に適った愛する者。    この僕にわたしの霊を授ける。彼は異邦人に正義を知らせる。    彼は争わず、叫ばず、その声を聞く者は大通りにはいない。    正義を勝利に導くまで、彼は傷ついた葦を折らず、    くすぶる灯心を消さない。    異邦人は彼の名に望みをかける。    (イザヤ書42:1~4) ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ どうも 《霊》にかかわっていそうなのです。  つまり このように理由が書いてあるからと言って まづ言えることは 必ずしも分かったというわけにも行かないように わたしも 感じます。このご質問のように 前々から 疑問を持っていたのではありませんが 思うに 分かりづらいですね。  つまり けっきょく 《言いふらす》ことをしなくても ほんの少し 誰かに伝えれば うわさは広まるでしょうし それよりも 出来事が起こったなら それは 伝わっていくでしょうし。    考えましたが ひとつに まづこれは 奇蹟と言いますか なかなか 人間の能力とは思えないわざですし 事実が起こったとしても 理解力を超えています。ですから 単純に 人間のわざだと受け取られては それは 違うというようなことが かかわっているように思います。  もうひとつに イエスは まだ 最終の杯を飲んではいない段階にあるわけです。ちょうど 十字架上の死のあと 墓のそばで――イエスは その埋められた墓から出て 立っていたというのですが―― マリアに 現われたとき マリアが 《ラボニ(わが師よ!)》と応答を返すと こう言ったとあります  ▲ (ヨハネ福音20:17)~~~~~~~~~~~~~   イエスは言われた。   ――わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上ってい    ないのだから。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ すなわち この内容を踏まえると こう考えられます。まだ 《経験世界における存在とそのわざ》である場合には その体に触れたりしてはいけないし そのわざを言いふらしたりするのも だめだという意味があるように思われます。  つまり 表象しうべきものごとについては その表象が あたま(精神)の中で 或る種の仕方で 目指すべき目標をかたちづくる。たとえ 精神的な理念であっても そうです。それは イエスという人やその思想そのものであるだろうけれど 神の子でもあるイエス・キリストというその存在を指し示すことにはならない。むしろ 妨げることさえある。――こういう意味合いがあるのではないでしょうか。  ひとつの見解でした。

noname#74446
質問者

お礼

ご回答ありがとうございます。 補足回答に方にお礼のメッセージを付けさせて頂きました。

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