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「人と話すときは“目”を見ろ!」……なぜ?
「人と話すときは目を見る」のは常識ですが…… なぜ“目”を見るのでしょうか? 相手が喋るときはふつう“口”が動くので、 目よりも口か、“(相手の)顔全体”を見て話した方がいいようにも思うのですが……? 学校でもそこまで詳しくは習わなかったので、理由がよくわかりません。 回答よろしくお願いします――
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※誤字脱字の可能性あり 定義する必要はありません。必要なことは、目的に対して、有用な「手段」を見出すことです。 その手段が、有用かはその人物に依存するので、「全てにおいて」その手段は有用であるのではなく、「その者において」その手段が有用であるということです。 >一言で言えば、「それに対してはっきりとした答えを出すことはできない」……でしょうか。 ――つまり、“特に決まりはなく、それの定義はいい加減なものである”……ということですか? 「我々は体感によって、そのもの有用を知るのであって、必ずしも言葉による説明を必要としない」 我々は、行為をするようにつくられているのであって、知るためにはつくられていないといえるでしょう。別なものでは、ひとつひとつの行為に説明が必要であるのならば、あまりにコストが高すぎます。 例えば、釘を打つには金槌が有用ですが、説明する必要はありませんし、ましてや説明によって有用を知るものでもありません。釘を金槌で打つ体験によって知るのです。 確かに、使い方は説明しますが、説明しているのは「使い方」であって「有用性(意義)」ではありません。 だからといって、有用性があるかないか分からず伝承される行為もあります。芋を洗う猿集団がいるように、初期の経験者(猿ですが)が有用性を体感できても、その芋を洗う行為が爆発的に伝承されれば、後世の猿は、その有用性が体感出来ない猿がいる可能性はあります。それでも、その行為が保持されるという場合があります。
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- nisekant
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霊長類は、表情筋が発達しています。 表情とは「普遍的な言語」という解釈もあり、人間以外の言語をもたない霊長類にとって表情は情報源にもなるそうです。 あと脳科学の分野で、「相手の顔を見ないで会話する場合」と、「見て会話する場合」とでは、見る場合が脳の活性部位が多いそうです。けれども、見る場合が活性する事実がわかったとしても、何故に活性化するかは推測になってしまいます。 科学の分野でも、決着した話ではないので、現段階で「これだ」という答えはないと思います。 少なくとも、顔を見るか見ないかは、その人物の歴史的背景によるので強要するべきものではないと思いますし……強要された場合は「その理由を答えよ」と問うたらいかがでしょうか?
補足
>~強要された場合は「その理由を答えよ」と問うたらいかがでしょうか? 理由を聞かれたとすると、「『目を見て話す』ということが現代までに、なぜか知らないけど常識となってきたから」としか答えようがないです……。 一言で言えば、「それに対してはっきりとした答えを出すことはできない」……でしょうか。 ――つまり、“特に決まりはなく、それの定義はいい加減なものである”……ということですか?
- leo-ultra
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話す時に目を見ろというのは、 西洋風の風習であり、日本古来の風習ではありません。 日本式では、特に目上の人の目を凝視するのは 失礼にあたります。 でもまったく目を見ないのは、確かに今風の日本人の感覚では あまりよろしくないかもしれません。 私の限られた経験で言えば、西洋人は議論をする時などは ほんとに見つめ合い、決して視線をそらしません。 これが日本人にはつらくて、ついそらしてしまいます。
- fuzikiseki
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「嘘つきは人の目を見て話さない」「誠意は相手の目に訴えろ」 などの日本独特の道徳精神ですね。 しかし質問者さんも疑問に思うように今では、多少失礼に取られる 事もあるのであまり目だけ見るのもどうかと思います。 友人同士などの会話ではどこを見ていても自由です。 年配の方や目上の人と話すときは口7目3ぐらいで相手の目を見たほうが いいです、やはり一度も目を合わさないで会話すると「マナーが悪い」 「言葉に誠実さがこもっていなかった」と言われてしまいます。 好きな異性と会話する時は目10で話すでしょう? 気持ちを伝えたいから。 「目は口ほどものを言う」が日本人の感覚ですからね。
あ、目を見ては日本特有らしいと聞いたことがあります。 目は口ほどにものを言う・・などの言葉からではないでしょうか・・ (目は口ほどにものを言うの出展は失念しました) 欧米では、口元を見て・・との事でした。 ウソを言うのは口からなので、口を見るのだとか・・・ (うろ覚えです) 目を見るのを強制されると、辛いですよね・・特に立場の上の人が相手だと大変です。 私など気が弱いので鼻の頭より少し上位を見るようにしています。 それでも、凝視はしませんよね・・・ そっと、目をそらしたり・・また戻ったりと・・・ 口を見てなら、眼力など感じなくて済むので合理的な考え方かも・・
補足
詳しい説明ありがとうございます。 ※こちらは質問している側なので偉そうなことは言えないため、若干遠まわしな表現をしています。 そのため、nisekantさんのおっしゃることを直接的な「補足」ではなく、こちらで理解してまとめたような形で書き込んでいます。 >「我々は体感によって、そのもの有用を知るのであって、必ずしも言葉による説明を必要としない」 >我々は、行為をするようにつくられているのであって、知るためにはつくられていないといえるでしょう。ひとつひとつの行為に説明が必要であるのならば、あまりにコストが高すぎます。 大げさに言えば、「ヒトの『知能』は、ものを奥深くまで理解してくるためについてくる、“おまけ”のようなものであり、筋肉を使って体を動かし、『体で知る』ことが本来の“生物としてのヒトの生き方”である」……でしょうか? 質問しているこちらから例えるのはおかしな話かもしれませんが―― ヒトの先祖が誕生した最初期から、「どれなら食べれるか?」、「どれなら物として使えるか?」……を、nisekantさんがおっしゃるように、「体で体感して学んできた」…… ――無論、まだ言葉なんてない時代から、上記のようなことが次の世代へ、次の世代へ……と引き継がれていき、“今”が存在している…… 「言葉」は今のヒトにとっては、必要なものかもしれない…… ――だがしかし、それはあくまでもそれを作り出してきた大昔のヒトの先祖が編み出したものを、その後の世代がそれの新たな使い方(ヒト同士で対話をとること)を(悪い言い方をすれば)“勝手に考えてきた”のであって、言葉は生きるために必ずしも(どこまでも)必要なものとは言えない…… 前述で、「言葉は必要ないものだ」と言ってるようですが、逆に言えば、「言葉がなくては生きていけない」ようでは、ヒト以外の生物(特に動物)は、生きていくことはできないはずなので。 例えば昆虫の一部は、ヒトのようにプロポーズという形をとらずに、鳴き声などでメスを誘い出す…… あくまでもここでの例えの「プロポーズ」という形での異性との付き合いは、ヒトが勝手に考えだしたものである…… ――まとめれば、ヒトを含むすべての生物が共通してあらゆることを“知っていく手段”……それこそが「体感」なのですね。 そのため、「言葉を重要視しても仕方がない……」