• 締切済み

千と千尋の神隠しについて

子供のころ、千と千尋の神隠しを見てただ単純に凄い!て感動してたんですが、「カオナシ」て何だったんだろうなて思って今更になってもう一回観たんです。 で、これは自分の解釈なんですが、「カオナシ」は人の煩悩+意志のなさを表してるのかなあ、て思ったんです。 人(千尋)はふとした事から、親がいなくなり労働をして自立しなければならない時がくる。「働かななくちゃいけない」てハクが言った事だし、湯婆婆のいう決まりであったりで、何となく働いて生きていく事は正しいてインプットされる。 そうした社会の中、「カオナシ」に食い殺されてしまう人がいる一方で、千尋は全ての誘惑や欲望を断ち、親を人間に戻したい、ハクを助けたいていう強い意志があって、自分の生き方を通してきた。そんな千尋にもううっとうしい程「煩悩や意志のない自分」が自分を食い殺そうと憑いてまわり、電車の中にまでついてくる。 銭婆の所に行ったものの、銭婆は「この社会の決まりで、私にはどうする事もできない。自分で何とかしなさい」と言う。カオナシと闘いながら、社会の決まりとやらに悩みながらも、純粋に生きた千尋は、最後はハクの名前に辿りつき、両親を見分ける事ができた。(湯婆婆が自分の子供が分からなかったのとは対照的に) 「真っ直ぐに生きて欲しい」  これが宮崎監督が子供に直感で感じて欲しい、と思った事なのでは?と思いました。自分は生きる事について考えていますが、勇気づけられた気がします。何か映画の解釈でも、皆さんの「生きる」という事についての意見でも何でもいいのでお伺いしたいです。  

みんなの回答

  • ameru2007
  • ベストアンサー率13% (180/1381)
回答No.4

やりたいことを決める・・・ 多分やりたいことが決まっていないのが大半ですよ^^; やりたいことをやれるひとって多分そうはいない気がする うーむ 王立宇宙軍を見た方がいいかも^^ 多分君の心境に近い人っぽいのが主役ですから・・・ 何か得るものはあるんじゃない?

  • tasugeto
  • ベストアンサー率0% (0/0)
回答No.3

カオナシは、まず語義通り「顔無し」です。 現代社会にある匿名性の問題に対する宮崎駿のアイロニーであり、 同時に不特定の個々人を表します。 例えば、ここで行われている問答が顔無しです。 コミュニケーションのあり方の象徴です。 カオナシはとても寂しい人です。 誰かとコミュニケートしたいが、その方法が分からない。 かつて私たちは地域共同体に支えられ(それは風の谷のように)、成熟の通過儀礼を踏まえ(ドーラたちとの旅のように)、社会の構成員になっていきました。 しかし人口の増加と都市化によって、成熟と社会参加は困難なものになっていきます。 人々は孤立し「大人」という社会システムは希薄化しました。 その機能の回復を願って、魔女は都会に出ても成立し得るコミュニケーションを模索しましたし、図書館帰りの少女は猫を追いかけて団地や学校や新興住宅街という自分の持ち得る小さな社会の繋がりを探しました。 それでも一層進行し続ける人々の孤立化が生み出したのがカオナシです。 共有する価値や共同体を失った人々は、極めて狭くしか存在しないお互いの共有範囲にすがろうとします。 誰もが知っている価値。誰もが分かる具体的なもの。即物的なもの。 カオナシが手から金を出したのはそのためです。 それを出せばみんなが喜んでくれる。多くの人が自分を価値ある存在だと認めてくれる。自分を愛してくれる。 誰かの欲望に応えることが、彼がとれる唯一のコミュニケーションでありアイデンティティーの確認だったのです。 覚えがありませんか? 誰かのレールに乗ることが自分にとって大事だったこと。 誰かの期待を裏切りたくなくて、悲しませたくなくて、失望させなたくなくて頑張ろうとしたこと。 これは誰しもが抱く根源的な欲求です。人が人と繋がろうとする力。 ただこの時代の中で、それは悲しい形で現れることがあります。 カオナシがしたことは、その一つの典型です。 カオナシは闘う相手ではなく、誰もがカオナシです。 即物的な価値で相手の価値を計らなかった千尋によって、彼が本当は無力であることが暴かれました。 だからこそ彼を誘って、千尋は一緒に電車に乗ります。 闘うことではなく、救うことがカオナシには必要だったのです。 どうかカオナシを愛してあげてください。 千尋がいたあの空間も、仕事をするということも、両親もハクも、全て我々のコミュニケーションと共同しようという意識の表れですから。

passion123
質問者

お礼

ご回答どうもありがとうございます。 深く映画を観察されていて驚きました、と同時に自分の今までの人生があまり意味がないという考えが少し変わりました。 今まで自分はカオナシのように生きてきたわけですね。でもそれは、親を満足させたい、先生を喜ばせたい、友人に認められたいてどこかで居場所を作ろうとしてた。自分のアイデンティティーを確立する方法が大半の人が進む方法しか知らなかった。でもあれだけ莫大なエネルギーを発揮できたのも、根源にはそういうものがあったのかもしれません。 ただ自分は、そういう高次の欲求もあってそれを大事にしたいと思ったと同時に、やはり意地汚い欲求もあったと思うんです。敢えて書きませんが、そういう意地汚い欲求もあり、高次の欲求が大義名分にすり替えられていきながら、社会参加する方法を模索する努力・人とのつながりを求める努力(コミュニケーションですか?)を忘れた。 なんだか絶望的な感じですがw でもその手段の一つとして「働く事」が大きな可能性を秘めているのかなあ、と考えてます。

  • ameru2007
  • ベストアンサー率13% (180/1381)
回答No.2

えっと何才? 子供のころ・・・7年経過・・・22、3ぐらいですよね? 人生振り返るにゃ早くない?(まぁ 人それぞれといえばそこまで) 誰かに敷かれた・・・誰かっていったって親ぐらいでしょ? (じゃなきゃ自分が思い込んでるぐらいで実は自分の敷いたレールかもよ) 何の仕事をしてるか知らないけれど (学生さんならごめんね) 自己嫌悪するのもかまわないが 悩まず生きる人なんていないと思います。 まぁ 適度に悩み適度に忘れ・・・その繰り返しでいいんじゃない? 性格だから深く考えるなら 思いっきり深く考えて答えが出なくてそして吹っ切れてみましょう。 風が吹くようにしか進めないのも人生だと思いますよ^^;

passion123
質問者

お礼

すいません、まだ大学1年生ですw 確かに自分の人生振り返るにはまだ早すぎですよね・・・ 大学入ってからやりたい事決める!て考えてたんですが、そしたら何故自分は生きてる、生きてきたのかて事を考えるようなってしまったんです。 カテ違い気味ですが、もう少し自分なりに悩みたいと思います。 二度のご回答ありがとうございます。

  • ameru2007
  • ベストアンサー率13% (180/1381)
回答No.1

もう7年経ってるのか・・・たしかに7年経てば一昔ですね^^ 解釈とは人それぞれ違う物なのであなたがそう思ったならそれでOKだと思います。 なかなか良く考えてると感心します。 生きるですか・・・ 『王立宇宙軍 ~オネアミスの翼』なんか観るといいかもね 「誰かに必要とされているから、生きていられる。金物屋もそうだ。  誰かが必要としているから、金物屋でいられるんだ。必要なければ、  消されてるよ」 とか 「・・・パンなら一斤、油なら一本分の価値がある・・・ だが、ゴゼの追剥はコレ一つのために人を殺す まぁ 観て損はない映画だと思います。 生きるってことを考えてるアニメ映画かな 私が考えるのは ただ何も考えないで何もしないで生きてるのは果たして生きてるのか? とは思います。 自らの意思で何もしない人もいれば、病気等でそうなる場合もある。 前者は愚者で後者は運命 考えれば考えるほど難しいと思いますよ^^; まぁ 適当に流してください^^;

passion123
質問者

お礼

ご回答 どうもありがとうございます。 『王立宇宙軍 ~オネアミスの翼』まだ見てないので、是非見させて頂きます。 自分の今までの人生を振り返ると、人からの評判やお金を求めてきたかもしれませんが、何より誰かに敷かれたレールにのっかてた生きてきたて感じます。でも、「だから、あなたも生きぬいて」を書いた大平光代さんのように、自殺未遂・非行・極妻を経て弁護士になった異色の人生を持った人は逆に「親に迷惑だけはかけない」ていう動機があるが故に、あれだけ強烈な生きるエネルギーが出せるのかなて冷静に見る自分もいて・・・ 自己嫌悪してしまいます。

関連するQ&A

専門家に質問してみよう