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福沢諭吉の誤訳?

薩英戦争が始まったのは、福沢諭吉の誤訳がきっかけになった、という説がこちらにあります。 (「交渉」の6月28日のところ) http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89 こんなことがあり得るでしょうか? これは薩摩藩とイギリスとの交渉ですが、  1.当時福沢諭吉が薩摩に居合わせた可能性  2.幕臣である福沢諭吉が薩摩藩の仕事を請け負う(?)可能性 いずれも無理があるように思うのですがいかがでしょうか?

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  • ベストアンサー
  • tanuki4u
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回答No.1

 1.当時福沢諭吉が薩摩に居合わせた可能性 → http://www.keio.ac.jp/ja/contents/fukuzawa_history/index.html 薩摩に行ってないようですね  2.幕臣である福沢諭吉が薩摩藩の仕事を請け負う(?)可能性 http://kbaba.asablo.jp/blog/2006/06/24/418674 幕府の要請のようです。 上のURLでは、元ネタはNHKのその時歴史が動いたですね、あの番組は、マユツバが多いです。 幕府が当時江戸在住の英語に堪能な人間として福沢諭吉を認識していた。なんせ咸臨丸に乗せているくらいで、幕府の翻訳方として雇われていた。中津藩から出向みたいだったみたいですね、正式に幕臣になったのは64年みたいです。

soramist
質問者

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ご回答有難うございました。

その他の回答 (1)

  • kwan1234
  • ベストアンサー率18% (111/603)
回答No.2

 東洋文庫(平凡社刊)の中に『ヤング・ジャパン』というのがあるのですがそのなかに、薩英戦争に関する英国側からの資料があります。薩摩沖での交渉に関して言えば、英国側の要求は「犯人の逮捕・処刑と賠償金」だけであって、責任者である久光に関しては何も要求していないように書かれてあります。要求先は久光の実子、藩主の忠義です。これに対して薩摩の家老(執政とも)川上但馬の返答が載せられており、薩摩側も誤解はしていないようです。  英国側は川上の返答を時間引き延ばし作戦と受け取り(実際にその通りだったのでしょう)攻撃を始めたもののようです。

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