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この世界に悪は存在しないのか?

皆さんこんにちは。 先ほど一番右下のカテで、ある回答を見ていましたら 「この世界に悪は存在しない」という感じの回答が ありました。 そしてその回答に賛同する人も何人かいたのですが。。 しかし「悪」というのは、殺人や強盗などの犯罪なども そうでしょうし、人に故意に迷惑をかけるのも「悪」だと 思います。普通に「悪」は世の中に多いと思います。 では「この世界に悪は存在しない」というのは、いったい どういった悪の事を指すのか、わかる方いらっしゃいますか? 推測で結構です。考えられることがあれば教えてください。

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  • ベストアンサー
noname#117439
noname#117439
回答No.8

A7です。 蛇足ですが。 事故米を転売した業者は悪か? 政策に翻弄された生贄です。 仕組んだ政府は悪か? しらばっくれてる偽善者ですが悪ではなく主権在民の立場の生贄です。 ミニマムアクセスの取り決めは悪法か? 自由の理想にささげられた生贄です。 高コストの日本式農業は悪か? 生存に必要不可欠な産業です。経済的には生贄のごとくいつも槍玉に上がっています。 きりが無いのでこの位にしておきますが、悪はとことんフィクションです。 それでも悪の存在が信じられるのなら(多分そうですが)自分だけが悪です。 この苦は、逃れるのではなく理解することでようやく雲散霧消します。 それが前向きに考えることです。 実のところ「善」も頭の中だけのフィクションです。 善は悪と戦って対消滅する運命です。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、なるほど。 悪などないのに、人間の心の中で悪を 創ろうとしている。ということですね。 善悪を超えた、仕方がない事情というのが 確かにあります。 戦争なのがそうなのかもしれません。 私は戦争は悪と思っていますが、本当は 善悪を超えた、生存していくための、 いたしかたない手段なのかもしれません。 ご回答ありがとうございました。

その他の回答 (16)

回答No.17

maimaisusさんの平たくいば「物差し」に賛成です。恐らく<悪は存在する、しかし存在しないとも言える><確かに善は存在するし、しかし存在しないとも言える>要するに絶対的な関係、問題でなく相対的に存在するか?相対的に存在しないか?その程度の問題でないでしょうか?しかも悪の存在について考える事自体も、現状は感情を持っている人間固有の問題と考えられるので、さらい言えば、<悪は存在すると感じられるか、或いは存在しないと感じられるか><善は存在すると感じられるか、或いは存在しないと感じられるか>この辺に落ち着きませんでしょうか?

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、なるほど。 人間だけがもつ問題ですね。 ご回答ありがとうございました。

回答No.16

質問の答えになってなかったら申し訳ないです。   根本的に、善・悪とは、物事を考えたり、行動するための基準の一つ。平たくいば「物差し」です。これは、人によって大きさやメモリの形、そして使い方も、使う処も、使うときも、数も、違う物。 それに対して、完全な答えを出すと言う事は、人間には無理ぽいと思うね。人間やめれば分かるかも。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、なるほど。 よく、自分の物差しで人を判断するな。といいますよね。 もともと皆基準が違うということですよねー ご回答ありがとうございました。

  • yayuh
  • ベストアンサー率16% (7/42)
回答No.15

悪かそうでないかは、その人の持っている判断基準によって決まるものだという観点で考えてみたいと思います。 もし、65億人全てがこれは悪だと明確に言うことができたら、明確な悪だと考えてもいいのかもしれません。もちろんその逆も。 なぜなら、それだけ明確な判断基準であるからです。 65億人の判断基準が全て一致する可能性を考えると、、、高くはなさそうですね。 つまり、悪が存在する可能性も高くはない。 ということは、悪が存在すると100%は言い切れない。 結論として、悪は存在しない、そのかわり善も存在しないと言うことができそうです。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、なるほどー 悪が存在しないとすると、その逆の善も 同じ理論で存在しない。ということですね。 ご回答ありがとうございました。

回答No.14

弁護士、警察管、その他小市民<渡る世間は悪ばかり>と痛感している方も多くいると思います。私も同感です。しかし、<善側から見れば悪は悪><悪側から見れば善は悪>要するに善が悪を肯定すれば善になり、否定すれば悪となる又悪が善を肯定すれば善も悪、否定すれば善になる。どこを視点にするかで存在するか存在しないか分かれるのではないでしょうか?有名な話に死んでしまった丹波哲郎さんは生前、死後の世界に地獄は有るのか?と言う問いに対して<有るけれど無い>と答えていたようです。つまり地獄のような所は有るけれど、死んだ場合好きな所に集まれるようで、地獄(殺人、盗み、血みどろの世界)のような所に集まる人はそこが好きで集まり、当人同士には天国のような場所で、一般の天国と言うイメージの好きな人にはとんでもない地獄に見えるそうです。変な回答ですみません。がんばって答えを見つけてください。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、なるほど。 見方によるって事ですね。 何が悪なのかは確定はしきって いないということでしょうね。 ご回答ありがとうございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.13

 こんにちは。補足要求に答えていただきありがとうございます。  ◆ ・・・それにこの世界には悪はない。」  ☆ これには 理由はつけていないのですね。それでは 措いておきます。  ★Q: この世界に悪は存在しないのか?  ☆A: 現象としての《悪》は 起こります。それが そもそも 《善の欠如》として想定される限りでは 《善》は 存在しても 悪は この善に付随しているという意味では 《存在》してはいないと考えられます。  そして《善》とは 《存在》のことです。生命存在であり 特には 人間から見た生命存在のことです。動物やほかの生物について その生命が 劣るとか いや大事だとか これを 人間が 考えるかたちで その《存在》が捉えられ それに応じて 《善》の想定がなされます。  この《存在なる善》に 傷をつける行為 これが 《悪》です。はじめから悪があるのではなく 善があるところに 悪が起こるのです。  存在に宿るみづからの自然本性に逆らうという意味で 善に傷をつけることとして 《うそ》が いちばん わかりやすいでしょう。したがって うそという現象は 起こります。そして その悪は たしかに悪と名づけますが 善の損傷の行為とその結果があるだけであって 悪というそのものは ないと言うのが――初めの想定に立つ限りで―― 妥当です。  箸で食べるか フォークでか あるいは 手でか この選択判断は――衛生上などの点で 大きな不都合がなければ―― 善悪に関係ありません。車が右を走るか左かは これも どちらを選択しても 善悪にかかわりません。どの例も いづれの場合でも 善なる存在のためになるように 自由に選べばよいはづです。  箸を右に持つか左にか これも 問題になりません。見た目に珍しかったり 社会通念に反するという場合があったとしても 善悪に関係しません。存在なる善をいつわるようなものではありません。したがって 通念上 左利きが 白い眼で見られるとしても 悪ではありません。  これは 現象としても 悪は起こっていないと思われる事例でしたが 現象としては起こっていると考えられる悪は あるわけです。  食べ物に 農薬が残留しているのを放っておいたり それを故意に混入したりすれば それは 善の損傷にかかわるので 悪です。  事故米は 善の損傷に どれだけ影響を与えるのか よく知りませんが その誤用の場合は 規則に違反するというかたちで 悪であるでしょう。規則は 善の保持を目的として決め合って作ったものですから。規則がまちがっていれば これを改めなければなりません。それを放っておくのは 悪だと認定されます。  このような情況を考える限りにおいてですが その《世界には 存在するのは 善だけであり それに付随して 悪という現象が起こり得る》という回答になります。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、なるほどー 悪は善に付随し、善があるから悪がある。 ということですね。 つまり、善の損傷が悪ということですねー ご回答ありがとうございました。

noname#80116
noname#80116
回答No.12

 ★ ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  先ほど一番右下のカテで、ある回答を見ていましたら  「この世界に悪は存在しない」という感じの回答が  ありました。  そしてその回答に賛同する人も何人かいたのですが。。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~  ☆ この《一番右下のカテ》とは どのことでしょうか? おしえてくださいませんか?

rin00077
質問者

補足

こんにちはー あ、これはですね。コミニティのカテだったのですが、 なぜかすべて削除されていただのです。 それで、簡単に。。 質問者「自分の容姿の事で質問者が落ち込んでいて、それで 相談しているのに、それに対して厳しい回答をするのは、 間違えていないか?」 回答者「そういう風に決めるてかかるのも、逆に回答者の考えを 無視している様に思う。やさいし回答だけがその質問者のためでは ない。それにこの世界には悪はない。」 というような感じでしたね~

  • phodumi
  • ベストアンサー率31% (6/19)
回答No.11

質問文の最後で、意味がねじれてしまっているように思えます。 既に10回答寄せられていますが、回答者の皆さんは意味を補完して回答されているのでしょうか? 私に理解力がないだけでしょうか? “では「この世界に悪は存在しない」という主張ができる[なされる]のは、どのような根拠にもとづいてのことなのでしょうか、わかる方いらっしゃいますか?” というような文で質問されるべきなのではないでしょうか?

rin00077
質問者

補足

こんにちはー ご指摘ありがとうございます。 まずこの質問は、私がわからない事を単純に、そのまま 質問とさせていただいています。 皆さんのご協力の下、広範囲のご回答をいただけることも 私にとってたいへん参考、勉強になっています。 個人個人のお礼のほうは、事情、理由があり、後でさせて いただくとして、全くの正反対の回答があったとしても、 その人の回答内容さえ理解できれば、どちらも正しい 側面はあると思います。どちらも理解できると思います。 また、「悪」の定義自体が元々あやふやなものであれば、 仮にご指摘の質問内容にかえたとしても、やはり いろいろな側面からの回答になるのではないでしょうか?

  • bakabona
  • ベストアンサー率40% (4/10)
回答No.10

あなたが、殺人犯を裁いて処刑したとしましょう。 これは善ですか?それとも悪ですか? 実際の物事は、善悪では絶対に割り切れません。 しょせん「悪」というものは、人間が人間を「裁く」ことを 正当化するための便利な概念にすぎない、という事です。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、なるほど。 もともと、人間が人間を裁くことは、疑問がある。 ということですね。 人が集まれば、秩序を保つために法が必要になりなる。 そして、法を守らなければ罰則を与える。 これは、これで人間社会を構築するためには仕方が ないことだともいえますが、その反面人が人を裁くと いうのに、違和感というか、疑問を持つ考え方もありますよねー ご回答ありがとうございました。

回答No.9

自分だけが善です。 自分は決して悪をすることができません。 その行為を世間、常識、道徳、倫理、宗教、哲学、教育、法律などが 悪だと言っても、たとえ、自分自身が、上述のもろもろが悪であると判断していることに悪意だったとしても、 さらには、自分自身さえ悪であることを感じてさえいたとしても、 その行為の実行は、その時点において自分自身にとって善であるという ことです。まぁ、善というかやった方が良いことですね。 >考えられることがあれば教えてください。 悪の存在否定にはなっていませんが、人間は、自己犠牲も含め、自分にとって善でないと行動しません。そういう意味ですべての行動は善である。つまり、悪はない・・・・と考えられることは考えられます。

rin00077
質問者

お礼

こんにちはー あ、なるほど。 悪の行為をして、他人には悪事と思われても 自分自身にとっては、それは悪ではなく善という事ですね。 ゆえに自分自身は悪いことができない。と、いう事ですね。 ご回答ありがとうございました。

noname#117439
noname#117439
回答No.7

流行の新聞記事の解説から始めます。 事故米騒ぎ。 現在の日本政府には米のミニマムアクセス、海外からの輸入が国際的取り決めによって義務となっています。 事故米はほぼ全てが輸入米です。 政府が予め事故米を承知で輸入した可能性は、国際的信用の観点からゼロパーセントに近いです。 農業と言う産業を維持するために事故米のレッテルを貼って用途を限定したに過ぎません。食べても安全です この新聞記事の語ることはどこにも悪党も罪人も欲張りも居ない、その証明です。 ところが世間は世の中に悪が居なくてもつい悪人を作ってとがめたがる。(生贄) これは言わば自分自身が悪意たるフィクションを内包しているゆえです。 この苦しみを逃れるのが哲学カテの他の方の質問で盛り上がっている(明白な)「偽善」です。 結論は、 もし悪人が居るならそれは自分自身のみ。 人間は未だ生贄を必要としている。

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