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宗教の種類は今後も増え続けるのか?

宗教は動物にはないものと思います。死人に対してお墓を作ったり花をお供えすることなどは、人間が進化した結果の宗教心です。その宗教心は国や地域でさまざまな既成宗教を生み出しました。ですがその反面科学や知識が進歩することにより、既成宗教の信憑性は低下しています。ですが自分で宗教を選ばない人達は先祖の宗教を引き継いでいる人が多数です。信教の自由ですから先祖の宗教から離れる人もいます。その人達は無宗教になるひともいますが、多数の人は理論的で科学的に近い宗教に惹かれるようです。その為、新興宗教が多数つくられてきています。私としては宗教の多くは必要のないものと思っています。この世にとって必要な宗教と必要でない宗教を分けることはできないでしょうか?ただ増え続ける宗教は馬鹿馬鹿しいだけです。できれば宗教は一つにまとめるべきだと思っています。誰にでも人間としての宗教心はあります。その意味をもう一度見直して、世界で一つだけの宗教をつくれないものでしょうか?

質問者が選んだベストアンサー

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回答No.14

そちらの質問は、“本来哲学が忘れたり、諦めたりしてはならないはずの問題”というふうに、 私はなのですが、 本気で思っています。 ごめんなさい。馬鹿にされてしまうかもしれないですが、その本気さの出どころを正直に書きます。 そのあたりの自己紹介を先に書きます。 わたしは、肉体労働者でほとんど本とか読んでいません。 アカデミックな哲学の世界の歴史とかを知らない人間なのです。 しかし、子供の頃 差別といじめから体を壊し何度も死の床をはいずった体験からか、物事を考えるのにいちいち徹底してその本質まで考える癖はついていました。 だからといってこの人生について解ることは、徹底して考えるほどに自分の未熟さ、青二才ぶり、甘さ、どうしようもなさ、小ささ、木の葉のような状態でしかなかったのですが、  自分の中では、これが60歳になってみて(50歳ごろ全体的にまとまったのですが) 物事は総合的にかんがえると(人生のことがらすべてをなのです。このOKウェブのカテゴリが無限にあるわけではないことから、60歳の思索者のそのへんを想像していただけると幸いです。)人間の能力はけして何もかも出来る可能性なんて持ってはいないけれど、 A地点からB地点までの一歩一歩の旅ならば必ず答えが見えてくるそういう確かな「可能性の大地」という世界、 つまり深く本質的にそして広く総合的に考えれば必ず 次への見とおしならば開けるはずで その頂点であるべき思索開拓の道が本来哲学であるはず、→ すなわち、この相対的は世の中にて、諦めていいような問題は存在しない。 哲学がそこにある限り、常に前進への道はあるはず。 という考えにいたっているというわけなのです。 宗教の問題に限らず、憎しみの連鎖の問題、生物の弱さの問題、医学の進歩の問題、経済の問題、外交のあり方の問題、大きくて不可能に思えてしまう問題も、 けして諦めてはならない。 哲学が諦めたらもちろんすべては絶望しかないのでしょうが、そんなことはありえない。という考えだということです。  今では、論理以上に「諦めない心」のほうが大事と思えるほどになっています。 ジョンレノンでしたか「宗教の無い世界を夢見てごらん、国境の無い世界を夢見てごらん♪」といった歌詞(くわしくは知らないのですが)の「夢」を音楽と詩で語っていますよね。 夢は 音楽哲学にしろ、言葉や詩の哲学にしろ そこから生まれたさらに進化した音楽や詩や文学にしろ、 裏のその哲学がどこまで煮詰められているかによって 実現へと近づいてゆくという理論もなりたちます。 私が33,4歳のころだったでしょうか、友達が泣きながらそのニュースを知らせてくれた事を憶えています。彼がピストルで撃たれて殺されていなかったら、どのような哲学をわたしたちに語ってくれたのか、生きていたなら彼の60歳の頃のお話を聞いてみたくなります。 へんな自己紹介ですが、ここまでをここでの自己紹介とさせていただいます。 紙数の都合で 回答自体はANO15まで筆を伸ばします。(一応最初の回答という形ですが) ***  paradox8様の質問文に直接対応した回答は次のANO15(から)となりますが、 まだ紙数がありそうなので、付け加えます。 私は上記のような「哲学人」なのですが、 最近、このサイト内にて、アカデミックな哲学の世界で“哲学の世界”自体が 膨大に分裂していてそのその思索における総合性を失ってるとかつかみがたくなってるとか聞いていますし、 また哲学の歴史自体が、何か個とか個性というあたりでもしかしたら へんな曲がり方をしてきてしまったらしいことも聞いています。  個とい概念はとても大事な人間性についての思索なのですが、絶対個という概念を 文字通り「絶対」に通じ合えないのだからそれが故にお互いを尊重しあうことが大事なのだとかいうふうな簡単な考えでまとまってしまっているらしいことも聞いています。  アカデミックな哲学が こんな地点から抜け出せないでいるというのが事実であるなら ちょっと信じられない世界です。 学者の卓上の論理というのは もしかしたら、生きる必死さ、真剣さに欠けているのかもしれませんね。 それだから この宗教の問題にも哲学が答えられなくなっているということなのかもしれません。 ここにそのような推理が働いてしまう者です。 でも、本来 人間の哲学の可能性を哲学すれば、深く広く総合的、本質的、厳密に考えれば そんなはずないと思う者の 私はもちろんその一人です。 私自身は、諦めません。  つづけます。

その他の回答 (15)

  • shift-2007
  • ベストアンサー率14% (143/1013)
回答No.5

キリスト教にしても仏教にしても、たくさんの宗派に分かれてしまっていますので、世界に一つの宗教を作っても分派してしまうのは目に見えているとおもいます。そして互いにわれこそが正統なりと主張しあうでしょう。 信仰と宗教を分けて考えたらどうでしょう。 >死人に対してお墓を作ったり花をお供えすることなど これは信仰だと思います。 各自がこのレベルに抑えておけばだれも文句は言わないので争いごとにはならないと思います。

paradox_8
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 私はまず宗教上での争いをなくす方法はないものかと考えています。信仰は個人のもので宗教団体とは関係ないものと思っています。同じ宗教をしているといっても狂信的な人もいれば、ただその宗教団体に在籍しているだけの人もいるでしょう。問題になるのは妄信する狂信的な人ですね。

  • magga
  • ベストアンサー率15% (56/359)
回答No.4

それぞれが見解の執着によって宗教をつくりその宗教に執着していますね。 その執着にまみれた見解を全て壊すことはほぼ不可能でしょう。 有る程度の水準の理性を持ち合わせていなければ今もっている見解を壊し新しいものに更新すると言うことは出来ないと思います。 そしてその水準に有る方は稀でしょう。 知らない→妄想→見解→宗教概念→執着→私は正しいほかは間違っている…と進むと私は考えてます。 そういう意味では「解らないことはわからないとし、論理的に道徳的に納得がいったことから、理性的に実証的に知る。信仰・信じるより、確認検証によって得る確信を持ったらどうでしょう。そして最終的にはありのままに知るところまでチャレンジしてみたらどうでしょう。」ということを目的とした反宗教的なパーリ語の仏教経典(原始仏教・上座仏教)の姿勢はこの見解の執着による宗教概念とはマ逆なものといえると思います。 新たに教義を根拠無く信じ仰ぐ類の宗教を立ち上げても、それも新興宗教ですね、来る人もいればこない人もいるでしょうし、それ自体が見解の執着による宗教概念となってしまうかもしれませんね。 かといって、見解の執着による宗教概念とはマ逆のものを作りたいと言ったら、「仏教の方法論」と同じものになると思います。 そもそも「~~教」といわれるものを信じているといっても、読み取る個人個人違うものを違う見解を信じているのでしょう。信じた時点で「自分は正しいほかは違っている」と言う考えに陥ってしまいますね。 そのような理由から一つに括ることは不可能と思います。 我々に出来ることは理性的なものの見方を出来るようになるための手助けぐらいでしょう。 論理的におかしいもの。実際とはそぐわないもの。苦しみを多く生むもの。などから、自己を守る理性を育む手助けを…。

paradox_8
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 >そもそも「~~教」といわれるものを信じているといっても、読み取る個人個人違うものを違う見解を信じているのでしょう。信じた時点で「自分は正しいほかは違っている」と言う考えに陥ってしまいますね。 本当にそのとおりだと思います。宗教を信じている人はほとんどが妄信に近いものです。それでいて「自分は正しいほかは違っている」と思い込んでいる現状を、全ての宗教者にまず理解してもらいたいものです。どの宗教者も自分の信じている宗教が正しいと思い込んでいることを理解し、お互いの宗教を尊重しあえることができれば一先ずは成功だと思います。

回答No.3

 創造界は、同じ普遍の原理野中で、一様にして、相似の繰り返しで成り立っていますよね。  しかし無数のヴァラエティを提示して、それが真実で実在だということなのですね。  その成り立ちは取止めもなくfractalで、どこまでもDroste的ですよね。  人も森羅万象、万物もなんと、一つとして同じものはなくても、実は、相似とfractal、Drosteの効果として成立してますよね。  そういう中で、一つの宗教は万古からこの地上には、この先取り留めない永遠にまでありえないでしょう。  万人が万数の宗教にある、ということは続くでしょう。  そういう中で一定のグループが出来、団体と為り、一宗教、宗派とでもなるのでしょう。これが歴史でしょう。  取り留めない創造界における人間の歴史ですね。

paradox_8
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 >創造界は、同じ普遍の原理野中で、一様にして、相似の繰り返しで成り立っていますよね。 歴史は繰り返すとトインビーなどは言っていましたが、全く同じ歴史はありませんね。相似の繰り返しで成り立っているように思えます。ですが多少なりとも、人間は歴史から学んで進歩している部分があるのではないでしょうか?もし退行しているのでしたら人類の未来は暗いものになってしまいますね。人類は歴史から学び最善の道を探すべきと思っています。

回答No.2

世界で一つだけの宗教は、神が自分で登場しても無理でしょう。 それに、宗教を一つにすることは非常に危険です。中世ヨーロッパのキリスト教を見ればそれは分かります。 一つの宗教は権力を生み、権力は腐敗を生みます。 様々な宗教があるからこそ、バランスが取れるんです。 そして、既存の宗教の腐敗に疑問を持ち、新たな解釈や、新しく指導者が生まれて新興宗教が生まれるわけです。 新興宗教が生まれ続けているということは、既存の権力に対しての疑問を絶えず持つ人がいるということです。 何も疑問を持たずに妄信したとき、悲劇が起こります。 だから、人間は、その悲劇を避けるために、意図せずにかもしれませんが、あえて対立を生んで、バランスをとっているんです。

paradox_8
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 >世界で一つだけの宗教は、神が自分で登場しても無理でしょう。 実際には神がいるのかいないのかもわかりませんが・・・ 人間は不完全だから戦争や宗教を生み出してしまうのではないでしょうか?神が人間を完全なものへ進化させられるのならば解決できるでしょう。この世を造った神が本当に存在しているのならば任せるしかないと思っています。

noname#117439
noname#117439
回答No.1

宗教の教義と言うのは生活習慣や考え方に影響を与えるもんじゃないと思います。 存在する神秘全てを神にする神道の特性でも理解すれば納得できるでしょう。 それは普通の生活文化です。 偏った見解に固執すると教団といいますか、派閥みたいなものが出来ると思いますが、それを信じている人から取り上げることは出来ません。 教団ってのはほっとくと人殺しまでしかねないほど危険ですから犯罪の証拠が挙がるまではほっといたほうが良いでしょう。 刑法で取り締まる犯罪だけでなく人心を惑わすことも犯罪です。 哲学的に話し合いながら信教の嘘を論破するのが犯罪の調査です。

paradox_8
質問者

お礼

回答をありがとうございます。 >哲学的に話し合いながら信教の嘘を論破するのが犯罪の調査です。 多くの人が宗教に問題を感じられていると思います。メディアが発達した現在だから、多くの人と宗教について議論できるはずです。信教の嘘を論破することは速やかに行うといいのですが・・・

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