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昔のボクシングの試合で(ホームタウンディシジョン)
少し前に、亀田興毅とファン・ランダエタとの試合が話題となりました。 亀田側が勝って、やれ八百長だのホームタウンディシジョンだのと 騒動になった試合です。 その試合騒動のニュースを見ていた私の父(もうすぐ還暦です)から 聞いた話なのですが。 今から3~40年くらい前、東南アジアの方で行われたボクシングの試合で、 日本の選手が現地の人と闘ったのですが、もう誰がどう見ても日本側の勝ち。 でも、向こうの国が勝ちという判定。 日本の選手はキョトンとした様子。 日本側がいくら抗議しても決して覆らなかった。 当時のテレビも「あれはおかしい!!」と騒いでいたのですが、うやむやに。 これが「ホームタウンディシジョン」というものだ。 今回の亀田の試合も、これに比べたら可愛いもの。 亀田のことでギャーギャー騒いでいるのは、この試合のことを知らない人だ、 と言っていました。 この試合のことを知っている人って、おられないでしょうか。 何年に行われた誰との試合とか。 相当昔のことですが、知っている方お願いします。 (ちなみに私はボクシングについては詳しくありません)
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ファイティング原田がオーストラリアのシドニーでチャンピオンのジョニー・ファメションに挑戦した試合だと思います。 挑戦者・原田が3度もダウンを奪ったのに判定負け!! ちなみにこの試合は原田がフライ級、バンタム級につづいて3階級制覇を狙ってフェザー級に挑戦した試合です。 当時はWBA、WBCに分かれておらず、階級も8階級しかなく(今で言うスーパー何々級というクラスはなかった)、世界チャンピオンの価値がものすごく高かった時期で、3階級制覇というのはめちゃくちゃスゴイ事でした。事実として原田は世界ボクシング殿堂入りしています。 *亀田がランダエダに3回もダウンを奪われたのに判定で勝ったなんてあり得ないでしょう。でも原田の試合はそれがレフェリーの手によって堂々と行なわれたのです。 以下、詳細を確認ください。 1969年7月28日、WBC世界フェザー級王者ジョニー・ファメション(オーストラリア)への挑戦が決まった。王者の地元シドニーでの敵地開催。原田の圧倒的不利は否めない状況だったが、原田はこの試合で2R、11R、14Rと3度のダウンを奪ってみせる。中でも14Rに奪ったダウンは強烈で、このダウンで王者のファメションは半ば失神状態に陥っていた。誰の目からも10カウント以内に立ち上がれそうにないことは明白だったが、この試合のレフェリーを務めていた元世界フェザー級王者のウイリー・ペップは、あろうことかカウントを途中で放棄すると失神していたファメションを無理やり立たせ試合再開を促したのだった。続く15Rを王者は必死の防戦で逃げ切り勝敗は判定にもつれ込まれた。それでも3度のダウンを奪った原田の勝利は揺るぎないものと思われたが、ここでもレフェリーを務めたペップは判定の結果が出る前に両者の腕を上げた。つまり、「引き分け」で王者の防衛ということだった。この結果に、地元でありながら王者とペップにはブーイングの嵐が起こる。逆に判定に不服を申し立てることも無く、潔く健闘を称えあった原田には惜しみないスタンディング・オベーションが贈られるという始末だった。しかし、これだけでは終わらなかった。レフェリーのペップは「引き分け」という判定を下したが、この時の試合のジャッジもペップ自身が一人で務めており(※当時の世界戦のルールで、判定は開催地ルールにより下すと決められており当時の豪州コミッションは、主審=レフェリー1人で判定を下すと定められていた)、しかもスコアシートを採点した結果、なんと「原田の判定負け」という結果だったのだ。当時の地元スポーツ新聞にはリング上で失神している王者の写真がデカデカと掲載されていたことから、いかに地元オーストラリアにとっても不名誉な勝利であったかが伺える。結果として、超がつく地元判定に泣いた「幻の三階級制覇」だった。翌年、ファメションは王者の意地と誇りを賭けて今度は原田の地元東京まで飛んできて再戦(日本で行われた初のWBCタイトルマッチ)を行ったが、原田はいい所が無いまま14R KO負けし、この試合を最後に引退した。
お礼
お忙しい中、大変ありがとうございました。 別の所で調べてみたところ、1964年に行われた 海老原博幸とタイのポーン・キングピッチとの試合で 酷い地元判定と言われた試合、のようです。 ありがとうございました。
補足
こんばんは。ありがとうございます。 先日、父に聞いてみましたが、 「ファイティング原田ではない」そうです。 昔のことで恐縮ですが、ご存知の方おられましたらよろしくお願いします。